乱舞

第29話 ︎︎曇り空

 冷たい窓に手を当てて見上げるどんよりと曇る空は、まるで私の心のようだ。出るのは溜息ばかり。殿下が騎士を引き連れて出兵したのは、もう一年も前になる。遠見で無事は確認しているけれど、やはり心配は尽きない。


 あの日、宰相が開戦を宣言してから、そう間を置かずに戦は始まった。春から夏へと変わる夏至の日に、アックティカから正式な宣戦布告が公付さたのだ。民達の間にも緊張が走ったけれど、それも先立って陛下から勧告が出されていたから、各々のなすべき事へをなし、混乱には至っていない。これも日頃から、王家への信頼があるからだろうか。


 そしていよいよ出征の日。王城の外壁沿いで行われた出兵式で、演台に立たれた殿下は見事に役割を果たしていた。高らかな演説は、初めてとは思えないほどに淀みがなく、兵達を鼓舞こぶする。


 その場には私も同席したけれど、決して臆せず、気丈に振る舞わなければならなかった。私の失態は、殿下の失態となってしまう。そうならないように、細心の注意を払っていた。


 式は順調に終わって、時間は無情にもやってくる。演台から降りて、殿下はこちらにまっすぐ歩いてくる。小さな体に重い鎧を身に着けて、戦という漠然としていたものが現実であると突きつけた。


「ご武運を」


 言えたのはたったそれだけ。震える唇を噛み締め、殿下のお姿を瞼に焼き付ける。殿下は私の手を取り、自分の分身をなぞると、口づけを落とし、まっすぐに視線を合わせた。


「行ってくる」


優しい微笑みで私を励ましてくれたのだろうか。指を絡ませ、強く握ってくれた。殿下は惜しむように手を離すと、未練を断ち切るように踵を返し、壁外へと降りていく。その後ろ姿は、従騎士達に隠されてしまった。


 その後は聞いた話だ。


 各領地から徴兵された私兵は騎士団の指揮の元、七つの部隊となって戦場となるジュナ大平原まで列をなして進んで行った。士気も高く、その足取りは力強かったと聞いている。街道沿いの町や村からは歓待を受けて、十分な英気を蓄え、平原でアックティカを待ち構えた。


 開戦から熾烈しれつを極めた戦いは、一進一退を繰り返し、三月みつきほど前にカイザーク優位で一応の終戦を迎えている。しかし、その後も事後処理に追われ、殿下はまだ帰らない。


 窓辺で何度目かも分からない溜息を零す私に、ネフィの苦笑いが重なった。


「リージュ様、そうご心配なさらず。殿下は果敢に戦ったというではないですか。宰相を打ち取ったのも殿下だとか。大きな怪我もないと聞いています。先日、帰還の報告もあったそうですし、今しばらくのご辛抱ですよ」


 ネフィの言葉に私は頷くけれど、その報告があったのも二週間ほど前だ。ジュナ大平原は王都から半月の位置にある。軍という大きな集団での移動では、時間がかかるのも仕方がない。伝令の騎士は馬での移動だから、幾分か早いのも分かっている。それでも、騎士が戦場を発った頃には、殿下も移動し始めているはず。


 それなのに、まだ何の音沙汰もない。遠見で視ても、場所が分からなければ意味がなかった。


 あとどれくらいだろう?


 あと何日?


 あと何時間?


 私は帰還の報告を聞いてから、余計に殿下が恋しくなってしまっていた。会いたい、触れたい、そればかり。


 遠見で視る殿下のお姿は変わらずお元気で、戦場にいるというのに毎晩欠かさずに語りかけてくれていた。会話は一方通行だから、私はお返事できなくてもどかしい思いをしながらも、その気遣いが嬉しくて愛しさは募る。だって、相手は聞いているのかも分からにのに、疑いもせず毎日だもの。


 そしていつも、最後には愛してる、お休みまた明日と言ってくれる。この一年、それだけを心の支えにして軍議や、補給物資の采配を手伝ってきた。


 だから、もう少し。もう少しだけの我慢。殿下がお帰りになったら思いっきり甘えてもらおう。戦の疲れを癒してもらおう。


 窓に額をつけて、そう言い聞かせる。


 私はその時、背後で何が行われているのか、まったく気付いていなかったのである。

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