第3話 二人の接点
春樹はホテル裏口の通用口から入って二階にある写場に定刻より早く着いた。勿論一時間も早く家を出ているのだから当然だ。問題は彼には珍しく空いた時間を家に戻り、朝食の後片付けを手伝わずにそのまま行ったからだ。口では手伝わずにそのまま行くと云っていたが、いつものように妻は期待していたはずなのに。最も期待を裏切らせたのは空いた時間が中途半端になったからだ。それも黙って写真を撮ったらもっと早く終わったものを娘がちょっと余計な話をしたからだ。
結局、友達の夫婦喧嘩を話題にした彩香は遅刻した。娘の遅刻の原因が話し相手になった自分にあったとしても、その事に付いては取るに足らずと、二人は何の反省もしていない。それどころか今日ものんびりと、写場の端に出した作業台を前にして、事務椅子に座りながら新聞を広げていたが、いつもより気分は落ち着かなかった。
彼は市内のホテルのテナントとして営業する写真室の室長としてシャッターを切るのが仕事だ。祝い事や神事、仏事その他人生の節目に於ける記念写真を撮るカメラマンだから平日は暇で、いつもこんな調子だが今日は少し違った。
今日は家を早く出て娘の写真を撮って時間が余っても、寄り道せずにそのままホテルの方角に向かって歩き出した。それは他人の揉め事であらぬ感情に支配されたからだ。そのあらぬ感情は、娘を最後に連写したその時に現れた疑念だった。
夫婦喧嘩した二人の心はギザギザだらけでどっちが悪い、と訊ねられた時が丁度そうだった。あの時は状況が解らず「人を思う気持ちは大小あっても全て真実なら、そして心に
彼の心の奥底にあるドロドロとしたあの女の面影を知らぬ間に娘に注いでしまったのか。おそらく心に残るあの女の面影を、良いところも悪い癖も無意識に躾けてしまったのだろうか、と考えると背筋に冷たいものが走った。
今の娘は次第にその顔付きもキリリとして似てきている。そんな娘を観ても妻は、何処まで気にしていないのか気になる。過ぎ去った月日が次第にその面影を消してゆくのだろうと思うが、春樹には時々鮮明に浮かぶ時もあるからだ。それでもあれはいつだったかと、思い出せないほどの月日が過ぎてしまった。
その当時、彼は画学生でその女はモデルをやっていた。同棲するとたちまち収入が不安定になった。そこでモデルの女が伝を使って画学生に写真の仕事を斡旋した。その写真館はあるホテルにテナントとしてスタジオを設けていた。彼はそのホテルの写真室へ助手として働き出した。その隣の衣装室に居たのが彼の妻になる響子だった。
響子が隣の衣装室に新入社員で配属されたときには、既に彼はあの女と同棲したのを知っていた。女は、時々は写真室に来たついでに、衣装室にも寄って響子とたわいのないお喋りをして帰っていたからだ。時には誘い合って一緒に河原町まで出るようになってしまうぐらい話が合うようだった。だから未だに響子はあの女は身勝手過ぎるとぼやいていた。それだけに此の時のショックを、受け止めてくれた響子の献身的なものに、応えるためにも結婚した。
その妻に言わすと十三年しか経っていなかった。そやった、その年に娘が生まれたんやと想い出すと、あなたはええ加減な人なんだから、とも言われたが。所詮は真面に生きてる奴がどれだけ居るんだと妻に居直ってしまった。それほど迄に春樹は、あの女に振られてから、意欲を阻害していて、最低限の生活で満足してしまった。いや自分の趣味に没頭してしまった。と言えば聞こえが良いが、入れ込んでしまったのだ。しかもそれは趣味の範囲を逸脱しないままに、強いて云えば上手くならないままに時間だけが過ぎていった。
此処で春樹の名誉のために付け加えると、振られたと云うより突然何かに取り憑かれたようにその女は春樹を罵倒して去って行ったのだ。しかもその前後は狂乱に近いほど、その女は取り乱していた。泣き叫ぶかと思いきや狂ったように嗤って、揚げ句は
春樹はいつもの事だと笑って見送ったが、とうとうそのまま帰ってこなかった。だが一度は実家に帰ったが、またこの町に戻って来た。そして今度は真面な女に戻って部屋に訪ねてくると淡々と別れ話を告げられた。以前に狂ったように飛び出した女も舞い戻ると、今、目の前で冷静に彼の欠点を延々と挙げて『だからあなたとは好きでも一緒には暮らしていけない』と矛盾する言い訳を残して消えていった。
でもこんな別れ方をした二人でも、出会いは普通の男女の自然な成り行きだった。だから
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