第4話 まずいです
もちろん主役に選ばれたのは土田先輩だった。
「うわあ、だめですね。社長さん。これはメイクではどうにもなりません」
スタイリストの佐藤さんが、私の泣き腫らした顔を見て匙を投げた。
「うう、すみません、社長」
「せっかくきれいにしてもらったのになあ。最初、うちの研究員とは思わなかったよ。彼の変貌ぶりも見事だったし、演技も凄かったし、君の努力が形になったことが余程うれしかったと見える」
それは違う。違うけど、どう違うかは説明できない。
そこへ、部屋の反対側でスタッフに囲まれていた土田先輩が、マネージャーと共に近づいてきた。私はすーっと後ろに下がり、察した佐藤さんが、涙でドロドロになったメイクをメイク落としで拭きとり始めてくれた。
「皆川社長、わたくし、土田皓紀のマネージャー、柏原と申します。今回は急で無理なお願いに迅速なご手配、誠にありがとうございました」
そこでお決まりの名刺交換。
「いやいや、たまたまね。土田君がうちの研究員をご存じだったということで、これもご縁ですから。ぜひいい実を結ぶよう、いろいろな角度から手を伸ばさせていただければと」
「それにしても素晴らしい才能をお持ちの社員を抱えておいでですね。わたしは今日、土田を見て、お前大丈夫かっと叫んだほどですが、なんと、こんな外見なのにすこぶる元気。非常に戦略的に健康を保ちながら外見を変える食事を作っていただいたと聞き、驚きました!」
柏原氏は実感のこもった声で言い、私は自分の機能性食品が社会の日の目を見た嬉しさにアイメイクが落ちて軽くなった目をしばたいた。
「とんでもなく、まずいですけどね」
その時、土田先輩が役者らしい、よく通る声で言った。社長と柏原マネージャーがぎょっとしたのはもちろん、部屋全体に響き渡った声に、人々が会話をやめてこちらに注目するのがわかった。メイクを拭かれている私と、拭いている佐藤さんも、彼に顔を向けてしまった。
「秋葉さんの調整する食品は、目的に特化されてますから、味は吐くほどまずいです。僕が一週間、それに耐えられたのは、この役が欲しいという執念があったからであって、普通の人間に食べられるものではありませんでした」
皆川社長から笑みが消えた。
本当のことだけど、今、ここで言う?私は彼を睨むしかなかった。その時、横から佐藤さんが口を開いた。
「あらっ、執念で体形を変えたいというニーズは俳優さんだけではありませんわ。先ほどお聞きしたのですが、今、秋葉様は胸が大きくなる食品の実験中で、バストが何センチも大きくなったとか。それを聞いたら、写真集の撮影を前にした女性アイドルが、ぜひ食べたいと言うでしょう。日本だけでなく、世界に有望顧客がおりますわよ」
彼女が場を和ませようとしたのかは定かではないが、そこにいた人々の視線が、一斉に私の胸に集まってきた。ここで情報をごまかしては科学者がすたる。私は泣きはらした顔をものともせず、こちらを見ている人々に顔つまり胸を向けた。
「いえ。胸を大きくするのではなく、一週間でバストアップ、つまりトップバストを持ち上げる食品です。副次効果として外周も増えるというだけ。それも何センチもではなく、今回の実験では19mmでした」
集まってきた視線はさらに私の胸に固定された。幸か不幸か佐藤さんが着せてくれたモスグリーンのワンピースは胸の谷間が見えるほど襟ぐりが深い。羽織った白衣は前をはだけている。知るものか。土田先輩に言われっぱなしでは私のプライドが許さない。
「それに味は、土田さんが言うとおり吐くほどまずいです。まだ改良が必要です」
断言した。すると、だれかが、ふふっと噴き出して、つられたように、大きな笑いが巻き起こった。皆川社長も苦笑いしている。そこに土田先輩が小さく歩み寄った。
「皆川社長、秋葉研究員を交えて写真を撮るというお話でしたが、この方はなにやらメイクが半端だし、今のように前面に出すとどういう発言をするかわらからない浮世離れした科学者です。僕と社長のツーショットでは、まずいでしょうか」
「ああ、それは、こちらからもお願いしようとしていたところなんだ。土田君の演技に彼女がいたく感動して、あのとおり泣き腫らしてしまったもので」
「では…」
土田先輩は後ろに控えていたカメラマンに合図し、映画タイトルが印刷された横断幕のある壁際に移動すると、社長とありがたそうに握手して、写真に収まった。
守られてしまった…?
そんな言葉が浮かんだ。
オーディション会場の撤収は嵐のようで、佐藤さんは「着替え場所が撤去されてしまったのでそのワンピース差し上げます」と言う。しょうがなく私は白衣と私服を抱え、すっぴんに似合わないワンピースで研究所に帰った。土田先輩はあのあと人の輪に囲まれ、遠い存在になっていた。
更衣室で元の服に着替え、髪を結び、白衣を身に着けると、本当にほっとした。
「後藤さん、ただいま帰りました」
夕方の研究室は実験を終えて機材の片付けをしている部員が多い。金属やガラスの触れ合うカチャカチャする音が、静かな研究室のあちこちから響いてくる。後藤氏は机に向かってパソコンを打っていた。
「おおっと。秋葉さん。お帰り。どうだった?」
「は。無事。終了です」
「で、ツッチーは食べたの?秋葉さんの食品?」
「はい。一週間。三食」
答えたとたん、この一週間の記憶が巻き戻され、再生され、今日の彼の演技と結びついた。
「凄い!本当に凄い役者魂!…えっ、どうした!?」
後藤氏が私を見て勢いよく立ち上がった。私は涙をぼろぼろこぼしていた。
「もっと、おいしいもの、食べさせてあげたかった。普通のご飯、ちゃんと作ってあげたかった」
近くにあるキムワイプを何枚もむしりとって、ごわごわするその実験用ティッシュで顔を覆う。
「ああ、そうか。だよなあ、あんないい男にまずいもん食わせ続けたら、後悔するわ。うん、可哀そうな仕事だった。ご苦労ご苦労」
私はそのまま机に座って、涙が止まるのを待った。心が”すっぽんの煮凝り”なのは、本当は自分だったのだろうか、と考えながら。彼は大人だった。強かった。同時に、繊細だった。
「ん?つまり俺に食わせても、いつも平気な顔してたのは…まあ、言うまい」
後藤氏はぶつくさ言って、パソコン仕事に戻った。
いつもの仕事に戻り数日が過ぎたとき、突然、騒動がやってきた。
土田皓紀主演が決まった新しい映画の報道発表が行われ、関係者の
エブリーフーズが開発中の整形にたよらず巨乳になれる食品。吐くほどまずいが、あなたは挑戦したいか?
という、愉快にリツイートできる一文に集約され拡散した。さらなる問題は
”エブリーフーズ” ”吐くほどまずい”
という検索語の組み合わせが上位にランクインしてしまったこと。検索窓に”エブリーフーズ”と入れれば、”吐くほどまずい”と出るわけだから、食品会社として許すまじき事態だ。
その結果、私には、「勝手に開発していた胸を大きくする機能性食品」についての報告書が求められ、勝手な開発は今後厳禁となり、激マズ食品の開発を一年間も放置していた後藤氏は移動になり(彼は嬉しそうだった)、娘がファンだからといって独断で土田皓紀に協力させた責任を取って社長は自主的に減給、そしてエブリーフーズから映画への出資と協力は見送られることとなった。
「実験ノート。実験ノート取りに行く。それだけだから」
私は口の中でつぶやきながら、都内の地下鉄駅から、土田先輩のマンションに向かって歩いていた。彼の運転する車で出入りしたから場所はわからないと諦めていたのに、持っていたスマホの位置情報の履歴に、ばっちり位置が残っているではないか。
それで諦められなくて土曜日の今日、こうしてやってきたのである。オーディションから約3週間。彼とは連絡が途絶えている。その間に桜が咲いて、咲き終わって、いま
だいたい、キッチンのカウンターに実験ノートを置きっぱなしにするなんて、2度目の大失態だ。科学者としての自信がゆらいでしまう。新しい上司には効果より味重視の美肌グミの開発を命じられているし。
マンションのエントランスにあるインターホンで、彼の部屋の番号を押すと、無言だけれど、低い雑音で応答したのがわかった。彼の部屋からはカメラで私の姿が見えているはず。
「先輩、入れてください」
『殴りこみか?』
「ばか!」
叫んだとたん、入り口のロックが外れる音がした。
エレベーターで昇ると、彼が小さくドアを開けて待ちかまえていて、あっという間に引き入れられた。
「ねえ、なんで?」
彼の顔を見て、その頬を両手ではさんで顔をつきつけてしまった。手の下の頬が骨ばっている。あれから3週間。普通の食生活をしていれば、完全に元にもどっていていいはずなのに、むしろ3週間前よりこけている。
「陽奈ちゃんを頼れなくなったから、撮影に備えてノートを解読して自分で試してる。この1週間」
「違う。私のノートの通りになってない」
「自分で作ると、吐くほどまずいんじゃなくて、まじで、吐くな」
だぼだぼのトレーナーに隠された脇腹につかみかかった。危ないくらい肉が無いのを指先に感じ、血の気が引くような恐怖に襲われた。
「だめだよ、それじゃ本当に栄養失調になっちゃう。だいたい始めた時点の体重は何キロだったの?体脂肪は測った?開始時点が同じじゃないとだめなんだよ?あのレシピはぎりぎりなの。太らないし、痩せないし、健康でいられる、ぎりぎりなの。倒れちゃうよ。お風呂で気を失ったらどうするの?ここで一人で倒れたら、誰が助けてくれるの?」
最後は声が震えた。
「俺がどうなっても、いや、むしろどうにかなったら、陽奈ちゃんとしては、ざまあみろってところだろ?」
「は?」
「俺があの時、陽奈ちゃんの食品は吐くほどまずいって言わなければ、すべてうまくいっていた。恨み言を言いに来たんだろ。どうぞ。思い切り言って帰ってくれ。殴ってくれてもいい」
先輩はまるでこのまま餓死してもいいんだというくらいの絶望を顔に浮かべていた。
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