詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない
安路 海途
プロローグ
(最初の瞬間のすごく大きな変化)
――例えばそれは、降ってきた桜の花びらが指先にのるようなことだったのかもしれない。
※
高校に入学してまもなくの頃、あたしは北棟にある文化部の部室前まで来ていた。
別に、たいして興味があったわけじゃない。ただのちょっとした、探検のつもりだった。文化啓蒙的な活動なんて、あたしの柄じゃないのだ。
北棟には誰もいなくて、まっすぐな廊下だけがずっと先まで続いていた。斜め上の空からは午後の陽ざしが差し込んで、窓の形をくっきりした光る影にして地面に貼りつけている。放課後の喧騒は不思議なくらいどこにもなくて、廊下は洗いたてのシーツみたいな静けさに覆われていた。空気は必要以上に冷えびえとして、世界はまだ冬のことを忘れられずにいるみたいでもある。
廊下にはいくつもドアが並んで、そこが何部なのかを示すプレートがつけられていた。扉はどれも閉まったままで、黙ったままじっとしている。まるで、大人しい犬たちみたいに。
でも歩いていると、そのうちの一つだけが開いていることに気づく。
あたしは何気なく、その部屋をのぞき込んでみた。特にどうしたいというわけでもなく、道に落ちていた、変わった形の小石を拾うくらいのつもりで。
そこはよくある部室と同じで、小さな部屋だった。教室の半分もないくらいの空間が、やや縦長に広がっている。部屋の真ん中にはそれと平行になるようにして会議用の長机が二つ、くっつけて置かれていた。机のまわりを学校の備品らしいパイプイスが、何脚が囲んでいる。
パイプイスの一つには、女子生徒が一人だけ座っていた。
――本を読んでいるみたいだ。
扉の前に立つあたしの位置は、そこからは斜め後ろにあたっていた。ちょっと距離はあるけれど、あたしからはその人の横顔がよく見えて、たぶんその人からはあたしのことがよく見えない。
あたしは何故だかわからないのだけど、その人のことをじっと見つめていた。何というか、よく晴れた日の夜空を見上げるみたいに。
部屋の中にはその人しかいなくて、塵の一つ一つ、物音の一つ一つまできれいに片づけられている感じだった。窓からはどこかの有名な絵から持ってきたみたいな光が差し込んで、その人の横顔を照らしている。
机の上に置かれた本に、その人は静かに手を触れていた。たぶん蝶の羽をつまむのよりも、もっと静かに。そうやって本のページを読んでいくその視線は、何だか親切な神様が世界を祝福しているみたいでもあった。
それは、とても静謐で、繊細で、厳粛で、神聖な光景だった。
それは、今にも壊れてしまいそうな、今にも消えてしまいそうな光景だった。
――まるで、きれいな雪の結晶が、手のひらの温度で溶けてしまうみたいに。
どれくらいそうしていたのかはわからないけれど、あたしは案外、長いことその人を見つめていたらしかった。小さな気配が積みかさなって、その人はあたしのことに気づいたみたいである。
本から顔を上げて、その人は視線を巡らせる。ページを繰るのと、同じくらいの速さで。
そして――
あたしと、目があった。
まごつくあたしとは違って、その人は落ちてきて何年もたった隕石みたいに落ち着いていた。たぶん、あたしの無作法にも気づいていたけど、そのことをおくびに出したりもしない。
イスから立ちあがって、きちんとした器具で固定したみたいにあたしのほうを見る。そうして、言うのだった。
「――よければ、どうぞ」
その声は、もちろん強制なんかじゃなかったし、かといって招待というほどのものでもなかった。相手にちゃんと、断わるスペースを残しているというか。本の帯に書いてある、控えめな広告に近かったかもしれない。
とはいえあたしとしては、少しだけ迷うところだった。そこが何なのかも、その人が誰なのかも、よくわからなかったから。
でも――
結局、あたしはその人の言葉に従っていた。開いたままの扉を抜けて、部屋の中に足を入れる。まさか、お菓子の家を食べさせられるわけでもないだろうし。
部屋の中は特にこれといって目立ったところもなくて、あたしはまだそこが何の部室なのかわからずにいた。とりあえず、怪しげな宗教団体や魔女の隠れ家でないことだけは確かだ。
そうやってきょろきょろしていると、不意にその人が口を開いていた。
「――あなた、一年生ね」
「え?」
訊き返したのは、その人の言葉が質問でも疑問でもなくて、軽い断定だったからだ。
「どうして、わかったんですか?」
あたしはいかにもまぬけっぽく言った。とはいえ、あたしが一年生なのは事実だったのだから仕方がない。
「別にたいしたことじゃないわ」
と、その人は少しだけおかしそうに言った。
「制服がきれいだったから、そう思っただけ。特に、袖口とか、肘、襟のあたりなんかが――それに襟の学年章を見れば、それははっきりわかるわね」
あたしは自分の制服を、しげしげと眺めてみる。言われてみれば、それはあたり前すぎるくらいあたり前だった。ちょっと気をつけて観察すれば(学年章は小さかったけど)、すぐにわかることだ。
でもその人に指摘されると、何故だかそんな気がしなかった。何だか、不思議な手品でも見せられたような気がしてしまう。
「ところで……」
と、あたしはあらためてまわりを見ながら訊いてみた。どうやらあたしの観察眼は休憩中みたいで、いまだにこの部屋が何なのかわからずにいる。
「ここって、何の部室なんですか?」
「――ああ、うっかりしてたわね」
その人は、ため息をつくというには冷静すぎるくらいの表情で言った。
「入りやすいように扉だけ開けておいたのだけど、そうね――それだと、プレートが見えなくなってしまうわね」
「……はあ」
「ここは、文芸部よ」
そう言われてみると、何となくわかる気がした。年季が入った本棚や、ノートや何かのファイルが入ったスチールキャビネット。壁の黒板にはいくつかの文章が書かれていて、添削か推敲をしたらしい跡が残っている。それにこの部屋は、ちょっとしたパワースポットみたいにいい文章が書けそうな雰囲気をしていた。
もっとも、それだけでここが文芸部だと断定するのは、たった一つの水滴から海や滝を想像するのと同じくらい難しそうではあったけど。
それがわかったところで、あたしはその人に訊いてみた。
「……文芸部って、何をするんですか?」
もちろんあたしだって、文芸部の名前くらいは知っているし、どんな活動をするのか大まかな想像くらいはできる。でもそれはサハラ砂漠の名前だけ知っていて、実物は見たことがないのと同じ程度のものだったし、ちゃんと訊いておいたほうが無難ではある。
――ところで、サハラ砂漠ってどこにあるんだっけ?
「そうね、学校によってだいぶ違うはずだけど…」
と、その人はまず前置きしてから言った。慎重というか、どうやら几帳面な性格の人らしい。
「うちの文芸部では、そんなに変わったことはしないわね。本を読んで、感想を話しあったり、意見を交換したり。それから、いわゆる創作活動ね。小説、脚本、エッセイ、短歌、俳句、何でもいいけど――あとは詩も、そうね」
「詩、ですか?」
あたしは高度な電子機器を与えられた、原始人みたいな顔をした。詩なんて、教科書くらいでしか読んだことがない。
でもその時、あたしは何故だか次のような言葉を口にしていた。ほとんど間を置かず、時計のアラームが時間通りに鳴りはじめるみたいに。
「――あたしでも、詩人になれますか?」
言っておいてなんだけど、我ながらバカみたいなセリフだった。あたしは別に詩人になりたいわけでも、詩人に憧れているわけでもない。今までに詩の一篇も書いたことなんてないし、書こうと思ったことすらない。
それなのに、何故か――
あたしはその言葉を、太陽や月の巡りと同じくらいの強さと確かさで、口にしていた。
「…………」
その人は、しばらく黙っていた。でもそれは呆れているとか、困っているとかじゃなくて、ふさわしい言葉を探している感じだった。たくさんの絵の具の中から、ちょうどいい色を選ぼうとするみたいに。
「昔々、とても詩人になりたがった人がいたの」
やがてその人は、森で木の葉が落ちるくらいの静かな口調で言った。
「〝詩人になりたい、でなければ何にもなりたくない〟――と、その人は言ったそうよ。でも詩人になるための学校なんて、どこにもない。音楽家や、画家にさえそれはあるのに。……だとしたら、一体どうすれば詩人になれるというのだろう?」
その人は冗談ぽくでも、生まじめにでもなく語った。何だかそれは、消えてしまった光の残像とか、音の反響に似ていたかもしれない。
「詩人になるための正しい手段や方法なんて存在しない――。でもそれは、詩人になるのに正しい手段や方法なんて必要ない、ということでもあるわね」
「…………」
「あなたがもし詩人になりたいと思うなら、まずは詩でも小説でも書いてみることね。そして、もしそうしたいなら、文芸部はあなたを歓迎するわ」
あたしはしばらくのあいだ、ただじっとしていた。スイッチを入れたばかりの機械が、すぐには起動しないみたいに。ただじっと、身動きもしないでいた。
その人の言葉はどうやら、あたしの心のどこかに収まったみたいだった。どこか重要な、大切なところに。もっともそれは、回っている地球儀にでたらめに指を置くのと同じくらい、どこなのかよくわからなかったけど。
あたしは別に、詩人になりたいというわけじゃない。そのことはやっぱり、確かだった。文芸部なんて柄じゃないし、向いてもいない。あたしは基本的にがさつで、文学に必要な繊細なところなんて持ちあわせちゃいないのだ。
それでも、たぶん――
あたしの心のどこかは、その時はっきりと起動していた。音を立て、光を放ち、かすかな熱を帯びながら。
だからあたしは、こう言ったのだ。
「あたしは一年の、
するとその人はちょっとだけ首を傾げて、それから笑った。まだ開かない、花の蕾みたいに。まだ届かない、星の光みたいに。
「わたしは二年の、
そうして、志坂先輩は神様が世界を祝福するみたいにして、あたしを歓迎してくれた。
「――ようこそ、
※
それはやっぱり、桜の花びらが指先にのるような――重さのない奇跡みたいなことだったのかもしれない。
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