8.リリアンの居ない五日間④


 三日目。

 先日の魔力感知によるリリアン補給は徒労に終わり、いよいよアルベルトからは気力が失われていた。


「リリアン……」


 前日と変わらない時間に目覚めたものの、明らかに覇気が失われている。髪からは艶が無くなっており、目からは生気が消えている。デリックやボーマンの呼びかけにも反応が薄かった。

 そんな状態なので、本日の森の調査は騎士団の人員のみで対応する事になった。アルベルト達は、拠点でお留守番となる。ちなみに、ガードマンの事は騎士が引っ張って連れて行った。森から魔物や動物が出て来ないように見張りをするそうだ。昨日あの後も生き物を見かけなかったので、アルベルトの近くから引き離す口実であろう。気の利く人員がいるようだった。


「はぁー……」


 湯気の立つマグカップが置かれているが、アルベルトはそれに手を付けずに項垂れている。


「リリアン……」


 娘の名前を呼ぶと、また長いため息をひとつ。それからますます項垂れる。テントから出て来てからずっとこの調子である。デリックとボーマンは顔を見合わせた。


「駄目だなこりゃ」

「……む」


 ここ数年は見られなかったアルベルト特有のこの症状、言うなれば「リリアン欠乏症」。リリアンと会っていなさすぎて、健康に悪影響が出ているのだ。

 主な症状は、無気力、食欲不振、情緒不安定、虚脱など。あとはもうこのように項垂れて使い物にならなくなる。こうなってしまえばリリアン成分を摂取しなければ元に戻らない。具体的にはリリアンに会うのが手っ取り早い。けれど生憎と今はそれが出来ないから、しばらくアルベルトはこのままだろう。デリックとボーマンは、どうなる事やらと頭を痛める。

 ともあれ、何ができるでも無いので、本日は大人しく拠点で過ごすしかない。ボーマンはアルベルトの後方で瞑想を、デリックはやはり薪を手にして、ナイフでそれを削って暇を潰すことにした。


 しょり、しょり、というデリックのナイフの音に、たまにぱちりと薪木の爆ぜる音と、それから


「はぁ……」

「リリアン……」


というアルベルトのため息が混じる。

 これまでに何度聞こえたことか。デリックは、ふう、と顔を上げた。


「リリアン……」

「すげえな旦那様、今日朝から四文字しか喋ってねえ」


 デリックの言葉に、焚き火の様子を見ていたボーマンは指を折った。朝からアルベルトが発したのは、「リリアン」と「はぁ」という音だけ。確かに四文字である。「はぁ」に至ってはため息として漏れているだけなので、言葉としてカウントしていいものか疑問だが。


「楽だからいいけどよぉ」


 言ってデリックは再び手元のナイフを動かした。楽なのはいいが、いささか暇である。仕事中に退屈だと言えるのは贅沢な話だが、何もする事がないというのは、意外と苦痛なものだ。デリックはまだ彫刻という趣味があるからましな方だが、それもいつ何があるかわからない護衛中ともなれば集中出来ない。気もそぞろで作った物は、少しばかり歪んでしまっていた。まだまだ修行が足りないようだ。彫刻の方の。


「暇だなあ」


 デリックの呟きにボーマンはこくりと頷いた。

 アルベルトの方は相変わらずだ。項垂れたたま、ため息をつくか娘の名前を溢すかのどちらかを繰り返すだけ。もしかしたら暇なボーマンがその回数を数えていたかもしれないが、聞いてもなんの得もしないので、デリックは彫刻に集中する事にした。危険な物の気配は無い。自分達以外にも騎士が近くに居ることであるし、きっと、何事もなかろう。そう思って新しい薪を手に取ると、そこに女神を掘り出すのだった。


 そうして何時間経っただろうか。喉の渇きと空腹に気が付いた頃には、太陽はかなり高い位置にあった。ああやっちまった、と思ったデリックは頭を上げ、主人の姿を探すが、集中する前と変わらず項垂れた状態で、同じ場所に居た。ボーマンがいるので心配はしていなかったが、万一の事もあるし何より自分の目でそれを確認しないことには安心できない。だからアルベルトがそこに居たのには安心した。でもまあ、ずっと同じ姿勢でいるとは思っていなかったから少し驚いたが。

 伸びをするデリックは考えついていなかったが、ずっと同じ姿勢でいたのはデリックも同じだった。客観的に見れば、二人は数時間、同じ場所で同じ姿勢でいた事になる。それはそれで奇妙な光景だった。もっとも、それに気付いているのはボーマンだけだったが、ボーマンはそれを言う事は無かった。言ってもなんの意味も無いだろう。

 ボーマンは、木屑を払うデリックに、パンとスープを渡した。


「おう、ありがとさん」


 最後に両手を叩いて払い、デリックは皿を受け取った。丸いパンに齧り付くデリックの、右手側に置かれた彫刻。それが目に入ったボーマンは驚きに肩を震わせる。


「……」


 よく掘れてはいる。特徴は押さえていると思うが、ボーマンからすると美化され過ぎているように感じた。確かに美しいが、これは実際のリリアンの姿とは程遠いと思う。装飾はともかく、ちょっと身体のラインを強調し過ぎているように思えてならなかった。乱暴な言い方だが、品性に欠けているように感じる。


「旦那様は食ったのか?」


 デリックの言葉に、ボーマンははっと顔を上げた。そして胸像の事には触れず首を振る。自分の感性はともかくとして、デリックはいい出来だと思っているようだったから、口出しはできなかったのだ。

 内心複雑なボーマンの視線の先、アルベルトが腰掛ける木箱の端には、器が乗っていた。湯気は立っていない。器の横の丸パンも手を付けられた様子が無いから食べていないのだろう。スープを流し込んで、デリックはやれやれと目を細める。

 調査に協力的でなくても、それはあまり期待されていないから良い。けれども食事をまともに摂らないのはだめだろう。一食抜いたところでさほど健康に被害は出ないが、今現在の気力の無い状態では衰弱しかねない。さすがにそれは、護衛を任されている身で見過ごすわけにはいかなかった。

 なのでやる事はひとつである。


「旦那様、飯はちゃんと食わなきゃダメでしょうよ」


 デリックはずいっとアルベルトの前に器を差し出す。が、やはりアルベルトは反応を示さず項垂れたままだ。喋った事はといえばずっと「リリアン……」だった。


「旦那様ってば、ほら」


 下を向くアルベルトの、顔の前に器を差し入れても反応がない。まあ、思った通りだ。ボーマンを振り返ると、彼はゆるゆると首を振る。ボーマンも同じ事をしたが無駄だったようだ。仕方ない、とデリックは一旦器を置いた。

 そうして向かったのは、自分がさっきまで座っていた岩だ。そこに置いてあった彫刻を手に取る。デリックは彫刻を持ってアルベルトの元へ戻ると、それをかざした。


「『お父様、お食事ですよ!』」


 渾身、とまではいかないが、そこそこ上手く彫れたリリアンの胸像を差し出し、声色を真似るデリック。次の瞬間、アルベルトの腕が伸びてきた、と思ったらむんずと胸像を掴み、それを勢いよく地面に叩きつけた。


「アーーッ!!」


 デリックは叫んだ。地面に叩きつけられたというのに、パンッ、と甲高い破裂音を鳴らした胸像は、運悪く石にぶつかって真っ二つになってしまったのだ。


「ま、また!!」


 続けて作品を二つもダメにされては、いかに主人と言えども黙っていられない。


「何しやがるんです、折角うまく彫れてたのに!」


 二つになってしまった胸像を、それぞれ右手と左手に握るデリック。縦に割れればまだ修繕できたかもしれないが、これは無理だ。肩の辺りで横方向に分割されており、繊維がギザギザに露出している。顔には縦方向にヒビも入っていた。これはもう、彫り直した方が早い。

 わなわなと震えるデリックを、アルベルトはその頬ごと片手で頭を強く握り締める。


「貴様、今、何と言った?」


 ミシミシとデリックの頭蓋が鳴る。これは不味い。デリックはそう思い、慌てて答えた。


「お、『お父様、お食事ですよ』、と」

「あ゛?」


 非常にドスの聞いた「あ゛?」である。


「何の真似だそれは」

「あ、いえ、その」

「よもやリリアンではあるまいな?」


 ぎらりと光る眼光は殺意が溢れていて、「そうです」と言ってしまったらその場で頭を握り潰されるのではないかと感じた。なのでデリックは、乾いた笑い声を上げた。誤魔化すつもりだった。


「いやぁその、あはは……」

「なにが可笑しい!」

「ひい!」


 アルベルトの凄みが増す。笑い声か何かが癇に障ったようだ。絶対絶命の危機である。


「しかも、なんだこれは!」


 叫ぶアルベルトは、デリックから二つになった胸像を奪い取った。デリックは思わず「お嬢様が!」と言ってしまい、それがアルベルトの逆鱗に触れてしまう。

 

「リリアンを侮辱するか貴様ァ!!」

「そんな、滅相もない!」


 デリックのその言葉に、アルベルトはくわっと目をかっ開く。


「ならなんだ、これのどこがリリアンだ!! 貴様の目は節穴かァ!!」

「ええっ、良く彫れてるでしょうよ!」

「節穴ァーーー!!!」

「ひえっ、名前すら呼ばれなくなった! なんで!?」


 わけがわからなくて狼狽えるデリック。絶体絶命である。憤怒するアルベルトは青筋を立て爆発寸前だ。

 が、そんなデリックの危機を救おうと動いた男がいた。ボーマンだ。


「旦那様……! デリックは、食事を」


 ボーマンは必死に言葉を紡ぐ。最低限ではあったが、それで何を言いたいのかは伝わったようだった。アルベルトは憤怒の表情のままではあったが、会話はできるようだった。

 ボーマンの言葉を聞いたアルベルトは、再びデリックを睨み付ける。


「私に食事を摂らせる為に、リリアンの真似をしたと言うのか」

「ええ、はい、そうっす」


 戸惑うデリックの前で、アルベルトは「ぬん!」と胸像を粉砕した。握り締められる手の中、今度は本当に粉微塵になっている。


「ああっ、また!」


 ぱらぱらと落ちる粉塵。デリックはまだ頭を掴まれたままなので、虚しく見送るしかなかった。

 似ても似つかない胸像がなくなったことで気が済んだのか、アルベルトはデリックの頭を離す。ふん、と鼻を鳴らしたアルベルトは手に付いた粉塵を払って、デリックを見下ろした。


「くだらん物を作るな」


 解放されたデリックは、キッ、とアルベルトを見返す。 


「くだらなくはないでしょう、ちゃんと作ったじゃないっすか!」

「あぁ?」


 まあ、アルベルトには通用しなかったが。

 というか本当にあれがリリアンなのだろうか、とボーマンは思った。デリックにはリリアンがああ見えているのだろうか? 少し相棒の美的センスに違和感を覚えるボーマンだった。


「旦那様、少しでも」


 アルベルトが会話をできる状態になったので、今がチャンスとボーマンは温め直したスープとパンを差し出した。さすがに空腹だったのか、それともちょっかいを出されるのが鬱陶しいのか。アルベルトは大人しくそれを受け取って食べ始める。ボーマンはほっと胸を撫で下ろした。

 アルベルトに食事を摂らせるという目的は達成した。デリックの行動はまったくの無駄ではなかった、と思う。だが機嫌を損ねるような真似はいかがなものか。まあ、そんな意図はデリックには無さそうに見えるので、事故のようなものだろうが。

 ただ、これに懲りて、大人しくアルベルトが食事をしてくれればいいだけだ。それに期待するしかないかと、ボーマンはそっとため息をつくのだった。


 ◆


「いやはや、実に良いですね」


 ヴァーミリオン邸のアルベルトの執務室では、ベンジャミンがいつになく明るい表情で書類の束を纏めていた。


「ご機嫌だな」

「それは坊ちゃんもでしょう?」


 そう言われてレイナードは反論できず、肩を竦めた。ベンジャミンの方もそれ以上は追求せずに新しい書類を出してくる。それを受け取って目を通すレイナードは、いつもはアルベルトが座っている椅子に腰を下ろし、書類にサインをしている。

 当主のアルベルトが不在の場合、代理としてレイナードが裁可を下すのは当然のこと。そう言ってベンジャミンはここぞとばかりに仕事を持ち出したのだ。


「アルベルト様が処理をしていない書類が大量にありまして」


 困っているのだとリリアンの前で溢せば、優しい妹はどうにかならないかと兄に視線を送る。それを見越してこの強かな執事は話題を持ち出したのだ。実に頼もしいことである。

 いくつか目を通して、問題ないと思われるものにはサインを。不可のものは突き返して、案を練り直すよう指示をする。他の領地との兼ね合いや、やっかみが生まれそうな厄介なものは父に任せる為分けていくと、あっという間に書類の山は片付いていった。それをほくほくとした顔で眺めるベンジャミン。実に嬉しそうである。


「二ヶ月以上前から残っていたものがようやく片付きました。ありがとうございます」

「父上なら、すぐに片付けられそうだったけれど」

降神日こうしんびの頃は、色々とありましたからね。執務が滞っていたんです」

「……あの人はまったく……」


 レイナードはペンを片付ける手を止める。リリアンの髪飾りを急遽新たに作る事にしたせいで、こちらの対応が出来なくなったのだろう。やるなら本来やらなければならないことも、きっちりとやっておいて欲しいものだ。


「たまにはこういうのも良いですね」


 ベンジャミンのその言葉は、執務が片付くからだろうが、レイナードは別の意味で同意したかった。急な事件が起きたとかで邪魔が入らずに書類を片付けられるのは、思ったより快適だったからだ。普段の激務を思い出し、ふと遠い目になる。


「坊ちゃん、ありがとうございました。今日は天気も良いですし、どうでしょう、温室で昼食をなさっては」


 それは溜まった仕事を片付けたレイナードに対する、ベンジャミンからの礼だろう。気持ちの良い天気の、明るい日の光の中、いつもとは違う場所で、リリアンと二人きりの昼食。温室はリリアンも好んでいる場所だ、きっと彼女も喜ぶに違いない。


「そうだな。そうする」

「では、手配して参ります」


 ベンジャミンはきっちりとお辞儀をして退出していった。それを見送ってレイナードも片付けを進める。


「うん……いいな」


 集中して仕事を済ませ、昼食はリリアンと一緒にのんびりと摂る。そこにはかつてない充足感があった。たまにはこんな日を設けてやろうかと、レイナードは本気で思い始めていた。


 そんなわけで本日の昼食は、温室で摂る事になった。暖かい陽射しの中、サンドイッチを頬張るレイナードの表情はもう、ゆるゆるに解れている。

 なにしろこのサンドイッチ、リリアンと一緒に二人で拵えた特別なものなのだ。

 昼食を温室で、と決まった後、レイナードの元にリリアンがやってきて、どんな物が食べたいかと尋ねられた。なんの事かと聞けば、リリアンがサンドイッチを作るのだという。リリアンの後ろ、ベンジャミンがいい笑顔でいたから、これも彼の心遣いなのだろう。レイナードは有り難く享受することにした。

 具材は半分がリリアンの好物で、もう半分はレイナードの好物だ。これはリリアンが提案した事だ。最初は全部リリアン好みのものにするつもりだったのだが、それではだめだと言われてこうなった。なんでも美味しく頂ける性分のレイナードは、正直どんな具材でも良かったのだが、リリアンの言ったことなので大人しく従うことにした。リリアンが、レイナードの事を想ってやってくれたことだし、そりゃあもう、甘んじて受けるというものだ。

 そんなわけでこの日もご機嫌に微笑むレイナード。頬張ったサンドイッチは堪らなく美味しい。リリアンが兄の為にと作ってくれた物なのだから、当たり前だった。

 微笑みながらサンドイッチを口にするレイナードを、リリアンは嬉しそうに見ていた。


「お兄様、お口に合いました?」


 レイナードは、口の端に付いたソースを指先で拭う。それも余す事なく舐め取ってリリアンに答えた。


「ああ、勿論」

「良かったわ」


 にっこりと微笑むリリアン。実際、リリアンは嬉しかったのだ。こんなにもレイナードが楽しそうにいるのは珍しい。アルベルトが不在になるからと、その間代わりにずっとリリアンの側に居てくれている。思いがけず休みが貰えて喜んでいるのだろうと、リリアンはそう思っていた。


「他にお好きな具材はある?」

「リリーの作る物ならなんでも」

「まあ!」


 この様に冗談まで言うのだから、レイナードは相当ご機嫌だ。可笑しくなって、リリアンはくすくすと笑い声を上げる。


(最高だ)


 実際、レイナードはこれ以上ないくらい上機嫌である。昨日も今日もリリアンを間近で愛でる事が出来るのだから当然の事だった。昨日も今日も素晴らしい日であった。お茶を一口啜り、ちらりとリリアンを見れば、彼女も美味しそうにサンドイッチを頬張っていた。

 レイナードが何に満足しているかと言えば、それはこのリリアンの嬉しそうなこの姿にだ。


(寂しくはなさそうだな、良かった)


 幼い頃からリリアンの側にはアルベルトがいた。父親が娘の側を離れたがらなかった、というのが主な理由だが、公務などでどうしても離れなければならない時には、小さいリリアンを連れて行くか、遠出は最小限に留めていた。もうすっかり大きくなったのだから、居なくても大丈夫だとは思ったが、初日は少し気落ちしたように見えて不安を感じた。が、それも杞憂だったようだ。内心ほっと胸を撫で下ろしたレイナードは、後はもう目一杯リリアンを可愛がる事にした。

 この日も昼食後は散歩に読書などをして過ごした。時折本の記述についての質問をリリアンから受け、解説することもあった。その一瞬一瞬が楽しくて、やっぱりレイナードは始終笑顔のままだった。リリアンの方も楽しげに微笑んでいる。

 にこやかなレイナードとリリアン。それを見守る使用人の視線も温かい。

 こうしてこの日も何事もなく過ぎていった。

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