第七話 二人の男

 美織の部屋にあったすべてが撤去されたのは、午後七時。業者も消え、がらんとした部屋の壁や床は幾つもの染みができていて、美織の母親はこれから掃除をすると言っていた。私たちも手伝うと申し出たものの、時間が遅くなるからと断られてしまった。


 私は文葉の部屋に招かれて、一緒に夕食を食べた。文葉が手際よく用意してくれたのは、炒飯と卵スープ。途中で私が惣菜店で買った唐揚げとサラダを添えるとお腹いっぱい。食器を片付けて、食後に緑茶を淹れてテーブルに座った。


「いやー、あれだけの量あっても、人数いると物凄く早いねー」

 文葉が疲れたと苦笑する。作業途中、業者は増員を頼んで十名近い人が来た。そうでなければ、明日になっても終わらなかったかもしれない。


 美織の母親の前では言えなかったことを思い出して、口にする。

「あの手の業者って、後で法外な値段吹っ掛けてくるって思ってたけど、何も無かったね」 

「それは不思議だったけど、お金になりそうな物が結構あったから儲けあると思うよー。だから何も請求されなかったんじゃないかな」


「ブランド物なかったけど、それでも儲けありそう?」

 クローゼットもすでに空になっていた。ブランド物に興味が無くて全然わからない私と違って、文葉はいろんなブランドを知っていた。


「目立つロゴ付いたのは無くなってたけど、ぱっと見でブランド物ってわからないのが残ってた。オペラピンク色のでっかい玩具みたいなトランクあったでしょ? あれ、プレミアついてて中古で二百万くらいするはずだし、カビ落としたらそこそこいい値段になると思う。他にも、赤いハートの鞄あったでしょ?」

「え……あれもカビてなかった?」

「あれも多分ブランド品。世界限定二十個とかそういうの。本物だったら中古でも八十万くらいかな。他にも――」


 文葉が言う物を思い出してみても、どれもこれもカビや謎の染みがあって、触りたくなかったから業者に任せたという記憶しかない。大体、一度カビた鞄を欲しいとは思えない。


「ブランド物も全部売って、あのマンションも売っちゃうんじゃないかな。……あのね、事件の時に重体になってた人、亡くなったんだって。他にも骨折った人とかと揉めてるみたい」

「どうして? 美織は事件の被害者でしょ?」


「そうなんだけど、遺族は納得できないって言ってるらしいの。突き飛ばした犯人も見つからないし保険屋も渋ったりで、金銭面でかなり面倒なことになってるんだって」

「……理不尽すぎ……もう信じられない。何で殺された方が加害者みたいにされるの?」

 理解不能で頭が痛い。死人に口なしという言葉が頭に浮かぶ。死んでしまったら一方的に言われるまま、されるがまま。本当に悔しい。


「蓮乃、今日も泊っていく?」

「ありがと。でも、仕事の調べものがあるから、今日は帰るね」

「そうなんだー。残念ー」

 ふと文葉の顔を見ると、またこけしのようなあの御札の顔に見え、それは瞬きで元に戻った。


「蓮乃、どうしたの? 何か驚くことあった?」

「えーっと、何か私、疲れてるみたい」


「そりゃそうよ。お昼抜きで、あれだけの部屋片づけたんだから。ダイエットになったかもしれないけどー。ちょっとは痩せたかな?」

「夜にこれだけ食べたらプラマイゼロでしょ」

 文葉の明るい笑顔を見ていると、ほっとする。本当は一緒にいたいと思いながら、私は文葉の部屋を後にした。


      ◆


 自分の部屋に戻ってから、七神にメールを送ろうとして文面に悩む。無視したのは何か理由があると思ってはいても、気になってしかたない。


「電話……って言っても……こんな時間かー」

 時間は午後十一時。何時でも良いとは言ってくれてはいたものの、緊急時でもないし、親しくもないのに電話をする時間じゃない。ならばメールと思っても、何を書けばいいのかわからない。


 仕事中だったからと言われると思う。それでも全くの他人のような顔で応対されると寂しい。

「あ。……そっか。寂しかったんだ、私」

 綺麗な護符をくれても七神にとってはただの知り合いで、それ以上の存在じゃない。……七神に親しみを感じているのは私の方だけなのかも。


 ペンダントの桜を指で触れると、心が緩む。いつの間にか長年憧れていた朝木より、七神の方が気になっていることに気が付いた。


 明日は日曜。洗濯して掃除して。一週間溜めた家事が待っている。息を吐いた私は、本を読むのを諦めて眠りについた。


      ◆


 夢の中、私は乾いてひび割れた大地に跪き祈っていた。白い着物に朱色の袴、神道の巫女のような装束。長い長い黒髪が乾いた風に舞う。


『お前は何を祈っているのだ?』

 私の祈りに、優しい男性の声が答えた。その姿は見えずとも、包み込まれるような安心感が漂う。

 

「龍神さま、お願いです。この村に雨を降らせて下さい」

『この村を護っていた神は、村人に愛想を尽かして去ってしまったのだ。全員が感謝を忘れ、神の存在を忘れてしまった。その罰を受けているだけだ』


「そんな……それなら、私が感謝を捧げます。お酒もお持ちします」

『……わかった。お前が願うのなら、この村も私が加護しよう。雨を降らせ、豊穣の約束をしよう』

 その声からは苦笑する雰囲気が滲んでいても、とても優しい。


「ありがとうございます」

 みるみるうちに、空は黒い雲に覆われて大粒の雨が大地へ降り注ぐ。どこからともなく、雨だと歓声が聞こえる中で空を見上げると、雨が顔へと降り注いだ。唇へとその粒を感じると、まるで優しくキスをされているような気がして、頬へ熱が集まる。濡れた髪と着物が肌に貼り付き、まるで抱きしめられているよう。


『おい、帰るぞ。雨乞いの儀式は終わりだ』

 背後から聞こえてきた男性の声で、私の体が強張る。息を整えて、ゆっくりと振り返ろうとしたところで唐突に目が覚めた。


 目の前には、いつもの白い天井。私は自室のベットの上にいた。

「えーっと。……あいたたたたたた!」

 起き上がろうとして、全身に激痛が走った。これはあきらかに筋肉痛。悶絶する間に、夢の内容は記憶から消え去っていた。


     ◆


 週が明けて月曜日、私は酷い筋肉痛に悩まされていた。日曜日よりはマシな気がしても、何をするにしても体が痛い。同僚にも心配されて、引っ越しの手伝いをしたと嘘を吐く。


 早く帰ろうと思っていたのに、注文していた本の入荷日だと気が付いて書店へと向かう。後日でもいいだろうと思ったものの、この三週間は新しい本を買いに行く余裕はなかったから、新しい本の匂いに浸りたくなっていた。


 本を買って階段を下りかけた時、朝木と出会った。

「あれ? 賀美原さん?」

 今日、朝木は美術館に行っていて、画廊では出会わなかった。


「朝木さん、こんばんは」

「良かったら久々に一緒にどうかな? もちろん僕がおごるよ」

 笑顔の朝木の誘いをどう断ろうかと迷って、もしかしたら七神がいるかもしれないと思いついて承諾した。


 朝木がバーの扉を開くと、カウンターに七神の姿が見えた。黒色のジャケットにフード付きの灰色のカットソー、ジーンズというラフな格好が似合っている。


「七神、久しぶりだな」

 朝木の言葉で視線を向けた七神の顔は、美織の部屋で見たものと同じで冷ややかで横柄な雰囲気を湛えていた。


桜大おうだいが女連れとは驚きだな。明日は雪でも降るんじゃないか?」

 朝木の名を呼ぶ七神を始めて見た。困惑する中で座るようにと促され、七神と朝木に挟まれた状況が落ち着かない。


 これは早く帰ろうとショートカクテルを頼んだ後、朝木が口を開いた。

「賀美原さんとは、初めて会ったのか?」

「……土曜に顔は見たな。あいつの作った護符持ってるだろ」

 七神をあいつと呼ぶ、この人は誰だろうと考えて双子かと思いつく。それなら無視された理由もわかる。あの時、声を掛けなくて良かった。


「何かヤバイのに狙われてるらしいよ。冬登ふゆとがとても気にしてた」

「あいつ以上にヤバイのはいねぇよ。……そうか。力を使い過ぎたから俺が出てこれたのか。それなら感謝だな」

 力を使い過ぎた? 出てこれた? 全く意味がわからない。私の疑問が表情に出てしまったのか、七神が笑って朝木に話し掛けた。


「桜大、説明してやれよ」

「どうしていつも面倒を僕に押し付けるかな……。まぁ、いいや。七神は二重人格なんだ。子供の頃から、解離性同一性障害っていう診断が出てる。主人格で兄が冬登、今、表に出てる人格が弟の春人はると。冬登が霊能者の力を使い過ぎると力を溜める為に眠って、その間春人が替わりに出てくるらしい」


 双子ではなく二重人格。物語では読んだことはあるけれど、実際はとても大変なことだと思う。


「俺たちが入れ替わってもイヤな顔一つしないのは桜大だけだな」

「僕だって最初は驚いたよ。でも別人って思えばどうってことないからね」 

 そうか。同じ人ではなくて、別人と思って接すればいいのか。


 バーテンダーが私に選んだのはバレンシア。朝木にはホワイト・レディ。グラスを空にした七神はスティンガーを頼んだ。作り方を見ていて気が付いたのは、どちらの七神も強いお酒が好みらしい。……贈った日本酒は、飲んでもらえただろうか。


「あいつはお前のことが気に入ってるみたいだな」

 頬杖をつきながら、七神が私を見て笑う。その笑顔はやんちゃな少年のようで、どきりと胸が鳴る。


「あ、あの……それは……」

 どうしてそう思うのだろうか。

「でなけりゃ、いくらヤバイのに狙われてるからって、そんな本気の護符は渡さねーよ」

 本気の護符。その言葉がくすぐったくて、頬が熱くなっていく。慌ててカクテルを口にして、アルコールのせいにする。


「本気の護符って何だ?」

 朝木の疑問に反応した七神が、突然私の左腕を掴むとブラウスの袖からブレスレットが覗く。


「ほら。金剛石使ってるだろ。水晶より跳ね返す力が強いが、これに力を込めるのはあいつでも一苦労のはずだ」

「……あ、それが護符だったのか……最近着けてるから気になってたんだ」

 そう言いながら朝木は七神の手をつねり上げ、七神は顔をしかめながら私の腕から手を離す。


「おいこら。随分乱暴だな。桜大、お前もこの女が気に入ってるのか?」

「優秀な後輩は大事にしないとね」

 朝木は、そう思ってくれていたのかと嬉しくもあり、少々残念な気持ちもある。


「それはおごってやるから、飲んだら帰れ。疲れているんだろ? 無理はしない方がいいぞ」

「何故、わかるんですか?」

「触れば気が滞ってるのが鈍い俺でもわかる。風呂入って早く寝ろ」 

 とても横柄な態度で偉そうな言葉遣いでも、その内容は優しい。性格が違っても、根本で共通しているのかと妙に感心してしまう。


 そんなやり取りを見ていた朝木は、明らかに狼狽していた。

「賀美原さん、誘ってごめん。気が付かなかった」

「単なる筋肉痛ですから大丈夫です。最近こちらに来ることがなかったので、気分転換になりました」

 七神が私を無視した理由もわかって、すっきりした。誘ってもらって良かったと心から思う。

  

「筋肉痛? 絵の搬入で?」

「仕事ではなくて、土曜日に友人の部屋の片づけを手伝っただけです」


「ほー。土曜の労働が月曜に筋肉痛か。歳食うと遅れて体にくるっていうのは……」

「まだ二十六です!」

 意地悪過ぎる七神の言葉が頭にきて、ぺちりと腕を叩いて抗議してしまった。一瞬目を丸くした七神がげらげらと笑い出し、朝木が苦笑する。しまった。子供っぽい行動をしてしまったかもしれないと、体を小さくして猛省してみても遅い。


「今のは七神が悪いな」

「そうか? 俺は真実を……っと、舌禍には気をつけないとな」

 今日の七神の表情は豊かで親しみやすい。意外とよく笑う人だと思いながら、もう一人の七神の優しい笑顔を思い出す。


「ほれほれ。早く飲んで帰れ帰れ」

 からかうように笑う七神に言われるままカクテルを飲み干すと、朝木は私を送ると言って立ち上がった。一方の七神は座ったまま。

 

「次に会った時、俺のことは春人って呼んでくれ。じゃあな」

 軽く手を振る七神にお礼を述べて、私は朝木と帰路についた。

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