最終章 ただ一つ、思うことは
第18話
父親がかけた時間に比べれば、二葉が手を入れた箇所は本当にわずかだ。それでもまだまだ初心者の二葉には大変な作業だ。正直、寝食を忘れて仕事以外の時間は没頭したいくらいだったが、ここで思い出すのがやっぱりユウの忠告である。趣味は私生活を切り取ってするものではない。しっかりとご飯を食べて、睡眠をとって、会社に行って、仕事を仕上げてまた帰る。決まったルーティーンがもどかしいのに、それでもできる限りの時間をつぎ込むのが楽しい。
出来上がるまで【自由時間】に行くことはやめておいた。今は自分の作業に集中したい。でももちろん、行きたい気持ちもあるし、いきなり足を運ばなくなったら心配するかもしれない、と会社でユウとすれ違ったときに、「今は、レース編みをしたいから」とこっそりと伝えた。時間がなかったので言葉も少なってしまったが、さすが同じ編み物好きだ。心得たとばかりに頷いていた。そして何かを言おうとしていたのだが、すぐに始業時間になったのでユウが何を言おうとしていたのかわからなかった。また【自由時間】で会ったときに聞けばいいか、そのときはあっさりと流してしまった。
そうしてやってきた水曜日。ここ最近、何度も橘からの内線を取って、その度に仕事と関係のない内容に困っていた。「他の方が内線をかけてこられたときに通話ができませんから」と毎回伝えて切っているものの目的もわからない。
橘からの内線をなんとか切ると、今度は別の営業からだ。どうやら顧客に持っていく契約書の種類に不安があるので、確認してほしいとのこと。すぐに二葉はパソコンを立ち上げて、社内の規則を確認する。必要のあるページへのリンクをメールに貼り付け転送する。お礼の返事とともに、さらに書き方の説明を求められたので、しょうがないと契約書を印刷し、付箋をはりながら鉛筆で補記する。スキャナをして送ってもいいが、直接足を運んだ方が速いと四階にある営業部へと持っていく。
「また何かわからないことがあれば、内線をください」
「佳苗さんいつもありがとう、ごめんね」
「二葉!」
いきなりの名前呼びにぎょっとして振り向くと、橘がいた。営業先から戻ってきた帰りらしく、片手には鞄を持ってにこにこと手を振っている。相変わらず垢抜けていてすらりと背が高く、ユウほどではないものの整った顔をしている。人懐っこい笑みで営業先の法人には好かれているらしい。
「何か……?」
「二葉を見かけたから、思わずでかい声がでちゃったよ。なあ、会社が終わった後、時間がないか?」
「あの、業務中ですから、私用の会話は、ちょっと」
付き合っているときならまだしも、いや、付き合っているときでさえも仕事中に名前呼びをするのはどうかと思ってそう言ったのだが、橘は二葉の言葉通りに受け取ったらしい。
「二葉は、真面目だもんな。でも、いくら連絡を送っても返事がないし。こんなとこでしか話せないだろ」
引っ張られて室内から移動を促されたので、慌てて二葉は振り返り頭を下げると、二葉にお礼を言ってくれた青年が不安そうにこちらを見ていた。
「なあ二葉」と、さらに名前を呼ばれる。こんな人だったのかな、と橘のことを見上げて、そもそもどんな人かを知るほど、橘と一緒にいなかったのだと思い至った。
連絡を送っても返事がない、と言われても当たり前である。
『二葉は俺と一緒にいても、いつもつまらなさそうだ。俺たち別れよう』と、言われて了承してから、いつまでも彼のデータをスマホに残しておいても仕方がないと考え、橘の連絡先は全て削除、もしくはブロックしている。まさか連絡がきているとは思いもしなかった。
「仕事が、まだ残っていますから」
引っ張られていた腕を放してほしいと見上げた。すると橘は困ったような表情をして手を放してくれた。よかった、と二葉は頭を下げて、すぐにエレベーターに向かった。早く帰るためには効率よく動かなければいけないのに、不必要な時間をとってしまった。
これで終わった、と二葉は考えていたのだが、実はまったくもってそんなことはなかった。さて、ノー残業デーだ! さっさと家に帰って、レース編みの続きをするぞ。と思っていたはずが、会社を出ようとエレベーターを降りるとロビーに橘が待っていた。「や」さくりと片手を上げて声をかけてくる。や、じゃない。
自分じゃない、自分じゃないに決まっている……と、思いたかったのに、「なあ、二葉、俺たちやり直さないか」
しばらく、何を言われているのかよくわからなかった。妙な場所で立ち止まるから、受付嬢の方たちの視線が、ちくりと背中に刺さる。帰りたい……。
「ど、どういう意味ですか……?」
「あのさ、ほんとは二葉が俺のことをずっと好きなことはわかってた。でも素直になれなかったんだろ? だからあえて俺から別れを告げたんだ。もう意地なんて張らなくていいんだよ」
何を言われているのか本当に理解できなかったので、じっくり、ゆっくりと考えてみた。つまりだ。橘は、二葉が別れたくないと彼にすがるのを待っていた。でもいつまで経っても何もないので、とうとうしびれを切らしてしまった。
なるほど、と納得して、他の人に邪魔にならないように、ちょこちょこと壁際に移動する。
「橘先輩」
「ん? お祝いに今から飯でも食べに行く?」
ふるふると首を横に振る。そして、ぺこりと頭を下げた。
「田端さんとお幸せに」
「なっ……! い、いや、あれは勘違いだよ。彼女と一緒にいたのは、どうしても行きたいライブがあるけど、一人じゃ寂しいって無理やり……! な、二葉も一人は嫌だろ? わかるだろ?」
「わかりません」
もう一度首を振り、同じ仕草を繰り返す。別のことならば、怖くて声が出せなかったかもしれない。でも、これだけははっきりと言える。
「私、一人が楽しいです」
限りのある今の時間を、精一杯楽しむ。一杯のコーヒーをゆっくりと飲むように、時間を味わう。そんな風に生きていきたい。
「橘先輩とお付き合いはしません。勘違いというのなら、田端さんときちんと話し合ってください。でもどちらにせよ、私には関係ないことだと思います」
意外なことにもしっかりと声を出している自分に驚いた。こんな風に、自分でも前を向けるんだと知らなかった。
そしてここまでくると鈍い二葉にもなんとなく話の全体が見えてくる。橘と別れたことは誰にも言っていないはずなのに、いつの間にか部内で知れ渡っていた。つまり橘が田端に伝えて、田端が広げたのだ。
そんなことを話すほど二人は近い関係にあったのだろうが、それは田端側の一方的な気持ちだったのかもしれない。
「橘先輩。短い間でしたが、ありがとうございました。お付き合いさせていただいた際は至らない点が多くすみませんでした。今後は同僚としてとなりますが、よろしくお願い致します」
色々思うところはあるが、こちらも気持ちがないのに付き合った時点で同罪だ。なんにせよ、仕事に私情は挟みたくない。改めて頭を下げた後に顔を上げると、橘は真っ赤な顔をして、今にも激高して、怒声を放たんばかりに唇を震わせていた。
どうしよう、と恐怖が胸をかすめたが、さすがに会社のロビーだ。こんなところで声をかけなくても、と最初は思ったが、逆にかけてくれてよかったと考えた。人目もあるから、互いに落ち着いた声色で話すことができる。
橘はすぐに大きく息を吸い込み、ゆるりと口元を緩めた。一見、とても優しい表情のように思うが、どこか薄ら寒いような感覚だった。ただの世間話をするように、橘はゆっくりと話し始めた。
「二葉は、さ。ちょっと周りのことが見えてないよね」
「……え?」
「俺といてもいつもつまらなさそうな顔をしてたし、飲み会のときもそうだろ? 誰と話をするわけじゃなくて、端っこの方にいる。ちゃんと、周りに合わせるってことをした方がいい。それが社会人ってやつだろ?」
「…………」
ずきりと、胸が痛くなる。
それは何度も言われてきた言葉だ。自分は、おかしな人間なのかとたくさん考えて、苦しかった。どうにか周りに合わせようとしたのにできなくて、いつも下ばかりを見てうつむいていた。そのことを痛みとともに思い出して、何も言えなくなってしまう。口を閉ざす二葉を見て橘は少しだけ気分を持ち直したらしい。
「どれだけ二葉が駄目なやつでもさ、二葉は俺に口答えしないってところがいいところだよ。別れるときも、それで嫌って言うことができなかったんだよな? 悪かったよ。試すようなことしちゃってさ。一人が楽しいなんて強がらなくてもいいよ」
「ち、違います。私、本当に今、すごく楽しくて」
「だから強がるなって」
精一杯気持ちを伝えようとしても、何も伝わらない。悔しくて涙がにじんだ。何かよくわからないものを相手にしているような、そんな恐ろしさがあった。でも、相手は人だから。きっと話せばかわる。わかってくれるはずだ。
「田端が言ってたけど」
ぐりゃりと、橘の輪郭が泥のように崩れていく。ぐにゃぐにゃと、声が歪み、視界もおかしくなっていく。
話さなきゃ。そう思うのに、言葉が形にならない。
「最近じゃ水曜日も残業をしないで、すぐに帰るんだって? 駄目じゃん。いくら社長が早く帰れって言っててもさ。ちゃんと周りを見て、自分も遅く帰らないと。そんなんじゃ、仕事はできても可愛げがないよ? せっかく可愛い顔をしてるんだから。そのくせ仕事じゃみんなに親切にして、勘違いするやつもいるだろ。二葉は、俺が言う通りにしてたらいいから」
田端のことなんて、心配しないでいいから。
そう言って、二葉の肩に伸ばされた手を、思いっきり、誰かが掴んだ。
「橘先輩、すんません!」
ほっとするような、特徴的なイントネーションだった。
ユウが二葉と橘の間に大きな身体を割り込ませて、じっと橘を睨んでいる。ユウさん、とこぼれた涙と一緒に、勝手に二葉の口が彼の名を声もなく呼んでしまう。
「水城。なんだ、今俺は二葉と話をしていて」
「僕、手芸が趣味なんや!」
そしてまさかの続いたセリフに、その場の時間が静止した。「……ん?」と橘は瞬いているし、二葉は涙がひっこんだ。
二人のそんな様子を見てユウは何を勘違いしたのか、「ほんまのことです! ええっと、これ。この弁当袋、僕が作ったんです。ほら! めっちゃ手ぇ込んでるやろ、よく見てや!」と、鞄の中をごそごそ開けて、証拠品とばかりに橘の目の前に弁当袋をぶら下げる。もうどうしたらいいのだろうか。
「たしかに、上手だな……すごいな……? いやそうじゃなく。お前、ん? 関西弁?」
「やからですね、先輩」
今度は橘の手からお弁当袋を引っこ抜き、鞄にしまう。わたわたと忙しい。
「佳苗さんは、僕と一緒に編み物するのが今は楽しいんや! やから、ほんま大丈夫です!」
そこまで叫んで、二葉の腕をとり引っ張った。
状況を全て見届けていた受付嬢たちが、「きゃあ!」と黄色い声を叫ぶ。呆然とする橘と、そんな状況を背にして、引っ張られながら駅までの道を歩いた。
「あ、あの、ユウさん? なんで、あの」
「橘先輩が営業部のやつらに色々言うとったて聞いたんよ。佳苗さんとより戻すとか、そもそも別れてへんとか。なんか変やな思ったから伝えようとしたけど、タイミングもあらへんかったし。一応受付の子らに、変なことあったら内線かけてってお願いしといてん」
まさに変なこと、と思われたのだろう。明日からのことを考えると頭が痛くなった。
「大丈夫やろ。見てた限りじゃ世間話してるようにしか見えへんかったわ。受付の子らにも、口止め料渡しといたし」
「どこのペン太郎を渡したの……?」
「ちゃう。猫太と熊田とカエル子や」
相変わらずの賄賂があみぐるみなお方である。
とはいえ、会社では編み物趣味を隠していたのではないだろうか……と相変わらず手を引っ張られつつ見上げると、二葉が言いたいことを察したのか、ユウはちらりと二葉を振り返り、「別にええねん」と今度はそっぽを向いた。
「男が編み物するのはおかしいって何度も言われたけど、別に変でもなんでもないやん。隠したいのに弁当袋は持っていくなんて自分でも中途半端なことしとったなって思うし、これで堂々と持ってけるってせいせいするわ」
そういう彼は、本当にどこかすっきりしているように見えた。けれども段々歩くペースと、二葉の手を引く力も強くなってくる。
「しかしなんやねんほんま……。橘先輩も、先輩としては尊敬するけど、人としては嫌いやで僕は! 可愛げがないとか、失礼にもほどがあるやろ。しかもな、ノー残業デーは会社の施策や! そういう、周りに合わせるって名目で無意味に遅く帰るやつがおるから中々浸透せぇへんのや!」
と、ぷんぷんお冠な様子だった。二葉は必死にユウについて行き、いつもよりもずっと速いペースで頑張って歩く。それにしても彼は一体どこから聞いていたんだろうか。二葉と橘がロビーにいる姿を見て、行くか、行くまいか、と様子を窺っていた姿を想像して、なんだか申し訳ないような、ありがたいような気分になる。
「佳苗さんはどんだけ忙しくても水曜日には定時に帰るように努力しとんのや! でもそもそもな、佳苗さんに負担が行きすぎやねん。僕も引っ越しで階が変わるまで知らんかったけど、営業部のやつら、みんな佳苗さんに甘え過ぎや! 総務部の子らもどんどん佳苗さんに押し付けよって……万一佳苗さんがおらんくなったらどうする気やねん! 部長も把握せえよ!」
吐き出す言葉はどんどんヒートアップしていく。ユウは振り返ることもせず、ただただ真っ直ぐ有るき続けている。
「現状まとめて対策をねって、僕は上の人らに報告すんぞ。僕もそろそろ総務部から元の営業部に戻るけど、この引っ越しの意味はこれにあるって思ったわ! 絶対に、業務を平準化したるからな! そしたら回り回って全員はよ帰ってハッピーやんけ!」
二葉が知らぬうちにユウは色々と動き回っていたらしい。
文字通り吐き出すように言葉を重ね続けていたが、ユウの歩きは次第にゆっくりと変わっていく。良かった、とほっとした。ぴたりと立ち止まり、道の端に止まる。いつの間にか長くなった日が、ゆっくりとビルの隙間に落ちてオレンジの光を街の中に溶かしていく。
ユウは、ぱっと二葉の手を放した。自由になった指先は、なぜだか少し寂しかった。
「佳苗さん、先輩と、話し合おうとしとったやろ?」
「え? うん。話さなきゃって、何度も思ったんだけど、やっぱり駄目で……」
「そんなんええねん!」
怒っているのか、それとも悲しそうなのか。二葉には読み取ることができなくて困ってしまう。
ユウはただ肩をいからせて、すぐにすとん、と力を抜いて二葉に向き合った。
「たしかに、じっくり話すことは重要や。僕かて小さいときは妹のこと怪獣やと思っとったけど、でもちゃんとお互い人間やんってわかったことがあるしな。でも、そんなんできるのは家族やからやん。大切な相手やから、ちゃんと話して、お互いに近づこうって努力できるんやん。世の中には話も通じんやつはいくらでもおる。やからそんなやつ相手にせんで、適当でええねん。佳苗さんはなんでも真面目すぎや!」
あまりの勢いに、わあ、と圧倒されてしまった。
それからちょっとだけ苦笑した。申し訳ないくらいに、ユウはとにかく真面目な顔をしていた。
「すごく心配してもらったみたいで……」
ごめんなさい、とユウを見上げると、「ほんまやで」と口元をつんとさせて、ユウはそっぽを向く。
「佳苗さんは僕の話も、誰以外でも真面目に聞いて考えすぎなんや。もっと適当に流してくれへんと、困るわ」
「たしかにそうかも。でも、ユウさんの話は、ちゃんと聞きたいから」
ほうか。と相変わらずそっぽを向いている。
そろそろ息も落ち着いてきたから、聞きたいことを聞くことにした。
「ちなみにだけど、さっきの橘先輩に言った『佳苗さんと編み物をするのが楽しい』っていうのは、適当に言った言葉?」
「適当や。ほんまのことを、適当に言っただけや」
向こうが納得できへんのなら、納得しやすい理由を言ったっただけや、とぽそりと言う。
「そっか。よかった。私もユウさんと編み物するの、楽しいよ。レース編み、出来上がったらまた【自由時間】に行くから。今月にはできると思う」
「ふうん。応援してるわ。がんばりや」
「うん。がんばる」
にっこりと二葉は笑った。それから、ユウもほんの少しだけ、微笑んだ。
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