第4話 煎茶の朝と、想い出めぐり

「ありがとうございました──」

「ごちそうさまでした!」


 仲居さんに送り出してもらい、3人は店を後にする。


 とっぷりくれた夜の空気にふみだすと、街灯の灯りがきらきらと浮かびあがって見えた。


「美味しかったねー!」

「大満足でした」

「うん。教えてくれた……仙道さん? よろしくお伝えください」

 と言う梶田に、梨花はにっこりと答える。

「はい!」




「あっ」

 しばらく歩いたところで、キョーコがばしばしと梨花の腕をたたく。

「舞妓さんだぁ♡ 綺麗っ」

 少し先を、着物の後ろ姿が歩いていた。

 長く垂らした、だらりの帯が、歩くたびにゆるりと揺れる。

 梨花はほう、とため息をついた。

「あの後ろ姿……仕草ひとつとっても、美しいです……!」

 思わずにぎりこぶしを作ってしまう。


「あの下駄? 名前わからないけど、すごいよね。高さがあって歩きにくそうなのに、そんなの微塵も感じさせない優雅さよ。私の厚底なんて目じゃないわ」

 と、キョーコ。

「町の風景こみで、良いですね。非日常だ」

 と、梶田も街レポのようなコメントを出す。


 5分もすると、最初の目的地──キョーコが電車に乗る予定の駅に着いた。


「じゃーねん♡」

 と、駅に降りる階段の前で手を振るキョーコ。


「今日はありがとうございました! お話できてよかったです」

 と、梶田。

「こちらこそぉ。梶田さん、明日は梨花ちゃんをよろしく頼みますねっ」

「お任せください」

「キョーコさんったら。じゃあ、また」

「うん、またね、梨花ちゃん♡」


 


「今日は、同席いただいてありがとうございました」


 宿に向かい歩きながら、梨花は隣の梶田に礼をいう。

 昼間より少し通りを歩く人が減って、二人並んで歩いても支障なかった。


「こちらこそ。梨花さんのお友達に紹介してもらえて、嬉しかったですよ?」

「よかったです。シェアハウスの人たち、皆いいひとで──」

「うーん、伝わらないか」

「え?」

「いや、何でも。キョーコさん、気さくな人ですね」

「ですよねっ。大好きなお姉さんです」

「梨花さんが、大事にされてるのがわかります」


 なんだか、さっきから梶田の視線が少し照れくさい。

 梨花は少し熱くなった頬をそむけて誤魔化すように、曲がり道の先を指差した。


「あ、宿こっちです」

「手配、僕の分までありがとうございました」

「いーえ! ついでですから。素泊まりだったので、普通のビジネスホテルですし──」




 チェックインをそれぞれ済ませ、宿泊階へと移動する。

 同じ部屋に泊まるわけでもないのに、エレベーターの中、梶田と並んだ右肩が少し緊張した。

 隣の部屋の前で、梶田が笑顔で手を振る。


「じゃ、また明日」

「はい、また明日」


 ひとり部屋に入って、梨花は、ふう、と息を吐く。

 いままで恋愛に疎い人生を送ってきたから、自分の気持ちがわからない。


(梶田さんがかっこいいから、ドキドキしてるだけかもしれないし!)


 うん、明日も早い。

 今日はゆっくり汗を流して、さっさと寝てしまおう。

 このホテルは、大浴場がオススメだと、口コミにも書いてあったし。大きいお風呂でリラックスして。

 京都の町を寝不足で過ごすなんて、もったいないオバケが出てしまう。


 

          ◇



 大浴場はとてもよかった。

 外の休憩スペースも、とても広い。

 自販機でコーヒー牛乳を買って湯上がりタイムを堪能していると、同じく湯上がりの梶田がやってきた。


「あっ、梶田さん」

「さっきぶりです。僕ら、タイミングバッチリじゃないですか」

 梶田の眼鏡姿を見るのははじめてで、まじまじと見てしまう。

 そして、気づく。

「あんまり顔、見ないでください」

 梶田の顔はじっくり見たくせに、そんなことを言ってしまう。だって仕方ないのだもの。

「すっぴんなので」

 梶田は首を傾げる。

「え、でも眉毛ありますね」

「ええ?」

「や、いとこの姉ちゃんがすっぴんだと眉毛半分しかなくて──」

「ふふ」

 思わず笑ってしまった。


 あ、そうだ──と、梨花は梶田に手招きをして窓際に誘う。

「こっちから、少しだけ鴨川が見えるんです」

「本当だ。鴨川と夜の桜、いいですね」



 ……………………

 ………………



「わ、もうこんな時間か。ちょっとのつもりが話し込んじゃいましたね。すみません。あ、そうだ。明日は何時に出ましょうか? 朝食は、どうします?」

 と、梶田。

 梨花は頭の中でシュミレーションしてから、提案をかえした。

「7時半にフロントに待ち合わせでいかがでしょう? 行きたいお店が」

「お、いいですねぇ。モーニングですか?」

「はい! モーニングに行きましょう!」



          ◇



 ホテルのロビーで、梨花はガラス越しの街を見ていた。

 透き通った青空の、モーニング日和。


 なんとなく前髪を直したりして、梶田の到着を待つ。

 今日はたくさん歩くので、パンツスタイルだ。

 楽ちんだけど少し綺麗めに見える、若草色のテーパードパンツ。

 トップスは白のカットソー。

 パーカーは昨日と同じだ。

 もちろん、五味の用意してくれたものだった。


 チェックアウトの時間まで、荷物は部屋においたまま。

 貴重品だけを、ハンドバッグに入れて携帯している。


「お待たせしました」

「いえっ」

 声に振り返ると、私服姿の梶田が。

 梶田は黒のクロップドパンツに白Tシャツ、グレーのカーディガン。

 荷物は小さなボディバッグのみ。

 カジュアルな私服も似合うなぁと、つい見てしまう。


「おはようございます」

 と、言う笑顔がまた爽やかやねー。なんて、心の中ではエセ京都弁のナレーション。


 そんな妄想に蓋をして、梨花も立ち上がって挨拶をする。

「おはようございます! じゃあ行きましょう! 梶田さん、朝はパン派です? ご飯派です?」

「うーん。普段はパンだけど、そっちの方が楽だからっていうのが大きいかな。たまには米も食べたくなります」

「ふっふっふ。今日行くのは和食モーニングです!」

「おお、楽しみ」




「え、何だろう、あれ。鬼?」

 道を歩きながら、梶田が指差す先には──町屋の瓦屋根の上にちょこんと乗る、鬼のような、神のようなもの。


「えっ、あっちにも! えー、おもしろーい! 昨日は気がつきませんでした」

「瓦と同じ色だけど、素材も同じなのかな?!」


 年甲斐もなくはしゃいでいると、近くの町屋の扉がカラリと開いた。


「お兄さんたち、観光の人?」

 そう言って出てきたのは、若いお姉さんだった。まだ開店前みたいだけれど、どうやら雑貨屋さんのような店構え。ここの店員さんだろうか。


「あっ、はい!」

「ふふっ。急にごめんねぇ。楽しそうな声が聞こえたから。あれは『しょうき』さんいうてねぇ、大切な守り神さんなんよ──。いろんな種類があるから、探して見て回るのも楽しいよぉ」

「へぇー! そうします! ありがとうございます」

「うちの店、9時には開くから。よかったら、また見てってねぇ」

 しっかりと宣伝して、ひらひらと手を振ったお姉さんはお店の中に戻っていった。


「ぜひ! ──あ、いいですか?」

 つい、即答してしまったけれど。梶田に聞くと、にっこり笑顔で頷いてくれた。

「もちろん」


 こういう出会いがあるから、街歩きっておもしろい。

 しばらく、『しょうき』さんを探しながら歩いた。


 夜とは違う、起きたばかりの京都の町。

 ほとんどのお店が閉まっている中、のれんを出している店があった。


「あ、ここです!」


 木造町屋の小さな入り口には、立て看板が置いてある。

 丁寧に描かれたメニューと、おばんざいの文字。


 のれんをくぐると、お出汁とごはんの匂いがふわりと体をつつんでくれた。


「うわ〜。もう、この時点で期待値やばいな」

「ですです」


「いらっしゃいませ──」

 迎えてくれたのは、和服に割烹着の綺麗なひと。

 女将だろうか。


「あ、2名、いいですか?」

「はぁい、カウンターへどうぞ──」

 

 案内された席に、並んで腰を下ろす。

 調理場を囲むL字のカウンターと、4人がけのテーブルが4つ。

 すでに2組、先客がいた。

 仲の良さそうな老夫婦と、梨花たちと同じ観光客だろうか、旅行雑誌を楽しそうに眺める学生風の女の子2人組。

 壁には手書きのメニューが並んでいた。こっちのメニューは、夜用のアラカルトだろうか。


「おこしははじめてですか──?」

「はい」

「では、モーニングの説明をさせてもらいますねぇ」

 と、女将はラミネートされたモーニングメニューを、梨花と梶田のの真ん中に。

 どうやら、ご飯、お味噌汁、お漬物、メインのおかず、そして小鉢のおばんざいが3種。そして飲み物。というセットらしい。

 女将が順に説明してくれる。


「ご飯、お味噌汁は3回までおかわり無料です──。お漬物は食べ放題やけど、セルフですんで──あのショーケースに小鉢が並んでいますので、お好きなものを食べられる量だけ出してくださいねぇ。

 メインのおかずはひとつ選んでもらうんやけど、今日は『たけのこと鰆の炊いたん』、『銀ひらすの西京焼き』です──。あとはおばんざい3種。これはお任せで付いてきます──追加で他のもっていう場合は、別料金になりますぅ」


(どうしよう。選べない……!)

 と、顔に書いてあったのだろう。

 女将はにっこりと笑って、梨花たちに言う。


「ゆっくり選んでくださいねぇ。あ、お飲み物は、煎茶、ほうじ茶、玄米茶からお選びできます。玉露はまた別料金になりますさかい。──それでは、お決まりになられたころにお伺いしますねぇ」



          ◇



「うーん」


 まったく、悩ましい問題である。

 昨日買ったさわらも、美味しそうだったよなぁ。

 でも西京焼きも大好きだし……。


「ひとくち交換しますか?」

「……いいんですか?」


 あまりに悩みすぎて、呆れられただろうか。

 しかし梶田の心優しい提案に、正直なところ、心が躍る梨花である。


 くすくすと笑う梶田。

 まったく嫌味がないから、不思議なものだ。

「どっちが食べたいです?」

「梶田さんは?」

「うーん。どちらか決めるなら、たけのこと鰆、かなぁ」

「じゃあ私、西京焼きにします!」

 

 清々しい気分で注文を済ませ、お漬物を取りに席を立つ。

 ショーケースの扉を開け、そこでまた迷える羊に逆戻り。


「お漬物も、種類がありますねぇ〜」

 とても眩しい漬物たちなのに、なかなか手が出ない梨花。

 どれかひとつが、選べないのだ。


(どうしよう。私って、こんなに優柔不断だったっけ)


 でもでもだって、春キャベツの浅漬けは間違いなく美味しそうだし、しば漬けも大好きだ。鷹の爪の輪切りが入った、壬生菜の漬物も、わたしは美味しいよと梨花を呼んでいる気がする。

 

 悩んでいるうちに、新しい客が店に入ってきた。

 あまり長考するとご迷惑だ。どうしよう。焦る。

 

 だから、梶田の出してくれた提案は、神がかった響きで梨花の耳に届いた。


「そうだなぁ。3つもらって、それを二人ではんぶんこ。どうですか? 梨花さん、好きなの選んでください」


「いいと思います!」

 あ、また食い気味に言ってしまった。

 少し恥ずかしいけれど、こういう時の梶田はとても楽しそうに笑ってくれるので、梨花も安心して食いしん坊の一面を出せるのだ。




「うわ、春キャベツの浅漬け、うまっ」

 梶田は本当に美味しそうに食べる。梨花もつい、にこにことしてしまう。

「あまりスーパーとかじゃ見ませんよね」

「うんうん。浅漬けなら、日々自分でもできるかなぁ。でも微妙な味付けが難しいかなぁ」

「自分の好みに寄せられるメリットはありますけどね。何回かの失敗はご愛嬌ってことで」

「先生! 今度教えてください」

「ふふ。承りました」



「お待たせしましたぁ。ご飯と……お味噌汁と、おばんざいです──」

 ぴかぴかの白米と、おあげと大根のお味噌汁が並べられる。

「おばんざいは、向かって右から──きんぴらと、しめじと水菜のおろしあんかけと、万願寺とうがらしの揚げ浸しです──。おかずもすぐにお持ちいたしますねぇ」


「美味しそう〜!」

「や、モーニングのレベルちゃいますよ」

「梶田さん、関西弁になってる」

「なりますよ、こりゃ」


「はぁい、おかずこちらに置かせていただきますね。ごゆっくりどうぞ──」


 梶田の前に置かれた『たけのこと鰆の炊いたん』は、深めの皿に、煮汁に浸かった鰆とたけのこ。そして控えめに彩りを添える、山椒の新芽。


 梨花の前に置かれた『銀ひらすの西京焼き』は、もう匂いからして美味しい。食べる前から、すでに美味しいなんて、困ったものだ。


「横に添えてあるのは、こちらも万願寺とうがらしで──軽く味噌に漬けた後、やいてありますの。食べ比べ、してみてくださいねぇ」

「はい──!」




「どれも美味しい!」

 と、梨花。

「本当。体が喜んでる気がする」

 と、梶田。


「西京焼きはご飯との相性ぴったりすぎるし、鰆とたけのこも味が染みてて、でもしつこくなくて──」

「梨花さん、珍しく早口になってる」

「や。興奮しすぎました」

「もうちょっと、いかがですか?」

 と、鰆の器を寄越してくれる。梶田は営業の星ではなく、神の御使いか何かではないのだろうか。と、梨花は思う。

 優しさがすぎるのだ。

「いいんですか──! あ、銀ひらすもどうぞ!」




「いい朝ですねぇ〜」

 と、湯呑みを両手で持ってほっこりする梨花。

 ふたりとも、頼んだのは煎茶だった。とても上品な美味しさで、1日の始まりをさらに充実させてくれる。


 梶田も煎茶をすすって、一息つく。

「やっぱり食事って、パワーの源なんだなって思いますよね。ひとりじゃ適当に終わらせがちだけど、誰かと食べると違うなぁ」

 梨花は深く頷いた。

「うん。それ、思います。ひとりじゃ料理も味気ないけど、シェアハウスのメンバーがいると楽しいですもん」

 いまではもう、一人暮らしには戻れない気さえする。


「じゃあいまは、ちょっと寂しいですね」


 梶田がそう言うので、はたと気まずくなって、しどろもどろになってしまった。

「え、あ、そう……ですね」

 危ない。そうだった、シェアハウスは過去の話という設定なのだった。


「梨花さん。よかったら、またこうして朝ごはんを食べましょう。旅行とかじゃ、なくても」

「いいんですか?! モーニング巡りしたかったんですー! そういう同士っていなかったから! 私、築地とかも行ってみたくて──」

「──ぷはっ」

「梶田さん?」

「いや、梨花さんらしいなって。ばかにとかしてないですよ?! いい意味です! 築地良いですね! 前に同期と行った店、よかったですよ! 休みの日に思いっきり早起きして──」


(? まぁ、いいか)


 梶田おすすめのお店の話を聞きながら、美味しい朝ごはんを噛みしめる。

 旅が終わっても、またこんな楽しい時間を過ごせるのかと思うと、嬉しくなった。



          ◇



「春のメニューでしたねぇ」

「うんうん。……懐かしいな。たけのこ掘り、小さい頃よくやりました」

「えー! すごいっ」

 梶田の思い出話に、梨花は思わず食いつく。

 とりたてを人にいただく事はあっても、自分で掘った経験はない。


 梶田は笑って続ける。

「いやでもけっこう力仕事だから、子供なんか役にたたなくて。じいちゃんの後を、ついてまわってただけなんだけど。持って帰ったたけのこで作ってくれる、ばあちゃんの筍ご飯、美味しかったなって」

「私も、今度作ります。よかったら、紅子さんにも差し入れしたいな。紅子さんの筍ご飯は、他の具は何でしたか?」

「たしか……。にんじんと、こんにゃく、あとお揚げかな」

「定番ですね! 私も好きですー」




 湯呑みを置いて、梶田が腕の時計をみた。

「けっこう長居しちゃいましたね。さっきの雑貨屋さん、そろそろ開いてるかな」

「よし、行きましょうか!」

 そういうことになった。




「いらっしゃいませ──」

 先ほどのお店に入ると、お姉さんが笑顔で迎えてくれた。

「あ、さっきのお兄さんお姉さん。来てくれたんです〜? ありがとうございます♪」


「可愛いですね」

 梨花は店内を見回して、言った。

 和柄の小物や、巾着バッグ、ストラップ。

 ガラスでできた動物の置物。うさぎや猫のお箸置きもかわいい。

 ひときわ目を引いたのは、カラフルな糸で作られた和風のストラップだった。

 梨花の視線に気付いたのか、お姉さんが説明してくれる。


「根付、おすすめですよぉ。組紐って、流行ったでしょう? 映画の影響で。だから、手に取られる方も多くて。人と人を結ぶって意味もあるから、プレゼントにもぴったりですよ──」


「なるほど──!」

(淡いピンクとレモン色のも可愛いし、エメラルドグリーンとシャンパンベージュのも素敵だなぁ……!)


「記念に買おうかなぁ」


 梨花が真剣に選んでいると、梶田がエメラルドグリーンとシャンパンベージュのものを手に取った。

「梨花さん、こっちの色が似合いそう」

「それ、気になってたんです! じゃあ、そうしようかなぁ」

「やった。じゃあ、僕にも選んでくださいよ」

「え、自分のより悩むんですけどっ! がんばります……!」


 ネイビーと水色のは海と空みたいで綺麗なのだけど、シンプルすぎるだろうか。

 あと気になるのは──ホワイトとエメラルドグリーンとロイヤルブルーのもの。優しい色合いが、梶田に似合うと思う。

 1色がお揃いだなんて、深い意味はなくてもなんだか照れくさいけれど。


「うーん」


 ふと、キョーコの言葉が頭に浮かんだ。


 ──私、人に選んでもらうの好きなのよー。これを使う度にさ、選んでくれた人の事を思い出すでしょう?


 ああ、困ったな。

 そんなつもりじゃなかったのに。

 自分の願望が、どんどん贅沢になっているみたいだ。


 梨花は意を決して、エメラルドグリーンとロイヤルブルーのものを手にとった。


「これ、どうですか?!」


「うん、好き好き。これにします」

 と、梶田。

 あっさりと決まった。拍子抜けするくらい、あっさり。


「ありがとうございましたぁ♪」

 雑貨店のお姉さんに会釈して、店を出る。


「よし、じゃあチェックアウトを済ませて、本日の目的地に行きましょうか!」

 と、梶田。

「本当に──ありがとうございます。正直に言うと、ひとりで行くのは少しだけ、さみしかったから。嬉しいです」

「道連れに選んでいただいて光栄です」

 少しおどけるように言う、梶田の優しさ。それが嬉しかった。

「ふふ。よろしくお願いします」




「じゃあ、一旦、京都駅に──」

 と、スマホで時刻表を調べようとした梨花に待ったをして、梶田は口を開いた。

「あ、そうそう。調べたら、電車よりレンタカーの方が早そうだし、ドライブできるし、道の駅とか寄れて良いかなって思って予約しておいたんだけど、どうでしょう? なんかね、この近くのお店で借りて、返すのは京都駅近くの店舗でもOKらしい」 


「道の駅……! あ、でも」

 梨花も免許は持っている。しかし、身分証として持っているだけなのだ。

「私、免許は持ってるんですが、ペーパーで……!」


「ああ、大丈夫、往復4時間くらいだから。僕が運転しますよ。余裕余裕。あ、でもSAとか道の駅とか寄りたい! 休憩っていうか、ああいう所のお土産ものチェック、好きなんだよー。距離を走るごとに、置いてあるものが少しずつ変わっていくのが好き」

「わかります! ああ、あそこからはもう離れちゃったんだな、とか。次はこのお土産の土地が近づいてきたんだな、とか。すごく楽しい」

「梨花さんもわかる?! 嬉しいなぁ」


「……調べてもらって、ありがとうございます」

 付き合わせているのは梨花のほうなのに。梶田は本当に優しい。

「全然! むしろ勝手に手配しちゃってごめん! 学生のときは、仲間うちでよくレンタカー連泊で借りて行き当たりばったりな旅をしてて──。そんなことを思い出したら懐かしくなってひとりで盛り上がっちゃって、つい」


「いえ! 楽しみが増えました! 行き当たりばったりな旅の、思い出話も聞かせてくださいねー」



          ◇



 しばらく歩くと、レンタカーの看板が見えてきた。

 梶田は店舗を指差して、梨花に振り向く。


「じゃあ、そこのレンタカー屋で車の受け取りしてくるんで──梨花さん、その間に飲み物とか、ガムとか、あっちのコンビニで調達お願いできますか?」


 ぱちぱちと瞬きをしてから、一拍遅れて梶田の意図を悟る。

「え、私もレンタカーのお金払いますよ」

 梨花がコンビニに行っている間に、レンタカーの支払いを済ませようとしているのだ、きっと。

 そういうわけにはいかない。だって、もともとは梨花の都合による旅なのに。


 しかし、屈託なく笑う梶田の意思は固そうで。

「大丈夫です。いつも弁当作ってもらってんだもん」

「え? だって材料費もいただいて──」


 なぜだか、梶田の眉尻が下がる。

 何かおかしな事を言っただろうか。


 真面目な口調で、梶田は諭すように言う。

「知ってますか? 市販のお弁当の値段には設備費とか人件費とかかかってるんです」

「? それは──」

(当然、知っているけども。だって売り物じゃないし──)


「梨花さんの手間賃、いつも払ってないし。受け取ってくれないし。というか、僕の気が済むように、普通にお礼させてください」


「……ありがとうございます」

 これ以上固辞するのは失礼かな。と、梨花は気持ちを改めた。

 ありがたく、梶田の気持ちをいただこう。


 だったら、こちらは……。


「来週のお弁当のおかず、豪華にしますね」


「やった」

 少年のようにガッツポーズする梶田に、思わず笑ってしまった。



          ◇



「飲み物オッケー、おやつオッケー、眠気覚ましのガムオッケー。あ、このチョコ美味いよね。梨花さん、良いチョイス!」

「ですよねっ! あ、アプリのマップも設定オッケーですっ」

「じゃあ、いきますか!」

 梶田の掛け声で、車はゆっくりと走り出す。



 ……………………

 ………………



 市街地から高速道路に入り、一時間ほど走っただろうか。


 FMに設定したオーディオから、梨花の好きなアーティストの曲が流れてきた。


「このバンド、学生の時から好きなんです」

「いいよねー! 初期の曲も知ってるよ」

「ほんとに!」

「あのアルバム好きだったなぁ。ボーカルのひとがジャケットの絵を描いてるやつ」

「tiny tail」

「そう! ……そっかー。一緒の聴いてたかー。あの当時の梨花さんにも会ってみたかったな」

「どこかですれ違ってたかもですね」


 そんな他愛もない話をしたり、時々は口を閉じて、流れる音楽に間をゆだねたり。

 そんなふうに穏やかに時が過ぎて、話題に困ったなぁとか、居心地が悪いなぁと思う瞬間が、驚くほど無かった。


 聴き入っていた曲が終わり、CMが流れる。

「この道ができて、だいぶアクセスが良くなったみたいだね」

 と、待っていたように口を開く梶田。


「たしかに。子供の頃はすごーく遠く感じて、いつも途中で寝ちゃってました」

 目を覚ましたら、もうおばあちゃんの家の布団の上だったりとか。


「あ」

 どんどん後ろに流れる景色に、PAの文字が見えた。

 梨花はスマホを取り出し、マップアプリを確認する。

「次のパーキングエリアはショップもあるみたい。寄りましょう」

「了解!」




 パーキングに車を停めて、車を降りる。

「わ、黒豆ソフト!」

 風にはためくのぼりを見つけて、梨花は声をあげた。


 車の鍵をかけて、梶田も後に続く。

「ご当地感、いいね〜! 僕、京都のこういうところは一回しかきたことなくて。海の方ね。福井とか石川とかは、日本海側によく行ったんだけどな」

「東尋坊! 行ってみたいんですよね〜。あと美術館も!」


 うんうん、と頷く梶田。

「いつか行きましょう」


 さらっとそんな事を言うものだから、梨花はとっさの反応に困る。

 築地とは違う。完全な旅行だ。


 いや、今だって旅行なのだけれど。でも。

 つい、逃げ癖が発動するのは、いい年をしてどうかと思うけれど、性格なのだから仕方がない。

 やっぱり笑って話題を逸らしてしまった。


「あ、お昼、どうします? 梶田さん、まだお腹空いてませんよね」


「さすがにね。完全に海側に出るまであと1時間くらいだし、あっちに着いてから海鮮丼を食べたいな」

「うんうん、いいプラン」

「とりあえずソフトは別腹?」

 にやりと笑う梶田に、笑い返す。

「ですねっ!」


 大袈裟に飛び跳ねたり、考えすぎて縮こまったりする、梨花の胸の中のドタバタが、梶田に伝わっていませんようにと、思いながら。



          ◇



 高速道路を下りて、最初に見つけたコンビニの駐車場。

 梨花と梶田は、缶コーヒーで乾杯した。


 梶田はそのまま、カーナビの画面をいじっている。

 その横顔に、梨花はお礼の言葉をかける。


「運転お疲れ様でした。ありがとうございます」


「どういたしまして。運転好きだから、気にしないでね。本当に、お家のあった場所には行かなくてもいいの?」


 梶田の気遣いに、にこりと笑う。強がりでも遠慮でもなく。

「はい。いまはもう、家もないし。他のお家が建っているかもしれないし。──それよりも、おばあちゃんが好きだった場所に行きたいです」

 その方が、おばあちゃんを近くに感じられる気がして。


「了解! えっと……この展望台か。ケーブルカーで上がるんですよね。じゃあこのあたりで駐車場を探すか……。ん。ナビ入れます」

「よろしくお願いします」

 そういうことになった。



 ……………………

 ………………



 ケーブルカーをおりて、少し歩くと、展望台にたどり着いた。


「おー! 絶景っ!」

 

 梶田の嬉しそうな声。

 たしかに、今日は雲ひとつない晴天に、海の青と樹々の緑がくっきりと映えて美しい。


 小さな梨花もよく連れてきてもらった、おばあちゃんの好きだった場所。

 広い展望台のまわりには、桜の木がたくさんあった。

 しかしどれも、未だ花は咲かず、つぼみのまま。

 気温の差、なのだろうか。

 やはりこちらは、市街地よりも少し寒い。

 梨花はパーカーの前を閉じた。


「まだ、こっちは桜咲いてないんですね」

 つぼみは、たくさんあるけれど。

「そうだねぇ。咲いたら綺麗だろうなぁ」

 と、梶田。

「あ、天橋立って、歩けるんだよね?」


 梶田が示したのは、陸と陸をつなぐ砂嘴さし、天橋立。


 梨花は頷く。

「歩けますよー。往復だとかなり時間がかかるから、半分くらいがちょうどいいかも」

「あとで行こう!」

「はいっ」

 

(あれ?)


 梨花は、天橋立のちょうど真ん中あたりをじっと見て、目を細めた。

 きらきらと空気中に輝く、粒子のようなものが見えた──気がしたのだった。


(ダイヤモンドダスト?)


 な、わけないか。もう暖かいのに。


(見間違いかな──)



 ……………………

 ………………



 ケーブルカーで下に降りて、天橋立を散歩する。

 松並木と、穏やかな海。

 向こうから走ってきた自転車と、すれ違った。

 風が気持ちよさそうだなぁと、梨花が自転車を眺めていると、

「そっか、レンタサイクルもあるんだね」

 と、梶田が言った。

 はた、と立ち止まり、梨花の顔をじっと見てくる。


「な、なんですか?」


「梨花さん、自転車乗れるの?」

「のれますよー! こう見えて中高自転車通学ですっ」

「ははは、ごめんごめん」

「よく言われますけどぉ」

 そんなに、どんくさそうなのだろうか。

 思わずジト目で見てしまう梨花だった。


「あ」


 松の間から、白い観光船が見えた。

 デッキに観光客の姿も。


「そうだ、観光船! あっちまで歩いて、帰りは観光船で戻るのもアリです──ね……」


 と、梶田の方を向いたつもりが、そこには誰もいなくなっていた。


「あれ? 梶田さん?」


 梶田だけではない。あちこちに歩いていたはずの、観光客の姿も。

 さっき通り過ぎていった、自転車も。


 長い松並木の道に、立っているのは梨花ひとり。


 ふわりと、視界に霧がかかる。


「わっ、わぁ」


 ふわりと、体が宙に浮かんだ。


 高所恐怖症ではないけれど、自分の下に何もないのに宙に浮いている感覚が、不安で仕方ない。


 松の上まで浮かび上がり、そして止まる。

 すると背後から、しっとりとした女性の声がした。


「ねぇ、彼はあなたのもの?」


 ばっと振り返る。

 声の主は、長い黒髪の美人だった。


 腰までの髪はツヤツヤまっすぐで、色白の肌に深緑色の着物をまとっている。

 目に見えない何かにしなだれかかる様が、気だるげで怪しくて──美しい。


 なんだか怖いしでも綺麗で見惚れてしまうし、その発言の破壊力もなかなかだし。

 どうしたものか。

 梨花は混乱しながらも、言葉を探す。


(私のもの、というと、語弊があるよね──)


「い、いえ」


 美女は悪気もなさそうに首を傾げた。


「じゃあ、もらっても良い?」


「えっ」


「だって、あなたのじゃないんでしょお? じゃあいいじゃなーい♪ 最近はたくさん人が来ても誰も遊んでくれないから、まつだけでひとりぼっち。まつだけは寂しいのだもの。あの男の子、可愛いし」


(もらってって、そんな──)


「だ、だめ……です」

「ん? なぁに? 聞こえないのだけど」


(梶田さんは──私にとって大切な友人で──)


 そう思ったはずなのに、口をついて出たのは違う言葉だった。


「わっ、私の、ですっ!」


 自分の言葉に、その声の大きさに、自分で驚き、恥ずかしさから口を手で塞ぐ。


「まぁ」

 驚いたような顔で、こちらを見る美女。


(わわわ私は、何を言って──)


「はいはい、そこまで──」


 また別の声がした。


 美女と梨花の間に突然割って入った、桜色の影。


 桜色のワンピースを着た、おかっぱの幼女だった。


「ごめんね、リカ」


 くるりと振り向き、申し訳なさそうに言う。

 その顔に見覚えはないのだけれど、ないはずなのだけれど、どこかで見たような気もする。

 混乱で言葉を返せずにいる梨花に、にこっと笑う。


「ここまで運んでくれてありがとう」




「さくら」

 と、美女は幼女のことを呼んだ。


「まつ。もう、ニンゲンをからかっちゃダメでしょう」

 幼女──さくらは、見た目に似つかわしくない口調で諭すように言う。


「ごめんごめん。だって、さくらが遅いのだもの」

「ひとのせいにしないっ」


 少女は振り返って、梨花に手を振った。


「じゃ、こいつの相手は私だから」

「えっ? あっ、はいっ」


 またふわりと体が浮く感覚があって、梨花は目を瞑る。


「ニンゲンはニンゲン同士。君たちも仲良くね。──あ、私の代わりに、あの子をかいておいたわ──」


 そう、耳元で、さくらの声が聞こえた。



          ◇



「……かさん、梨花さん!」

 

 瞬きをすると、太陽の光が眩しく飛び込んできた。


 霧はもう、ない。

 梨花の足は間違いなく、砂利の上に立っていた。


「ひゃいっ」


 ああ、また変な声が出てしまった。

 かぁっ、と、頬が熱を持ち血が集まるのがわかる。


「大丈夫、です?」

 心配そうな梶田の顔。


「あっ、ごめんなさい、ぼーっとしちゃって──」

 さりげなく目だけであたりを見回すけれど、元通りの風景だ。

 道を行く観光客の姿も、変わったところはない。みな、思い思いの旅を楽しんでいる。


 安心したように梶田は笑う。

「ぜんぜーん。ゆっくり思い出にひたってね。おばあちゃんに会いに来たんだから」


「あっ」

 おばあちゃん、ごめん。一瞬だけど忘れていた。


 梶田さんの事で、頭が占められて。

 もう、まつさんがあんな事を言うからだ。と、思わず思ってしまう。


 ポコン


「いたっ」


 何やら軽く小さく固いものが頭に落ちてきた。

 そして、


 ──ニンゲン同士は、ちゃんと伝えないと伝わらないわよっ! まつに言ったみたいに大きな声で、ね。


 姿は見えず、しかし記憶の中の美女の声でそう叱責された。

 まるで、心の中を読まれたみたいに。


 そんな事を言っても、梨花だってあの瞬間に自覚したのだ。


 梶田の隣のポジションを、譲りたくないという気持ちを。


「松ぼっくり」


 痛みの犯人を、梶田が拾いあげる。


「落ちる瞬間、初めて見ました」


 屈託のない笑顔が、いまの梨花には目の毒だ。


(落ちる、瞬間。落ちる。何に──?)


 だめだ、すべてがこの気持ちにつながってしまう。

 梶田はそんなつもりは微塵もないのに。


「か、梶田さん」


 つい、話を逸らせてしまう。


「あ、そう、観光船! 楽しみだなって、思って」

 ちょうど白い姿を見せた船を指差して、梨花は言う。


 海の方に顔を向けていたかった。

 鏡を見なくてもわかる。いま、梨花の顔はとても赤い。


(おばあちゃんの思い出と一緒に、ゆっくりと巡りたいのに。私ったら)


 ──大丈夫よ。死んだ人間のことばかり考えるよりも、今を夢中に生きてほしいと思うでしょうよ、シホなら。


 今度は、さくらの声で聞こえた。


(……うん)


 そうだろうと、梨花も思う。

 梨花の知る祖母は、そういう人だ。


 だからこそ、梨花は見せたかったのかもしれない。


 私は元気だよって。一緒にご飯を食べてくれる人たちもいるよって。


 安心してねって。


 だからこそ、おばあちゃん──シホを知る人(人ではないけど)と、こうして、ひとときでもつながれたことが、とても嬉しかった。



 ……………………

 ………………



 観光船から見る海と松の姿は、また違った美しさがあった。

 つぼみだった山の桜も、なんだかきらきらと輝いていて、梨花たちを見守ってくれているように感じる。


(また来るね)


 心の中でつぶやいて、梨花はそっと手を振った。



          ◇



 海沿いの道を車でしばらく走ると、広い駐車場の中にぽつんと建つ平屋の店が見えた。


「あ、あそこです」

「え、すごい。看板も何もないのに並んでるね」

 駐車場も半分以上埋まっている。


 車を止め、入り口へと歩く。

 フードコートのような簡素な机と椅子が並ぶ店内は、片付け待ちの空きテーブルがいくつか見えた。

 待ちは6組だけれど、そんなには待たなそうだ。

 ウェイティングシートに名前を書いて、列の最後に並んだ。


「ここも、おばあちゃんと来た?」

「はい。おばあちゃんは、ネギトロ丼が好きで。と言っても、他のお刺身もたくさん乗ってて。ご飯、ネギトロ、その上に中トロやサーモンやかんぱちやイカがもりもりって感じの」

「うわー、絶対うまいやつ」

「ですです」


 梨花は、じいっと店を見つめた。

 昔と同じ店構えのはずなのに、古ぼけたガラス戸がずいぶんと小さく見えた。

 より変わったのは自分のほうか。


「私はまだ大人の一人前は多すぎて食べられなかったから、細巻きと茶碗蒸しを頼んで、おばあちゃんのお刺身を分けてもらって」

 忘れていた光景が、昨日のことのような鮮明さをもって、記憶の底から浮かびあがる。


 ちょうど窓際に座っている、3世代の家族連れ。


 その中の祖母らしき女性と幼い女の子の笑い合う姿に、梨花は記憶を重ねて目を細めた。


 たしかにここで、おばあちゃんと笑い合った。


 おばあちゃんがいなくなっても、幼かった梨花が大人になっても、その記憶はちゃんと、梨花の一部として残っている。


「今日はどうする?」

 そう言う梶田の記憶にも、今日の梨花が残っていくのだろうか。

 梨花がそんな事を考えているなんて、彼は思ってもいないだろう。


 にやりと笑って、梨花は言う。

「ネギトロ丼、行っちゃいます」

「おっ、行っちゃいますか」

 にやりと笑い返してくれる梶田。


 きっと、梨花の中には残り続ける。

 たとえ彼が、いつかこの日を忘れてしまったとしても。



          ◇



「お待たせしました。こちらのお席にどうぞ──」

 白髪まじりの女性に案内され、席につく。


 ラミネートされたメニューにサッと目を通すけれど、やはりここは初志貫徹で行こうではないか。


「ご注文はお決まりですか?」

 お盆を持って戻ってきた女性から、おしぼりを受け取りながら、梨花が注文する。

「ネギトロ丼、お願いします」


「ふたつで」

 と、梶田。


「かしこまりました──。こちら熱いので、お気をつけくださいね」

 そう言って、女性は白磁の急須を置いて去っていった。


 梨花はテーブルの端に積まれた湯呑みを手に取って、お茶を淹れる。

「ありがとうございます」

 湯呑みを受け取って、梶田はお茶をひとくちすすり、ほうっと息をついた。


「思い出」


 と、梶田が言う。

「満喫、できました?」


「はい! ありがとうございます」

「こちらこそ。連れに選んでくれて、ありがとう」

 にっこりと笑う梶田。


 そういうことをサラッと言っちゃうあたり、天然の人たらしだよなぁと梨花は思う。


「出張のオマケにこんな楽しいイベントがあったら、毎月行きたいです」

 それもまた真面目な顔で言うのだから、始末が悪い。

 

(本気にしちゃだめ、社交辞令)


 気持ちを自覚したからといって、舞い上がらないように。

 呪文のように心の中でつぶやきながら、世間話に花を咲かせていたら、さっそく梨花たちのもとにやってきた。

 お待ちかねの、輝くあの子。


「お待たせしました──!」


 と、やってきた店員さんは、肉付きの良い、ポニーテールの女性だった。

 どん、と、重量感のある丼が目の前に置かれる。


「ネギトロ丼です。よかったら、取り皿お使いくださいね。お米を掘ろうとすると、刺身が雪崩れを起こしちゃうので!」

 そう言って、桜模様の取り皿をよこしてくれる。


「汁物もすぐにお持ちしますね」

 言葉通り、すぐに赤だしと、山盛りのガリを持ってきてくれた。

「ごゆっくりどぉぞー!」


「おおー! すごいな」

 言いながら、スマホをネギトロ丼に向けた梶田。

「普段、あんまり食べ物の写真って撮らないんだけど。これは残しておきたい」

 と、照れたように笑う。


「梨花さん、せっかくだから入ってくださいよ」

「えっ」

 急に言われて、スマホを向けられて、梨花は慌てて笑顔をつくる。


 しまった、普通のピースをしてしまった。

 もうちょっと何かあったのではと思うけど、自分の引き出しには気の利いたポーズなどもともと入ってはいないなと、梨花はすぐに諦めた。


 梶田はにこにことスマホを置いて言った。

「よし、待ち受けにします」

「やめてください」

 そんなボケとツッコミも経て、いよいよ実食の時。


「なるほど、これはたしかにお刺身がこぼれちゃうな」

「取り皿必須ですね」

 まずは、刺身を半分ほど皿に避ける。

 刺身の隙間からネギトロが姿を現したら、サッと醤油を回しかける。

 

 添えられたワサビを少し箸でとって、ネギトロにちょんと付ける。

 サクッと深めに箸を入れ、ご飯とネギトロを一緒にお口へ。


「ん〜〜!」


 美味しい。


 酢がたちすぎていない、さっぱりとした酢飯に、口の中でとろけるネギトロ。そして香りの良いワサビ。

 醤油に隠れた出汁の風味が、後味に華を添える。


「やばっ」

 美味しさのあまり、梶田の語彙が衰退している。

 まぁ、梨花も一緒だけれど。

「美味しいしか出てこないです」


 よし、二口目は、刺身だ。

 まずは、イカ。


「うん、美味しい」

 パキッとした歯応えと、ほのかな甘み。

 添えられた大葉の風味がまた爽やかで。


「うわ、カンパチうまっ」

 梶田はカンパチにいったようだ。

 鮮やかな血合の色で、新鮮さがよくわかる。

「ほんと、新鮮さが凄いですよね」


「や〜。幸せ〜。だめだこれ、月曜から仕事戻れるかな〜」

 梶田が幸福に溶けそうな顔をしている。


 梨花はふふっと笑って、激励の言葉を。

「お弁当はりきるんで、頑張りましょう」


「わ〜。頑張れる〜」

 言葉とは裏腹に、梶田の表情は溶けたままだった。


「しっかりしてくださいよー!」

 言いながら、思わず笑ってしまう。


(もー、梶田さん、仕事中の顔と、全然違うじゃないですか)


 まったく楽しすぎて、口角が上がりっぱなしの口元から、思考がそのままこぼれてしまった。


「好きだなぁ」


「えっ?」


 問い返す梶田の顔を見て、梨花が己の失態を悟るまで、0.2秒。


「あ、この中トロ! いままで食べた中でいちばん好きだな〜!」


 間髪入れずに捻り出した、苦し紛れのセリフ。

 ああ、顔が熱い。


 梶田はおかしく思っていないだろうか。

 確認したいけれど、とてもじゃないけど彼の顔など、いまは見れない。



          ◇



「梨花さん梨花さん、見て見て」


 ささやくような梶田の声に、ちらっと顔を上げる。

 彼は梨花ではなく、窓の方を向いていた。


 視線の先を追って見る。

 窓際に座っていた女の子が、小さなスプーンで茶碗蒸しを美味しそうに食べていた。


「茶碗蒸しもいっちゃう?」

 いたずらっぽく笑う梶田。


 さっきの事は気にもしていなさそうで、梨花はほっと胸を撫で下ろした。


「いっちゃいましょうか──!」


 そんなわけでいそいそと茶碗蒸しを追加注文して、ゆっくりお茶を飲む。


 梨花は店の中を見渡すそぶりをしながら、刺身を頬張る梶田の顔を盗み見た。


 梨花の気持ちを、迷惑がるような人ではないと思う。


 でもだからこそ、気持ちを伝えてしまったら、彼は梨花の気持ちに真剣に向き合ってくれるのだろう。


 そしてその結果、いまの関係が続けられなくなることだって──。


 きゅっと、胸の下が少し痛んだ。


(やめよう、考えても答えなんて想像でしかない。今この瞬間が、勿体ない)


 とりあえず今は、目の前の海鮮丼に集中せねば。


 美味しいものを美味しく食べてこそ、人生は輝くのだ。


 と、おばあちゃんも言っていたし。


(あ、そうだ)


 おばあちゃんのオーダーを思い出して、梨花は店員を呼んで、こそっと聞いてみた。


「…………って、ありますか?」


 ポニーテールの女性はにっこり笑って頷いた。

「おっ、通ですねぇ、お客さん! ラッキーですよ、今日はちょうど仕込んであります!」


「え、何なに?」

 興味津々の梶田。

「届いてからのお楽しみです」

 そう言って、少しじらす梨花。


「えー、気になるなぁ」


 そうこうしているうちに、秘密のオーダー品がやってきた。


「はぁい、裏メニューの卵黄のにんにく醤油漬けです!」


 小皿に乗った、オレンジ色の、まるで宝石のような美味しい子。

 梶田の目が輝くのを、梨花は満足した気分で見やる。


「おばあちゃんおすすめの味変アイテムです!」

「神だね、おばあちゃん」

 と、梶田は手を合わせ拝んでいる。


「茶碗蒸しも。お待たせしました! 器熱くなっておりますので、お気をつけて召し上がりくださいね」




「んまー! にんにく醤油漬けってすごいね、何にでも合いそう」

「トロとの組み合わせがまた最強でしょ?」

「うん。おばあちゃんさまさま」

「ふふ。きっと喜んでます」


「海老もぷりっぷり! いや〜やばいな」

 茶碗蒸しを冷まし冷まし食べながら、梶田が唸った。


「海老、好きですか?」

「大好き!!」

「本当に好きなんですね」

 梶田の勢いに笑ってしまう。


 よし、覚えておこうと、梨花は頭の中のメモに刻む。

 美味しいものを食べる、梶田の嬉しそうな顔を見るのが好きだ。

 目を逸らそうが、どうやらそれが真実らしい。




「美味しかったー! お腹パンパン」

「おやつは無理ですね」

「とか言って、別腹でしょ?」

「ばれましたか」

 そんな事を話しながら店を出て、車に戻る。


「もう、回りたいところは大丈夫?」

 カーナビを触りながら、梶田が聞く。

「はいっ」

「新幹線の時間もあるしね。強行軍だったけど、時間に余裕もって戻ろうか」


「運転、お疲れじゃないですか?」

 梨花の問いに、きょとんとした顔をしたあと、にっこりと笑う梶田。

「大丈夫だよー! ここだけの話、自分の運転じゃないと酔いやすいタイプだから、むしろ運転したい」

 そう言ってから、慌てて言い足す。

「あっ、ドライブは大好きだからね、心配しないでね。自分で運転してれば酔わないわけだし。あれ、俺、同じこと言ってるな」


「珍しいですよね」

「ん?」

「梶田さんが、俺って言うの」

「あっ。言ってた?」

「はい。いつも会社では僕だから、俺って言うのはプライベートっぽい感じがしますね」

「あ、いや、会社っていうか、うん」

「?」

 なんだか歯切れが悪い。聞かない方が良い話題だったろうか。


「なんかちょっと、いい人ぶりたかったって言うか。うわ、口に出すとキモいな俺」

 と、ハンドルにつっぷして、頭を抱えてしまった。

 思った事を言っただけで、そんなふうに悩ませるつもりじゃなかったのに。


「私はいいと思いますよ? 何だか、仕事の同僚からプライベートの友達になれた感じがして、嬉しいです」

 フォローっぽくなってしまったけれど、まごうことなき梨花の本音である。


「そう? そっか……。友達か……。いや、嬉しいよ! じゃあ、『俺』、解禁しようかな」

「ですです」




 高速に乗って、思い出の場所に別れを告げる。

 もう姿は見えないけれど、縁のつながったのことを思いながら、流れる景色を見送った。



 ……………………

 ………………

 …………



 京都市内に戻り、レンタカーを返却した。

 あとは帰るだけ……なのだけれど。


(あ──)


 朝、目をつけていたお店が開いているのを発見して、梨花は梶田に声をかけた。


「梶田さん、ちょっと寄りたいところが」

「ん? いいよー。順調に戻ってこれたしね、時間なら余ってる」



          ◇



 夕暮れが近づいたせいか、厚くなった雲のせいか、少しだけ薄暗くなった街並みの中。


 小さな川をまたぐ、石造りの小さな橋を渡る。


 昼と夜の間。中途半端な時間だから、閉まっている店もたくさんある。

 その中で、営業中の看板の出た喫茶店は目を引いた。


 のれんの奥から、ぼんやりと蛍光灯の光が漏れている。


 煉瓦造りの壁、レトロな二階建ての建物の、一階。


 ガラスの扉のとなりには、昔懐かしい食品サンプルの並ぶショーケース。

 その下に並んだ鉢植えの花や、店前に止められた自転車。


 どれひとつとっても、ノスタルジーを感じる風景だった。


「お土産に、買いたいものがあって」

 そう梶田にことわって、梨花は店の扉を開けた。


 奥に長い店内には、先客がひとり。

 食後だろうか。中年の男性が新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいる。


 正面奥の天井近くに備え付けられたテレビ画面からは、関西弁のタレントの出ているバラエティが流れる。

 カウンターの奥に座ってそれを見ていたエプロン姿の女将が、梨花たちに気づいて腰を上げた。


「いらっしゃい」


「お持ち帰り、お願いできますか?」

「はいはい、こちらのメニューになります」

 と、テイクアウト用のメニューを見せてくれた。


「海老カツサンドを2人前と、カツサンド2人前……あとこっちのハーフの……」


 梨花が注文している間、梶田は入り口の近くの席に腰掛けて、店内を見回していた。

 このあたりは花街も近い。壁には、白地に赤字で舞妓さんや芸妓さんの名前が書いたうちわが、所狭しと飾ってあった。


「あ、こっちは別の袋でお願いします」

「はぁい。お座りになって、少々お待ちくださいね──」


 女将がカウンターの中に戻っていく。

 梨花は梶田のもとに戻った。

「ありがとうございます。実家に……お土産にしようと思って」

「うんうん。こういうお店、俺も好き。お腹すいてたら、ゆっくり食べたかったね」


 本当は、シェアハウスのメンバーへのお土産を兼ねた、晩ごはんの足しなのだけれど。


(いつか、嘘のない関係になれたら良いなぁ……)


 シェアハウスの話は、梨花だけの問題ではない。

 そこまでさらけ出すには、梨花たちの関係は深くない。


 それが、現実。




「俺も何か買って行こうかなー……」


「あ、よかったら」

 と、梨花は言う。

「カツサンドと海老カツサンドのハーフ&ハーフ、梶田さん用にも頼んだので。晩ごはんにどうぞ」

「え、まじ? ありがとう!」

「軽くトースターで温め直してくださいね」

「了解! 楽しみだな〜」



 ……………………

 ………………

 …………



 旅は、帰りのほうが早く感じる。


 いつもそうだ。


 でも今日は、とくに早く感じた。


 とりとめのない会話も、おすすめの本の話も、何時間だってしていられそうだったのに。


 新幹線を降りて、在来線に乗り換える。


 窓の外は、とっぷりと暮れた景色。


 人工的な光ばかりが、つみかさなるように混じり合う。


 窓に映る自分の顔に、別れが惜しいと、思う気持ちが浮かんでいた。


「じゃ、また」

 お互いの乗り換えの駅で、互いに手を振る。

「はい。月曜日に」


 しごく健全なやりとり。

 なんだか、門限のある学生みたいだ。


 いや、むしろ学生の時のほうが、ためらわずに飛び込めた。


 大人になるにつれ、受け入れてもらえなかったらという恐怖を、覚えてしまっているのだろうか。


 あるいは梶田の存在が、梨花にとって、いままでになく大切なものになっているのかもしれなかった。



          ◇



「ふぅ〜……」


 いつものように、百階段の上で深呼吸する。

 

 荷物を落とさぬようしっかりと持って、あたりを見回す。


(よし、今なら誰も見ていない──)


 目をつぶって両足に力を入れて、百階段のてっぺんから、思いきりジャンプする。


 すぐに体を包む浮遊感に、ふっと身をゆだねる。


 異世界に飛び込むことには、少しずつ慣れてきたのに。


 


「ただいま」


 玄関に入ると、キョーコの明るい声が飛んできた。

「あー! おかえりぃ!」


 パタパタと近づくスリッパの音。

「ちょうどいまスープが出来たよー! 作ったの私じゃなくて、五味ちゃんだけど」


「おかえりなさい」

 キョーコの後ろから、五味の声と美味しそうな匂いが追いかけてくる。


「ありがとうございます! あ、これ、言ってたお土産です。サンドイッチ」

 手に下げた紙袋をキョーコに渡す。

「わーい♡」

「荷物置いたら、サラダだけちゃちゃっと作っちゃいますね──」


 ピィ!


「あ、大家さん! ただいま戻りました」


 ちょこちょこと愛らしい姿を現した大家さんに、梨花はしゃがんで帰宅の挨拶をする。


 ピィ。


 どこからともなく、うっすらと光るさくらの花びらが、大家さんの頭の上にひらひらと落ちて──すうっと消えた。


「あっ」


 にっこりと、大家さんが笑ったように見えた。

 笑って、梨花に手を──小さな翼を、あげてみせた。


 わかっているよ、というふうに。


 さくらからの、何かの便りなのだろうか。




(あ、そうだ──)


 荷物を置きに部屋に戻り、ふと思い出す。


 あの、さくらの絵だ。

 鞄から取り出した手が、止まる。

 梨花は懐かしさに、ふふっと笑った。


 そういえば、と、最後に聞こえた声を思い出す。


 ──私の代わりに、あの子をかいておいたわ──


(さくら、さん。そういうことかぁ──)


 小さなキャンバスの中には幼い少女の姿はどこにもなく、懐かしさを感じる年配の女性の後ろ姿があった。


 満開の桜と、それを見上げる──


(おばあちゃん)


 梨花は絵をそっと胸に抱いた。


(ありがとう、さくら、さん)


 おばあちゃんの思い出を、またひとつ集められたよ。


 小さな宝物を机の上にそっと置いて、梨花はエプロンをつけながら自室を後にした。



          ◇



「で、どうだったの。多少は進展なかったの」


 煙草を片手にそう聞くのは、沙月だ。

 

 社内の喫煙室。

 人影はふたつだけ。


 梶田は煙草も吸わずにしゃがみ込んで、手で頬を覆った。


「ぶっちゃけ、相手に甘い空気を出されたら、あとは阿吽の呼吸みたいな感じで、とんとん拍子に付き合ってきたんですよ。今までは」


「あ〜、ぽいね。腹立つわ〜」


「すいませんて。いや、俺なりに誠実には交際してましたよ?! 付き合いはじめがそうってだけで」


「うん」


「……梨花さんは、過去の誰とも違くて。こんな言い方したらあれですけど、あの手この手で水を向けても、ぜんっぜん響いてないどころか、友達としての信頼をむけてくれて、そんなやり方で近づこうとした自分が浅はかに思えて。いや気持ちは100%真剣真面目なんですよ?! ただ、俺は他にやり方を知らないし、難しくて」


 たたみかけるように吐き出して、突然黙る梶田。

 頭を抱えて、はぁ〜〜、と、長いため息をついた。


「要するに、高校生みたいにジタバタしてます」


 ぶふっ、と、沙月が煙を吹き出す。

「あっはっは。いや〜ごめん、馬鹿にしてるわけじゃないよ。青春ね。楽しいね」


「青春って年じゃないですよ、もう」


「まだまだね、梶田くん。青春なんて、何歳とか関係ないのよ。うまくいかないことを、努力することを、存分に楽しみなさい。もがけるうちが花よ。もがいても繋がっていたいって熱量を持てる相手に出会えたことが、まず奇跡よ。その先にある喜びは、計り知れないわよ」


「姐御……!」

「誰がアネゴだ」


 梶田は立ち上がり、すっと、ビニール袋を差し出した。

「道の駅で買った、この昆布ふりかけ、海藻のほかにエビとかホタテとか、海の幸がめっちゃ入ってて、めちゃくちゃ美味かったです……! 炊き立てご飯のお供に最高でございます……! お納めください。そんでまたアドバイスください」


 沙月は笑って、それを受け取った。

「くるしゅうない」





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