神さまだらけのアパート
片隅シズカ
第1話 タカ兄との再会
まだ風が冷たい三月中旬。梅の木が花を咲かせようと蕾を膨らます時期だ。
だけど悲しいかな。
今のわたしには、しみじみと春の訪れを楽しむ余裕などなかった。
「……ぬ……う」
わたしは現在、電車の窓ガラスに頬をぎゅうぎゅう押し付けている。アヒルみたいな口になってしまうほどにだ。
アホみたいな顔になっているが、断じて変態などではない。
(マジで…………死ぬ)
どこを見ても人しか見えない。至るところに他人の体が密着していて、はっきり言って気持ち悪い。しかも空気が異常なまでに薄く、立っているのもままならない状態だ。あと、左右のおっさんたちの加齢臭で泣けてくる。
(噂には聞いてたけど、東京の満員電車……マジでカオスだ)
乗る時は『入って入って!』とぐいぐい押し込められて、無理やり
こんなのに毎日乗っている東京人の気が知れない。わたしは徒歩で良かった。そう考えて無理やり気を紛らわし、泣ける加齢臭を死に物狂いでやり過ごした。
目的の駅に着き、ホッと一息つく。
地獄のような時間だった。たかだか数分が永遠に感じてしまうほどに。
(――――あ!)
雪崩るように電車を降りると、ホームに従兄のタカ兄の姿があった。
わたしはすぐに、「タカ兄!」と涙目で飛びついた。電車に揺られ、四方八方を取り囲む人の大群に戸惑い、加齢臭に悶え苦しみ、別の電車に乗り換えるを繰り返してきたからか、東京に来て初めて生きた心地がした。
「タカ兄、久しぶりだね! 元気?」
「うん。ユキも元気そうだな。あ、髪切ったんだ。似合うじゃん」
「本当?」
「うん。前よりずっと良いよ」
へへっと笑って三日前に切ったばかりの髪に手を添える。首にスースー当たる冷たい風すら、愛おしく思えてしまう。
「でも、驚いたな。『男みたいだ』って言われるのが嫌だからって、昔から切りたがらなかったのに」
「まぁ、せっかく上京するわけだから、気分変えてみようと思って」
(本当は、タカ兄が可愛いっていう子が、みんなショートだから……)
「じゃあ、行こうか」
「うん」
わたしは頷いて、差し出された手を握った。
(タカ兄の手……あったかい)
高校を卒業したとはいえ、やっぱりわたしはまだ子供だ。タカ兄が側にいてくれて、今、凄くほっとしてる。
(まぁ、上京したからって、いきなり大人になれるわけじゃないしね)
「ねぇ、今から行くアパートってどんな所? 幽霊アパートとか?」
これから一人暮らしをする場所なのだ。わたしは気になって、道中にそんな風に尋ねた。もちろん、幽霊アパートなんて言葉に深い意味はない。
だけどタカ兄は、一瞬だけど表情を硬くした。
「タカ兄?」
些細な変化を、わたしは見逃さなかった。すかさず「まさか、マジで出るとか?」と更につついてやる。
「いや、幽霊は出ないと思うけど……」
(なんだなんだ、本当にどうしたタカ兄っ?)
普段から穏やかで落ち着きのあるタカ兄が、珍しく冷静さを失っている。
たちまち、わたしの中の好奇心が踊り出した。
「何それ、気になる!」
「…………」
身を乗り出す勢いで、更なる表情を引き出そうと声を上げる。次の反応が楽しみで楽しみで仕方なかった。
タカ兄が、わたしに顔を向ける。特別イケメンなわけではないけど、均等に整っていて、見ている者に安心感を与える顔立ちだ。
「普通のアパートだよ」
タカ兄が見せたのは、わたしにとっても馴染み深い柔らかな笑顔だった。
拍子抜けな展開のはずなのに、わたしの胸は面白いくらいに音を立てた。瞬く間に全身が熱くなり、内心で密やかに慌てふためく。
(その爽やかな笑顔、反則すぎる!!)
「駅とスーパーに近いから便利だし、家賃はかなり安い。シャワールームはないけど、歩いてすぐの所に格安の銭湯があるから生活に困ることはないよ。四畳半だから窮屈に感じるかもしれないし、あんま贅沢はできないけど」
「いいよ。そもそもわたしがその条件で出したんだし」
「そっか。それならよかった」
(上手くはぐらかされた感……)
タカ兄は基本的に、人が不快になるような事態は避ける性分だ。だから質の悪い冗談も言わないし、年下の従妹であるわたしに対しては、なおさら気を遣う。
だから、タカ兄が幽霊アパートから話を逸らしたのは、純粋な善意だろう。
分かっているけど、わたしとしては子ども扱いされたみたいで腑に落ちない。タカ兄からしたら子どもなのは間違いないけどさ。
(……ま、いっか)
これから住む場所なのだ。仮にアパートに何かあるのだとしたら、嫌でも知ることになる。
今日のところは、春休み中に東京食べ歩きに連れて行ってもらう代わりに我慢してやることにした。わたしは心が広いのだ。
そうして十分ほど歩いた所で、タカ兄が立ち止まった。
「ここだよ」
「…………」
アパートを見た瞬間、わたしは石のごとく固まった。
一言で表すならば、薄汚れた廃墟だ。とても人が住んでいるとは思えない。
だけど、それだけじゃなかった。
(この不気味さは、一体……)
悪霊にでも呪われているのだろうか。凡人のわたしでも思わず引いてしまうほど、嫌な空気が全体に滞っている。
「驚いたろ?」
わたしはアパートに目を釘付けにされつつ、首を縦に振った。
「……大家さん、よくこんな不気味なアパート買ったね」
「変わった人でさ、子供の頃からお化け屋敷に住むのが夢だったらしい」
「と〇りの〇トロのお父さんかよ」
大家さんの妙な趣向にツッコミを入れつつ、タカ兄に導かれるがままアパートの中へと招かれた。
薄気味悪い幽霊屋敷だった。冗談ではない。文字通りの意味だ。
(これ、アパートだよね?)
この先には古びた階段があって、そこをアアアアと不気味な声で這いずりながら下りてくる某怨霊がいる……なんて展開があっても違和感がない。
そんな馬鹿なことを考えてしまうほど、日本のアパートとは思えないほど、陰気な空気が充満していた。
(幽霊、ねぇ……)
板張りの廊下を踏む度に、ミシリと嫌な音を立てた。
何とも言えない緊張感と寒気が、わたしの背筋をぞわりと撫でる。ほんの少しの恐怖心と好奇心がぐるぐると頭の中で混ざり合っている。
タカ兄が話すのを渋ったのも無理はない。いくら身内とはいえ、年頃の女の子に紹介する物件ではない。
それでも、わたしが提示した条件と一致する物件がここしかなかったのでやむを得なかったのだろう。
文句を言うつもりは欠片もない。ていうか、あるはずがない。
タカ兄と同じアパートに住みたいばかりに、わざわざ不動産サイトでタカ兄の住んでいるアパートの値段や間取り、周辺の店などを念入りに調べて、ここを紹介してもらえるように仕組んだのは他でもないわたし自身なのだ。
(まぁ、タカ兄のすぐ近くに住めるんだから、むしろ御の字だ)
「あらあらまぁ、こんにちは」
その能天気な声に思わずギョッとする。
奥から出てきたのは、幽霊屋敷とは無縁そうな、ごく普通のおばあさんだった。
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