通り過ぎた日々

和之

第1話 雪の朝

 陽の光が分け隔てなく多くの人々の頭上に耀くように、今日も遅い春の日差しとなって寝込む男の布団を剥ぐように照りだした。やれやれ朝かと山尾春樹やまおはるきは眼を細めるといつもより眩しい。思わずカーテンを開けると薄く雪が積もっていた。朝陽を浴びて氷砂糖のように耀く雪景色を見て布団を蹴り上げるように飛び起きた。娘の彩香あやかは学校に間に合うようにもうとっくに起きて食卓で朝食に付いていた。ホテルのテナント勤めの山尾は娘より一時間も遅く起きる。

 なのにこの日は珍しく雪が積もって早く起きた。それより珍しいのは彩香より先にあの人が起きて来たと騒ぐ妻の響子きょうこだ。だが直ぐには食事をしない。この人の分はまだ用意してないからだ。いつもならそのせいか黙って新聞を読み出していた。そこが手の掛からない夫の特徴といえた。一事が万事この調子で消極的なのだ。いや彼にすればマイペース、悪く云えば自己中心的なのだ。

 その夫が此の雪を見てそれで起きて来て食卓のテーブル椅子に座った。隣の彩香は驚きながら食卓のテーブル椅子に座っていた。こちらは定刻だがいつもと違う夫の光景に妻は驚かなかった。それが春樹の癖だからだ。そして並んで食べ始めた二人を妻は食卓の向こうで交互に眺めた。

 そしてそこへ割り込むと妻の響子は何なの今日は、と独り急に増えたのを煩わしそうに急いで夫の朝食も用意した。それに「お父さんなんなの」と長い髪を振り回して異様に娘の彩香も反応した。

「お前の写真を久しぶりに此の雪を見て撮りたくなったんや」

「全くのお天気屋さんなのね、それだけで何なのあなた子供みたいに雪を見て飛び起きて来るなんて」

 と妻は呆れてしまった。

「こんなチャンスがそうそう有るわけがない写真撮らなあ」

 と慌ててご飯を駆け込む姿はどっから観てもガキだ。まだゆっくり食べてる娘の方がしっかりして可笑しくなってくる。こんな人を切った張ったと狂ったように惚れ込んだ女が居たのが、嘘のように見えて来るから、時間と云う流れが何だが馬鹿馬鹿しくなる。あの狂乱から醒めた頃に授かったのが一人娘の彩香だった。その彩香の写真を子供の頃は良く撮っていた。

 夫の春樹は絵に凝っていたが、安定した社会生活の為に写真館に勤めた。それから写真に凝り出してしまった。特に娘の写真は良く撮った。娘も途中からテレビの影響か色んなポーズを勝手に付けるようになった。でも中学へ行きだしてから撮られたくなくなったようだ。昔のように休みの日に一緒に出なくなってきた。そりゃそうだお母さんと一緒に歩いてももうお父さんとは中々出歩きたくない年頃になったんだ。

 そんな彩香も今は中学一年生で年が明けて冬の季節が過ぎると二年生になる。最近は無視されていたが、久し振りの此の雪はまたとないチャンスに写ったようだ。さっそく春樹は彩香にあれこれと頼み込んでいた。余りにもそれがいじらしく見えたのか響子も「中学生になってからお父さんに写真撮って貰ってないんやね、せっかくの雪景色やのにその中心に収まるものがなかったら撮りがいがなくてお父さん困ってる」と口説くのに協力してくれた。

 彩香もここまで反抗期らしいものはなかった。が代わりに親に良く意見を言うようになった。妻にしてみればそれが反抗期よと娘に言われても承服し難い。しかし夫はなるほどなあと頷いてしまった。それを妻はいつも呆れて見ていた。

 彩香はいつもより遅い夫のペースで食べている。だがそれでは学校に遅刻するどころか写真が撮れないと急がした。

「彩香サッサと食べて出かけないとお父さんは十分時間があるからペースに合わせていたら今日は早い目に出掛けないと学校に間に合わないわよ」

「判ってるわよでもいいなぁ、お父さんはこれからゆっくり雪景色を撮って十時に着けばいいんだから学校もそうすれば良いのに」

「馬鹿ねその分遅くまでお仕事があるでしょう」

「あたしだってその分夜遅くまで勉強してるじゃん」と見得を切った。

「たまにはねぇ」

 妻は思い切り皮肉を込めて言った。夫はニヤリと笑って彩香を今一度急かした。

「今日は彩香と一緒に出て久しぶりに雪が降ったからこんな雪景色を逃したら次はいつになるか分からん所やから娘を撮ってからそのままホテルへ行くか」

「あなたじゃあ今日は一旦帰らないんですか彩香を撮ったら一時間も何処へ行くの」

 妻の鋭い目を見て余計な事を言ったがもう間に合わない。

「淡雪はグズグズしていると直ぐに見納めになるからね」

 夫は今朝の気まぐれを雪になすり付けるが、陽が昇ればすぐ溶ける都会の雪には、誰もが納得しているから異議はない。

「それって早く起きて写真を撮るのは良いけれど、そのまま行ってしまうなんてそれって調子良くない?」

 妻は朝の早い分、戻って来てたまには今朝の後片付けをしてもバチが当たらないのに、と娘の撮影に協力したのをぼやいていた。

「彩香も雪景色の写真なんてめったにないだろう」

「そうねそんな写真なんて何十年振りかしら」

食後も春樹が手伝わないで、そのままどっかでとぐろを巻いてしまうのに、響子は怒り心頭して二人に当たり散らした。これには彩香も慌てて父と一緒に出た。

 平日の朝に雪を背景に写真を撮る。安い給与生活者には優雅と云えば優雅だが、いつから彩香も世間に合わそうとしない夫に似て来たのかしら。そう云いながらも彼女も湯飲みを両手で抱えて、茶道よろしく茶碗を何回かまわして呑んでいた。


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