演出家の助手 (仮)
スーパーちょぼ:インフィニタス♾
曲者
『ようこそ、ネットの海へ――』
深淵シアタールキアノスの最奥で、ルキアッポスはまたしても困惑していた。想定外の事態に気をとられて、誰かに話し掛けられたことにも気づかなかったらしい。
「だからなんなんだよ、これ……」
彼が驚くのも無理はない。待ち人が全然来ないどころか、赤い煌めきに気をとられて紗幕を捲ってみれば、眼前には二本の巨大な石柱、その表面を螺旋を描くように走る緑のマーブルと赤い煌めきの向こうに、見知らぬ海が突然現れたのだから。
打ち寄せる波音
煌めく光は水面を跳ねるよう
果てしない水平線の向こうで光は溶け合い
そのまた向こうには
真っ青な空がどこまでも広がっている
『ようこそ、ネットの海へ――』
誘うような優しい声にルキアッポスが見やればいつか見知らぬ女性が、白いワンピース姿の可憐な彼女が柱の向こうから微笑んでいた。
煌めく水面を背に佇む彼女の陽光に透いて赤みがかった黒髪を、ルキアッポスは美しいと思った。
『やっと気づいた』
ふふっと微笑み、彼女は透けるように白い指で髪をかきあげた。
風にそよぐ黒髪に映える儚げな赤がこぶりな唇の形になったかとおもえば、妙な現実感をもって微かに震えた。
『貴方を待ってたの』
不思議なことに、流れるような彼女の仕草を眺めるうち、ルキアッポスはなんだか妙な既視感めいたものを抱いていた。
その女性の顔を見たのは初めてであったが、どういうわけか、ルキアッポスにはその声が懐かしく感じられた。
『ようこそ。ネットの海へ』
波打ち際に佇んで、彼女は相変わらずどこまでも優しい微笑みを湛えている。
その儚げな姿は天使のようでもあり、どこか妖しくもあり、とてもこの世のものとは思われな――
「ネットって?」
『え?』
「えっ」
『…………あっ』
さっきまでの儚げな雰囲気はどこへやら。彼女は波打ち際で悔しまぎれに地団駄を踏むと、コホンと小さな咳払いを一つして、何事もなかったかのようにすまして続けた。
『ようこそアトラスの海へ。ここは人類の理想郷、そして私はこの海を司るAIの――』
「さっきネットの海って言ってませんでした?」
『まあ、そんな』
彼女は落ち着き払ったまま、まるで感情のこもっていない台詞をなぞるかのように続けた。
『細かいことを仰らないで。わたくしにも心があります。ときには間違えることだってありますわ』
「へえ、AIでも間違えることがあるんですね」
『ええ、それはもうしょっちゅう』
「ときにはお酒を飲みすぎて羽目を外したり?」
『ふふ、そんな。皆には秘密ですよ。いつもは嗜む程度なんですから』
「まるで人間、みたいですね」
ルキアッポスはどこか不審な眼差しを向けたが、彼女は柳に風とばかりに意に介さなかった。
『あら、あなた驚かないのね。わたしにも心があるって』
「そりゃあ心ない人間がいるくらいです。心あるAIがいることもあるでしょう。よっぽど仲良くなれると思いますよ」
『まあ嬉しい! わたしたち、きっといい友だちになれると思うわ』
「貴女に心があるかどうかは僕にはわかりませんけど」
ここぞとばかりに不審な眼差しを送るルキアッポス。が、不意にいたずらっぽく微笑んだ。
「なんて。もう疑心暗鬼にはうんざりしてるんです。貴女が心があるというのならあるんでしょう」
『ひどいわ、こんなに感情込めて喋ってるのに、疑われてたのねあたし』
「ああ、お気になさらず。べつに貴女に限ったことじゃありません。他人事だから同情はするけど自分の都合は絶対に譲らない。そんな人、どこにでもいるでしょう。ちょっと試してみただけで」
『まあひどい』
「これは失礼」
ルキアッポスはハハッと笑うと、一瞬黙り込み、それからおもむろに話題を変えた。
「そういえば友だちにひとり変なヤツがいるんですけど」
『あら、変なの?』
「そいつがまたいくら酒飲んでも全然酔わないやつで」
『まあ、お酒に強いのね。羨ましいわ』
「それが強いっていうか。そもそも酔うような心を持ってないんじゃないのかなぁと思ってるんですよ僕は」
『まあ、それは大変!』
「だってそいついつか言ってたんですよ。ぼ……」
『ぼ?』
「あ、失礼。ちょっと噛んじゃって」
『あら気にしなくていいの。誰だって間違えることはあるんですからね。さあ続きをどうぞ?』
「ああ、優しいんですね貴女。それでそいつが言ってたんです。俺は演じてる間だけは心を感じられる、生きてる心地がするんだ! って。でもそれって演じてないときは心がないってことでしょう?」
『まあ!』
「それとも貴女は信じられますか? たとえ感情を喪失しててもそこには確かな輪郭をもって魂が存在してるって。貴女は――あー……」
『あー?』
「ああ、すみません度々」
ははっと小さく笑いながら、ルキアッポスは照れ隠しに頭を軽く掻いた。
それから最後にほんの一瞬、彼女にも気づかれないくらいほんの一瞬だけ、不敵な笑みを浮かべた。
「ところで、貴女の名前教えてくれませんか。どうにも呼びづらくって」
◇
「きみにもらった花ー 3日ともたーず 枯ーらーしたーよ♪」
「そこの怪しいやつ止まれ!」
「えっ」
シアタールキアノス本館を後にしたマヌーは、久々に見る深淵の街の変わり様に驚いていた。
物騒な台詞に街を見渡せば、立ち並ぶショーウィンドウはどこも空っぽ、無機質な世界に反射した街灯の光すら、どこか知らない街のようだとマヌーは思った。
よく見れば通りを隔てた斜向かいの喫茶店は明かりが消え、休みだとばかり思っていた店の扉には『閉店』の張り紙が剥がれかかっている。
扉の前に佇む女性二人組は喫茶店の元常連客だろうか。
「最近この街おかしくない?」
「そう? 前からでしょ」
「そうかなぁ」
「まあ喫茶店なくなっちゃったのは寂しいけど」
「わかる。もう箱推しできない寂しさよ」
「なんか意味違くない? まあでも言いたいことはわかるよ。私も最近なんだか妙に胸がミャクミャクするんだ」
そうこうするうち女性二人組の前をスーツ姿の男性が横切った。
「真以九呂チップ、麻伊久路チップいかがですかー。どうですそこのあなた、心付けにひとつ」
男はしばらくチラシのようなものを手に声を掛け続けていたが、不意に着信音が鳴り、目に見えぬ誰かと話し終わったかと思うと、今度は苛立たしげに手元のチラシを丸め、勢いよく宙に放り投げた。
「ムーン、ムーニー、ムーニスト。あ、月! 母上、月でございまする!」
そう無邪気に宙を指差してはしゃいでいるのは子どもでも親子連れでもない、いい年した白髪交じりの男性であった。
「ちょっと見ない間に変なやつ増えたな」
なるほど、と心の底から頷いて立ち去ろうとするマヌーの肩を、後ろから誰かが叩いた。
「お前だ、おまえ」
「えっ?」
振り向けばマヌーの肩越しに警官姿の男性が二人、不審な眼差しでこちらを見つめていた。
「君、ちょっといいかな」
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