第16話


 二葉の心の中でずっと重くのしかかっていた気持ちは、どうやらただの勘違いだった。本当のところを知っている人はもうこの世界にはいないけど、何をどう受け止めたらいいかわからなくて体中がふわふわする。普段と変わらないように生活しているつもりなのに、やっぱりいつもと同じようにはできなくて、水曜日のノー残業デーでさえも残業してしまい【自由時間】に行くこともできなかった。


 どこかぼんやりしてしまって時間ばかりが過ぎていき、金曜日の夜、電車に乗り込もうとしたときに、ぐいと腕を掴まれた。


「佳苗さん、大丈夫なんか?」


 ぼんやりと青年のほっぺたにあるほくろを見つめる。


 二葉の反応のない様子を不安に感じたらしく、「佳苗さん?」と再度ユウは問いかけた。そうするうちに、パタンと電車のドアが閉まり、そのまま通り過ぎていく。


「あ……」

「うわっ、すまん、僕も帰ろうと思っとったのに!」

「ううん、私もぼんやりしてたから」


 ユウの関西弁を聞いて、落ち着くなあ、と思ってしまったのだ。次の電車までそれほど待つわけではなかったが、「アホしたわ」とユウは赤い顔をしてごしごしと手の甲で顔を何度も拭っている。


「最近、佳苗さんおかしいやろ……。【自由時間】にもこんかったから、その、さっき佳苗さんを見かけて、思いっきり追いかけてしもて」


 見ると、ユウはいつも通りのスーツ姿だが、額が少し汗ばんでいる。「大丈夫なんかって、いきなりどんな訊き方やねん。ほんまわけわからん」と今度はそっぽを向いた。


「私、やっぱり変だった?」


 ぽつりと問いかけると、少しの間があってから、うん、とユウは頷いた。途端に恥ずかしくなって二葉も肩を小さくさせてしまう。せめて人にはわからないようにと気をつけていたはずなのに、全然だった。


(ごまかして……ううん、こうなったら)


 むしろ相談できる相手といえばこの人しかいないかもしれない。ユウも、二葉の異変を察してくれているのなら、話しやすいことこの上ない。


「ユウさん、ごめんなさい。少し相談したいことがあって。この後時間ってあるかな?」


 思い切って尋ねると、ユウはきょとりと黒い瞳を瞬かせた。

 けれどもすごくに、「ええよ。大丈夫や」と真面目な顔で頷いていた。まるで全てを知っているような、そんな様子にも見えた。なんでだろうと疑問に感じたが、すぐにその理由もとけた。

 つまり彼も勘違いをしていたようだ。






「えっ、佳苗さんが悩んどるのって橘先輩のことやなかったんか!?」

「ぜ、全然違うよ! びっくりした! 私のこと、それでずっと心配してくれてたの?」


 会社の最寄りの駅のホームに居続けるというのも気まずく、どこかのお店に入ろうとしたが本日は金曜日。つまりは花金である。どこも満席だったために、駅の近くの公園で話すことにした。


 小さな街灯が一つあるだけの真っ暗な公園の中で、きいこきいこと音を鳴らしつつブランコに乗っている状況が、一周回ってちょっと面白い。


「こないだのフリマで橘先輩がおったから、てっきり何かあったんかと。そうか、違ったんかあ……」と、ぼんやりとした声を出しながら、ユウはかしゅりと音をたてて炭酸飲料の缶を開けた。道端にあった自販機で二葉もジュースを購入していたので、同じく二葉もちびちびと飲む。座っていたブランコが、まだきしんで音を立てた。


 フリーマーケットに橘と会ったとき、ユウはアッキーの荷物を持つために席を外していたが、どうやら橘と話しているところを見られていたらしい。場所もそれほど遠くはなかったので、逆に見ていない方が不自然だったな、と今更ながらに考える。


「うーん。たしかに田端さんが橘先輩のことでよく絡んでくるっていうか、困ることもあるけどそれはどうでもいいというか。っていうか、ユウさんも知ってたんだ……なんか気まずいな……」

「まあ、同じ階におったらなんとなくやけど。でも気づいたら誰かが別れて、くっついてってようわからへんから、僕の情報は常に一個前くらいでなんにもわかってへんで」

「自慢気にすることじゃないと思う……」


 この調子では、自分が彼女付きだと勘違いされていることも知らなさそうだ。しかしそれがおっとりマイペースな男子が自由に生きていける防波堤になっているような気もするが。


「じゃあ、橘先輩のことやなかったらなんなんや?」

「それは……」


 ここまで話した後に、相談といっても特にどんなアドバイスを求めているわけでもないと気がついた。ただ、自分の中で呑み込めていない現状に困惑しているだけだ。どう伝えたらいいんだろう。そもそも、伝えるべきことなのだろうか?

 両手でジュース缶を持ちながら足を動かして、思わず小さくなっていた。


「言いづらいことなんか?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど、どこから言えばというか、何を言ったらいいかわからなくて」

「やったら、最初から全部言ったらええやん」


 ぱちりと瞬き、顔を上げた。


「僕はちびちびサイダー飲んどくわ。公園の備品やと思って話しいや。穴になった気分で受け取ったる」


 あまりのマイペースさに、思わず吹き出してしまった。でも、そんな彼だから二葉も助けを求めたのかもしれないな、と思った。


 だから、ゆっくりと二葉はユウに説明した。

 父親のことを知りたいと思って編み物を始めたこと、鳩美から聞いた話や、自分自身がずっと勘違いをしていて中々気持ちの整理ができないこと。話すだけでもすっきりして、一つひとつのことはとてもシンプルなのだと気づいた。


 それなら、自分は一体どこに気持ちがひっかかってしまっているのだろうか。

 話し終えると、缶の中に入っていたジュースも空っぽになってしまった。しん、とした夜の空気を感じながら、誰もいないシーソーやすべり台を見つめた。街灯はときどき光が淡くなり、ぶん、と音を立てて不規則に地面を照らしている。


「今の僕は公園の備品やけど、ちょっと話すで」


 まだその設定は続いていたんだ……と思いつつ、「どうぞ」と続きを促す。


「前から不思議やったんや。佳苗さんが持っとるかぎ針編みはお父さんのものやって言う取ったのに、編み物のことあんまり知らへんなあって。作り方の話ちゃうで。あみぐるみとか、コースターとか。初めて見たって顔してたやろ」

「え、うん……」

「両方スタンダードな作品やからかぎ針を持っとるなら、作る人の方が多いと思うねん。それでも佳苗さんのお父さんは作らへんかった。それって、なんでやろなって。でも、話を聞いとってわかったわ」


 ユウが何を言いたいのだろうと窺うような気持ちは、佳苗自身も薄々気づいているものだ。自然とブランコの鎖を持つ手に力が入った。


「作らんかったんちゃう。時間がなくて、作られへんかったんや。……編み物を作るのはごっつい時間がかかる。特に、服なんてそうやわ。小さい佳苗さんもおって、仕事しつつなんて大変やったと思う。お父さんは佳苗さんのものを作りたくて、自分の趣味の時間を全部佳苗さんにつぎ込んだんや」


 ユウの言葉を聞いて、喉の奥がじわりと熱くなった。苦しくもなった。他にしたいこともあったろうに、二葉は父の時間を奪った。唇を噛み締めて顔を伏せ、ゆっくりと息を吸い込むと、その動きでさえも喉が震えた。けれど、「違うで」とユウの鋭い声が聞こえた。


 見ると、彼はじっと二葉を見つめていた。


「お父さんは、それが楽しかったんやろ。大事な時間やったんや。佳苗さんのお父さんの、【自由時間】やったんや。趣味の時間は、みんなそうや」


 そんなわけがない、と言いたくても視線が揺れた。身じろぐとかしゃりと鎖が揺れた。そっぽを向いて、耳を塞いでしまいたくなった。


「待ちや。佳苗さんが考えとること当てたる。僕が言うとることも正しいかもしれへんって思っとるんやろ。でも、わざとネガティブに考えて、自分自身を罰したいんやろ。せやけど、ほんまに佳苗さんが、一番気にしとるんは、のことちゃうんか?」

「……なんで、そう思うの?」

「そらわかる。佳苗さんに服を作らへんくなったお父さんが、自分の趣味の時間全部を使って作って、編み残したものやろ。そんなたいそうなもん、作る方も見る方も心残りに決まっとる。ちょっとでも作る大変さを知っとるなら、なんとなくわかる」


 そうだ。編むことの楽しさや、もどかしさを知る前の二葉ならば想像もしなかったかもしれない。父の編みかけのレースがあると知っても、もったいないなと感じるくらいで、クローゼットの奥にしまい込んでいるだけだったと思う。


 でも、知ってしまった。丁寧に編み込まれた糸や、自身で作るデザインの難しさ。持ち手に書かれた数字が擦り切れるほど使われた父のレース針のことを思い出して、悔しくて、悔しくてたまらない。


「佳苗さんが、続きをしたらええよ」


 一瞬、何を言われているかわからなかった。頭の中でユウの言葉を呑み込み、ぎょっとして青年を見る。ユウは、ただ冗談でもなんでもなく、真剣な顔をしていて、じっと互いに瞳を見合わせた。


「編み図は残ってへんの?」

「……それは、一緒に叔母がくれたけど」

「やったら佳苗さんが、したらええねん。完成させへんと編み者はただの糸や。きちんと編み終えへんとずっと心の中に残り続けるもんや。ちゃんと昇華せなあかん」

「でも」

「こないだのフリマで『どんだけ放置しとるやつでも、他の人に触られるなんて嫌や』って言うてもうたけど、それは事情を知らへんかったからや。あくまでそれは僕の話で、人にも、状況にもよる。佳苗さんは続きを編んでいい。僕は、そう思う」


 背中を押されても迷いは晴れない。

 なんせ、許可をする人はもうこの世にはいない。残った二葉が父の言葉を勝手に想像するのは、こう言ってほしいと願っているだけの卑怯な行動のように感じた。けれど、父が作ったレースは、ユウが言うようにこれからも二葉の胸の中でしこりのように残り続けるだろう。


 前にも、後ろにも動くことができず、ただ立ち止まるしかない。できることはじっと自分の足元を見つめることだけ。

 そんな自分が、情けなかった。


 どれくらいの時間が経ったのか。もしかするとほんの少しの時間だったかもしれなかった。「あんな」とユウは迷うように言葉を呟いた。「なんか、今更やから。言うのも変やなって思っとったし、もしかしたらやねんけど」なんだか先程までと違って、歯切れが悪い。


「多分やねんけど」

「……あの、ユウさん?」

「よし、言うわ。あんな、僕、佳苗さんのお父さんに会ったことあるかもしれへんねん」


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