5-4 ✦ 血まみれの口づけ
ジル自身、愕然としていた。
彼はリオ。幼馴染みのレナード・シンクレア。
この意地悪な世界にジルを引き留めてくれた、何よりも大切な、愛おしい人。
忘れるはずがないのに、どうして一瞬わからなかったのだろう。
魔導書だ。竜の言葉を覚えるために、いつも以上の深度で侵蝕を受け入れたうえ、媒介として使った影響。
だからさっきまで、らしくもない冷たい口調になってもいた。
ぞっとした。ペイジの父は何十年も、こんな恐怖と戦っていたのか。
「ふざけるなふざけるなふざけるなッ! 僕は君を、君とこれからの総ての〈書庫番〉を救うために……、それを君は、自分から身を捨てるような真似を……!」
身体に力が入らない。ジルはへたり込んだまま、己の前に立ちはだかったその男を、ぼんやりと見上げた。
杖を投げ捨て、ペイジは自らの両手で無抵抗な女の首を締め上げる。
彼の優しい草色の瞳からはぼろぼろと涙が滴っていた。
「君に、父と同じ末路を辿らせるくらいなら……そうなる前に……まだ綺麗なうちに、死なせてあげなくちゃ……」
「ッう、ぅ」
「僕は父さんを尊敬してたんだ。誰も読めない魔導書を扱えて、何でもわかる……この世で一番の物知りだ。自慢の父だったよ。
でも、魔導書が壊した。あんなに賢かった父さんが、自分の名前も、僕や母さんのことも忘れて……今はもう、母さんが……愛する人が死んだことすら、理解できない……!」
ペイジの手は震えている。そのせいで力を込めにくいのか、ジルの意識は何度も寸断を繰り返しながらも、まだこの世に留まっていた。
彼の母親は一年前に病死している。何年か前から臥せっていたらしいから、ペイジはその間、壊れゆく父と死にゆく母の狭間で過ごしたことになる。
その苦しみは同情に値するし、凶行に走った心情も理解できるとジルは思う。
――この人にとっても世界は意地悪だった。そして私と違って、傍にいてくれる誰かが、彼にはいなかった。
寂しさは人を狂わせる。世界と繋がれない人は、自身が滅びることすら怖れられない。
それは、あまりにも哀しすぎる。
ジルは違う。独りじゃない。家族やリオ、他にも何人か、死んだら悲しんでくれそうな人がいる。
彼らのためにも死ぬわけにはいかない。
とはいえ身体はもう限界だ。眼も、開けていられない……。
「――」
ふいに渇いた銃声が響き、ペイジの手から急に力が抜けた。そのまま彼とジルはそれぞれ反対側に倒れ込む。
せき込みながら、ジルはなんとか地面に肘を衝いた。かすかに身を起こして見えたのは、脇腹から血を流して昏倒したペイジと、横たわったままこちらに銃を向けているリオの姿。
直後、彼はふたたび倒れた。
「リオ……!」
這いずって彼に傍寄る。リオは見るからにひどい火傷を負っていて、周りに広がる血の海に、使いかけの
時間稼ぎを頼んだせいでこんな大怪我をさせてしまった。そのうえジルがきちんとペイジを止められなかったから、自分の回復を途中で切り上げて狙撃したのか。
――救急車。それに、助けが来るまでの間に応急手当。
するべきことはわかっている。けれど、ジルはキットに手を伸ばせない。
自分は
「いや……、リオ……リオ……!」
泣いたって仕方がないのに。恋人の血にまみれた地面に手を衝いて嗚咽するジルを、黒竜も困惑しながら見つめている。
せめて動けたら、走って街に助けを呼べるのに。そうしたらリオは助かるかもしれないのに。
立ち上がれもしない脚が憎い。
腹立たしさに思わず腿を叩こうとした瞬間、何かかジルの懐から転がり落ちた。
姉からもらった〈魔法の
ジルははっとしてそれを拾い上げると、指が潰れそうなほど握りしめながら、もう片方の手を震わせながら救急キットに伸ばす。掴む。――壊れない。
このスプーンは魔力を操作できると聞いた。だから装置を壊してしまうほどの余剰は、竜に預かってもらうことにする。
必要な分だけを流し込めば、キットは正常そうな音を立て、回復魔法が起動した。青みがかった淡い緑色の燐光が溢れ出し、リオの身体を包んでいく。
「お願い……」
あとは祈るしかない。スプーンと一緒にリオの手を握って、頬を寄せながら。
流れ落ちる涙を拭うこともせず、どれくらいそうしていただろう。
ふいに、誰かの優しい指が、ジルの頬に触れた。
「人が……死んだみたいに、泣いてんじゃねえ」
「……ッ」
かすれた声で呟いて、リオはへらりと笑う。その表情を見てジルはもう堪らなくなる。
起き上がろうとする彼を制して、齧りつくようにキスをした。
遠くで
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