第36話 揚げ物挑戦宣言、彼女さん
「三月君、私そろそろ揚げ物に挑戦したと思ってるの」
「どうしたんだ水瀬さん。何があった? 俺なら何でも聞くから、話してみてくれないか?」
「なんか揚げ物を作りたいって言っただけなのに、凄い心配されてる!」
とある週末。今日も今日とて、俺は水瀬の家に料理を教えに向かっていた。
本日の水瀬はベージュのだぼっとしたTシャツに、黒色のロングスカート。少し落ち着いた印象を持つ服装をしており、いつもよりも大人らしさを感じた。
ご飯を作る食材を買いに行く前に、少し部屋で涼んでから買いに行こうということになり、俺達はエアコンの効いた部屋で冷たいコーヒー飲んでいた。
そんなゆったりとした時間を過ごしているときに、突然そんな事を言われたのだから、こんな反応にもなるだろう。
「そりゃあ、水瀬さんが自暴自棄になっていたら止めるさ。一体何があったんだい?」
「なんか三月君の口調がいつもよりも優しくなってるんだけど! それと自暴自棄なんかじゃないんですけど!」
「自暴自棄じゃない? それなら、なんで揚げ物に挑戦したいなんて言い出したんだ?」
「別に深い理由はないよ。たださ、私もそろそろ料理レベルを上げたいなと思って。えへへっ、揚げ物だけにって♪」
「ふざけるてると命を落とすことになるぞ」
「揚げ物ってそんなに危険なものなの?!」
水瀬は軽快なツッコミを交えながらも、揚げ物をするということに対して引かない様子でいた。おそらく、何かしら思う所があるのだろう。
俺は水瀬がその理由を口にするまで、静かに待った。すると、水瀬はぽつりぽつりと言葉を漏らすように口を開いた。
「最近はさ、焼いたり煮たりとかしてきたし、あとは揚げ物できれば一通りは料理できるってことになるでしょ?」
「まぁ、そうなるかな」
なんやかんや水瀬には料理を色々と教えてきた。初めのうちはどうなるのか不安だったが、最近はしっかりとした料理ができることも増えてきていた。
「だからさ、たまにはちょっと難しいのにも挑戦したいなって。だめ、かな?」
水瀬は恐る恐るそう言うと、やや上目遣いな視線をこちらに向けてきた。
料理のレベルを上げたいという前向きな姿勢。あんなに苦手だったものに自ら手を出し、それに挑戦したいと言っているのだ。
それだけ一人暮らしのスキルを磨きたいということなのだろう。それなら、そんな気持ちを尊重したいとも思ってしまうものだ。
「分かった。そういうことなら、全力で協力しよう」
「本当?!」
「ああ。ただしばらくの間は、揚げ物をするときは俺がいるときだけにしてくれ。水瀬さんに何か起きたら、俺も悲しいからな」
「わ、分かった。うん、そういうことなら」
水瀬は少し照れるように頬を赤らめながら、小さく数度頷いたようだった。
こうして、水瀬の揚げ物編がスタートしたのだった。
「まず初めに、揚げ物をする上で必要なものを揃える」
俺達は食材とその他の物を揃えるため、いつもの最寄りにあるスーパーに併設されている百円ショップに来ていた。
「必要なもの?」
「ああ、まずは調理器具だな。水瀬さんの家にこれはないだろ?」
俺はそう言って、目的の物を手に取った。
俺の手にはステンレス製の金魚すくいのぽいとお玉が合体したような調理器具があった。
「なにそれ?」
「え、名前? えっと、あ、網じゃくしというものだ!」
「あ。今、三月君商品名チラ見した」
「う、うるさいな。調理器具名なんて覚えてないんだよ。これがあるとないでは全然違う。あと、さいばしマジで重要」
「さいばしだけだとダメなの?」
正直、揚げ物をさいばしだけでやる人も多いと思う。全然それがダメなわけではない。むしろ、手馴れた人ならば、それで何も問題はないだろう。
「ダメじゃない。べつに、俺はなくても平気だけど、水瀬さんはあった方がいい」
「あー、少しバカにされた気がするな」
水瀬はそう言うと、少し不満げな視線をこちらに向けていた。自分の料理スキルが高い物ではないことを理解しているせいか、その目はいつも向けられるものよりも少し弱かった。
変に誤解されて後からへそを曲げられるよりも、今のうちに正直に言ってしまった方がいいか。
俺はそう考えると、水瀬から視線を外して言葉を続けた。
「水瀬さんは手とか綺麗だし、あんまり火傷とかされたくないんだよ」
「え、あ、そういうことだったんだ。えっと、ありがとう」
再び水瀬の方に視線を向けると、水瀬は微かに頬を赤らめながら自身の手をさすっていた。
水瀬は褒められたことが照れくさかったのか、微かにはにかんだような笑みをこちらに向けていた。
そんなこともあって、少しだけ甘い空気が二人を包んだような気がした。だからだろう。俺はどこかで安心していたのだ。
ここはいつものスーパーではなく、併設されている別の店だから大丈夫だろうと。
水瀬の後ろに通りかかったおばさまを目にした瞬間、俺は背後を確認した。すると、俺の背後には俺の知っているおばさまが二人。隠れるようにしながら俺達の方に生暖かい目を向けていた。
くそっ、囲まれた!
俺は自身の危機感の薄さを後悔したが、時はすでに遅かったようだった。
『あらあら、綺麗な手をしているんだからですって。ふふっ、その綺麗な手で普段ナニをしてもらっているのかしらね』
『きっと、汚す前提の発言なのよ! 家に帰ったら『その綺麗な手でしてくれる?』って耳元で言うんだわ! きゃーっ!』
『若いっていいわ~。若いって……いいわ~っ!』
俺の周囲で聞こえるおばさま達のガヤ。それによって、俺達の少しだけ甘い空気はがらりと別の物に変えられた。
昼間からどキツイぞ、おばさま達!
俺は普段下ネタ製造機の時光と一緒にいるから耐性はある。それでも、俺達を対象にそんな事を言われると、どうしても体が熱くなってしまう。
そして、下ネタ耐性がない水瀬はそれをもろに食らってしまったらしい。
おばさま達の妄想の世界に引き込まれてしまうのは、いつだって水瀬が先なのだ。
「み、三月君が私の手を……~~~~っ、あぅ」
水瀬は熱でもありそうなほど赤い顔をしていた。その熱は耳の先まで到達し、その耳を真っ赤に染めている。極限まで恥じらいを受けたかのような目元は、微かに湿り気を帯びていて、頭は茹でられたように、ふらふらとしていた。
「帰ってこい、水瀬さん! 俺はまだ何もしてないぞ!」
俺はこれ以上ここにいると、水瀬の頭が熱によって破裂しそうだったので、水瀬の腕を取ってこの場を離脱することにした。
『あら、まだですって。これからしてもらうのね。いいえ、今すぐに、かしらね?』
『手を汚したくせに、その手の掃除をお口でさせる気よ! 『綺麗な手が汚れちゃったね。ほら、そのお口で綺麗にしてあげなよ』とか言うつもりなのよ! きゃーっ!』
『若いっていいわ~。若いって……いいわ~っ!』
なんとかおばさま達の声を振り切って、俺達はその場を後にすることができた。それでも、水瀬が簡単におばさま達の作り上げた妄想から帰ってくることはなかった。
「……うぅ。三月君が、三月君が、私の手でいやらしいことをさせた上に、お掃除と称して、追加でいやらしいことをさせるんだって言って私を辱めてくるぅ」
「俺は本当に何も言っていないわけでそんなことをさせるなんて考えてもいないから誤解しかしないような発言をしないでくださいお願いします何卒!」
ちくしょう、いつの間に百円ショップまでもおばさま達のテリトリーだったか!
ていうか、最近行く店の店員とか客とかなんで変な人しかいないんだよ!
俺はそんな誰に向けていいのか分からない不満を心の中で叫びながら、レジを通して百円ショップを後にしたのだった。
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