Ⅴ 白い悪魔

 おれは一度死んでいるのかもしれないな。

 ノールデンから聖地モッゼまで汽車と蒸気車に揺られている間、にわかにそんな気になった。


「死ぬのが怖くないのは、もう死んでるからだ」

 休日だろうが、女性と眠ろうが、どんなに疲れていようが、毎朝必ず三時に目覚めるのも。

 寒さに鈍く、冬の早朝の水行すら平気なのも。

 風邪をひいたことがないのも。

 昂揚すると人を噛みたくなるのも。


 これらの行動は己の意思とはかけ離れているが、死後に再構築されたがゆえに備わったと思えば納得できる。


 審判という名の裁判が行われるのは、モッゼの中心にある墳墓大聖堂だ。色鮮やかで壮麗な天井画を内包したとてつもなく巨大なドームは、かつてはラグナ教会の権威そのものだった。

 審議は初日から荒れた。まずもって、デビッキが屍体だという訴えがぶっ飛んでいる。そしてなぜラグナ教会の聖職者ですらないベインの訴えが容れられ、しかもこの場にいるのかと、デビッキを擁立する大司教団が吠えたのだ。


 だがそれを制したのが、ほかでもない総主教だった。手にした錫杖しゃくじょうを一振りして大司教団を黙らせた。

 姿を見るのは十数年ぶりだが、こんなにかと思うほど痩せて小さい体だった。純白の衣に織り目の違う金色の幄衣あくいを二重に重ね、主教冠を被ってはいるが、それでも枯木立のようだ。

 ベインと総主教が繋がっていては大神官殿がシカトされるわけだが、一体二人の間に何があるのだろうか。


「さて、おれは一度死んでいるとして、自然死はあり得ないだろうな。甦らせられたのは犯行隠蔽のためか?」

 大司教団が引き下がったので、ようやくベインが話し始めていた。


「事の発端は、デビッキ司教が神学院の最終回生の時です。当時私は二回生でした」

 そのベイン本人の顔を見れば何か思い出すかもと期待していたが、全くだった。


「最終試験を終え、翌日の司祭叙任式のために大神官がお越しになっていました。雪も凍てつく寒い夜でしたので、私は湯たんぽをお持ちするよう学院長から命じられ、客室を訪れました。すると扉の向こうから怒鳴り声がしたのです」

 神学院はここから北へ向かった山の麓にぽつんとある。短い夏に、冬は山からの冷たい風が吹きすさぶ過酷な環境で、祈るか学ぶしかない六年間を過ごす。


「大神官は声が割れるほど強い怒りで叫び、院生と口論になっているようでした。そして次の瞬間、何かがぶつかる鈍い音がし、客室の中は静かになりました。私は恐ろしくて、しかし本能的に見つかってはいけないと思い、廊下のコンソールチェストの陰に身を潜めました」

 場内の司教たちが顔を見合わせる。小さな動揺が産まれていた。


「大神官が一言『死んだのか』と言う声がはっきりと耳に入り、私は闇に溶け込んで息を潜めていました。とても長い時間に思えましたが、しばらくすると扉が開き、院生が一人で出てきました。あなたです、デビッキ司教。死んだはずのあなたが、何事もなかったかのように歩いて部屋から去りました。そして当時の大神官はブリュゲイル殿、現在の総主教聖下です」

 

 小さな動揺が大きなざわめきになっていた。

 進行役の法務官に「そのような事実はあったか」と問われるが、デビッキは「何も覚えていません」としか答えられない。

「聖下におたずねします。証言者の話は事実ですか」

 ざわめきが一気にしんと静まる。人の壁が降り積もった雪となり、聞き耳を立てているように思えた。


 神学院、雪、試験、大神官——。


「事実だが、死んではいない」

 総主教が答えた。痰が絡み、喉がゴロゴロ鳴る苦しそうな声だった。鉄肺病の末期によくある声だ。


 だが瞬間、それは突然訪れた。

 一切の前触れなく記憶のさざなみが押し寄せ、あの晩の出来事がデビッキの中で感情として湧き上がる。その衝撃は大聖堂の巨大なドームが頭上に落下してきたと錯覚するほどで、座っている椅子からずり落ちた。


「大丈夫ですか、司教デビッキ」

 端から見れば、よりによって最たる身内から殺人未遂の事実を突きつけられショックを受けたと映っているだろう。

 衝撃だったのは露わになった真実にではない。十年以上にもわたり、記憶といううつろいやすく曖昧な観念を封じられてきた事実にだ。

 これは法術だったのか。そうとすら気づかせぬほど巧妙に、デビッキの心の内側まで入り込んだ術だった。


「さすがだな」

 デビッキは正面の人物を見据えた。総主教は大きく咳き込み、サイアスに介助されながら水で喉を潤している。


 すると今度はベインが発言を求めた。

「私は聖下を罪に問いたいのではありません。殺人は確かに重罪です。しかし聖下は罪を抱えながらも、全ての信徒へ祝福と赦しをお与えになられてきた。十年以上にわたるまさに孤独な苦難の道であり、充分に聖下の心身へ罰を与えたことでしょう。誠に残念ながら、聖下の命の灯火が消えつつあるのは周知のことです。余命わずかな方に今以上の苦痛を与える必要があるでしょうか。ただ、デビッキ司教の方はどうか」


 現世のあらゆる苦悩を蓄積したようなベインの顔がこちらを向く。

「屍体でありながら自らを神とのたまう、不遜な態度は周知のこと。信徒だけでなく同僚や全ての聖職者たちまでも欺き続けてきたのですよ。皆さん、彼が長年何を研究してきたかをご存じでしょう? 魂の再構築などと言いながら、つまりは己が二度目の死を乗り越えるための術を編み出していたのです!」


 すると大司教団の一人が挙手し、法務官が発言を認めた。

「異議あり! 聖下は殺害を否認されている。証言者の発言は一方的な決めつけであり、推測の域を過ぎない」


「確かに私は遺体を見てはいません。しかし聖下が『私は決して赦されない!』と発作的に呻き、苦しむお姿を目にしたことがあります。それも一度だけではないはずだ! 神に誓って正直にお答えください。大神官様はよくご存じなのではありませんか」

 サイアスが否定しないのと質問した司教が沈黙して座ったので、それは事実らしい。


「一つよろしいでしょうか」

 挙手したのは浅黒い肌色をした、南方の国の司教だ。

「当時私は神学院の講師をしており、あの年の試験の採点を行いました。デビッキは他に大差をつけて首席合格でしたのでよく覚えています。したがって配属は総主教庁で決定していました。それが翌日、急に聖ザナルーカ教会へ変わったのです。当時経営状態の悪かったあの教会は数年のうちに取り潰されるはずでしたので、疑問を禁じ得ませんでした。ですから採点から翌日までの間に何かが起こったというのは自然に思えます」

 

 この援護射撃にベインは嬉々として両手を広げる。

「お聞きになりましたか、皆さん。このような人事変更の裏にあってしかるべき理由が——」

「つまり、おれは数年の間に聖ザナルーカ教会と共に取り潰されるはずだった。だからおれが教会の財政を立て直し司教にまでなって、こうして再びあなたの目の前に現れるのは想定外。ということですね、総主教聖下」

 デビッキのテノールが場内に響いた。


「おれには聖ザナルーカ配属以前の記憶がない。ぼんやりとした輪郭だけが見える、まるで霞の中にいるようで。これでも結構悩んだものだが、まさか罪を隠すためだったとはな」


 つい先日フランに打ち明けるまで、本当に誰にも話さなかったのだ。だが『あなたには、ただもう一度会いたい人がいないはずだ』と遠回しな言い方をしながら、ベインは明らかにそれを把握していた。総主教から聞き出したのだろう。二人の繋がりを証拠づける発言だ。


「聖下に再会して少し取り戻しました。本当に今さっきです。孤児院で、どんなに眠くても毎朝同じ時間に起きるようしつけられた。起きなければムチで酷く打たれて、背中が割れたこともあり、恐ろしい痛みにしばらく眠れなくなりました。打ったのはあなただ」

 デビッキは口元を歪めた。


「孤児院でも神学院でも、あなたはたびたびおれに会いに来た。でもおれはあなたから逃げ出したかった。だからあの晩、口論になったのでしょう? 総主教になるようおれを作ってきたのに、裏切られたから殺した」

「司教デビッキ、落ち着いてください。発言を許可していません」

 慌てた神官が制すが、もう遅い。

 それは臨界だった。急速に気を高めた光の御子が聖護札を掲げ、一言放つ。


焔眼カイジェン

 青い炎が巻き起こり、デビッキの周囲を熱と閃光が一周する。そして木製の証言台を燃やし尽くした。大きなどよめきと共に、前に乗り出していた大司教団も含めた全員が後ろへ下がる。


「黙れ。おれを静死フェイダムするか? 死にたい奴はやってみるがいいさ」

 敵うはずがない。彼のように聖護札ひとつで炎を出現させられる悪魔祓いなど、他にいないのだ。


「記憶がなかった理由がようやくはっきりしたよ。おれは屍体から作られた人形で、過去など必要ないからだと合点がいった。認めよう、おれの存在こそが罪だと」

 全員の注目を集めて微笑む。妖艶だが粘性の糸を引くようにグロテスクだ。神の敵となった、白い悪魔の姿だった。


「神罰を与えるがいい。総主教が隠した分までおれが受けてやろう」

 場内でサイアスだけが一人、下を向いていた。

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