第38話
今日も今日とて赤い空、黒い雲、極寒という言葉さえ霞む地獄の冬である。大体の亡者はこの寒さで凍死していて、罪人は廃墟や洞穴の中から出られず、大罪人は何かしら対策するなり耐えるなりして闊歩している。死因や状況は違えど、相変わらずな環境であった。
さて、そんな地獄でも有名な狂科学者、人類の進化という御題目……ではなく、大義名分……でもなく、崇高な目的のために日々人体実験を繰り返しているサイエは、寒さが苦手である。だもので、何故か自分に懐いている連続殺人鬼ことツジから譲ってもらった軍用防寒コートにくるまって白い息を吐いていた。
「センセイ?」
「……馬鹿は風邪を引かないとはよくいったものだ」
建物、とはいえ隙間風が吹き荒ぶ廃墟の中に入ってきたのは件の姿。サイエが着ているコートとよく似たものを羽織り、怪我をしているのか顔の片側に包帯を巻いた姿で、ちょこちょこと近づいてくる。そして、サイエから四歩分の距離を取って立ち止まった。
「ナニしてるの?」
「それに答える義務はないな」
きょとんと首を傾げた相手に対して、サイエは素気なく返す。この廃墟はサイエが占領している、いわば地獄における実験室だ。無論、生前に調えていた部屋に比べれば天と地の差だが、ないよりはある方がいい。その程度の空間であった。
「んー……キゲン、わるい?」
「そうだな、ソレに化けるならもう少し舌の使い方を学んだ方がいい。つまらん芸を見続ける時間は持ち合わせていない」
瞬間、サイエの手が近くにあった薬瓶を引っ掴み、投げつける。中身は硫酸だったか、塩酸だったか。どの道、人体に引っかかればそれなりに危険な代物だ。ツジの姿をした男は、薬瓶をひらりと躱して距離を開けた。
「おかしいなぁ、見た目も動きも寸分違わない自信があったのに」
「別に教えてやる義理もないが、アレは生前、舌を焼かれた後遺症……とでも言えば馬鹿にもわかりやすいか、それで発音に特徴がある。それと、アレがその程度の怪我をするか。アレが怪我するならそれは致命傷でしか有り得ない」
べ、と薄い舌を出して見せたサイエに、改めて首を傾げた男。変装の名人、大怪盗は顔の包帯をしゅるりと解いて、困ったように眉根を寄せた。
「ん、んー……ンーと、こんなカンじ?」
「まだまだだな、つまらん芸からつまらん手品になったくらいか」
「うぅん、傷つくなぁ……キズついたー!」
「アレに心が傷ついたなんて感覚があると思うか?」
「おかしいなぁ、先生が唯一可愛がってる子だって話だったのに、当たりが随分強いぞ……」
「その悍ましい噂の出所はどこだ、事と次第によらずとも殺すが」
「新聞に書いてあったんだよ。不思議な新聞でね、記事が次々書き換わっていくし、会話もできるんだ」
「あの雑文屋か。先達として教えてやろう、あの新聞の記事は全部虚構で会話の内容は詐欺でしかない」
「ソォ? オレ、ダマされた?」
「もう一つ教えておいてやるが、アレはそもそも識字能力が低いから新聞なんて読めない」
「先生、存外親切だねぇ」
「これから殺す……あぁ違うな、わざわざ実験室まで来てくれた健気な実験体には優しくしてやることもあるさ」
刹那、大怪盗は出口へ向かって跳び、飛来したメスを回避する。ち、と微かな舌打ちの音。うひゃあ、と間の抜けた声を漏らしつつ、大怪盗はサイエの射程範囲から離脱した。
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