ダキニの恋

回向田よぱち

伊綱

第1話

「伊綱!」

 母の声に体を強ばらせる。家というには粗末な仮説小屋の裏で、ぎゅっと体を縮めた。幸い体が小さいため、積み上げられた木箱の影に見つからないよう隠れることは容易だった。今は誰にも会いたくなかった。母でさえも。

空は紅に染まり、烏の叫びは耳につく。禿鷹が西に飛んでいく。

「伊綱、ここにいたのか」

 低い声が上から降ってきた。恐る恐る天を仰ぐと、母の顔があった。辰砂のような瞳に、小麦色の肌、大きな狐耳、炭のような黒髪。私がどうしても手に入れられないものを、母は当然のように持っている。その強さも美しさも、ダキニ族の族長たるには十分だった。

「どうした、また虐められたのか。みんな心配しているぞ」

「わ、私なんて、誰も……」

 視界の端に、自分の白い髪が映る。大嫌いな髪だった。ダキニ族の他の女たちは皆、母のような深い黒髪なのに、なぜ私だけこんな色なのだろう。

「私なんて、なんて言うな。今日は若い男の肉が手に入ったからな。宴だぞ、早く来い」

 そんなこと百も承知だ。いい肉が手に入ると、皆浮き足立つから嫌でもわかる。宴、それはよりによって族長の娘が出来損ないだということをこれでもかとわからされる場所だった。狩りも、手仕事も、人と喋るのも苦手な自分は、ダキニ族の中で居場所がない。加えて、この白い髪。今日だって、散々虐められたばかりなのだ。また宴の爪弾きものになるのは目に見えている。

「……行きたくない」

「伊綱」

「行けば、また、私のせいで、母さんがなんか言われる。私が、こんな髪だから……」

 私が、こんな娘だから。

 母は大きなため息を一つつくと、その美しい顔に笑みを咲かせた。

「わかった。今日は母さんも宴には出ない!」

 木箱の上の埃を簡単に払うと、母はその上にどっかりと座った。

「それはダメだよ、母さん族長でしょ、出なきゃ」

「私の可愛い伊綱がいなきゃ、いくら若い男の肉だって美味しくないからな。今日はここで一晩明かそう」

 母の尻尾が揺れる。夜のような黒い尻尾が。

「だから伊綱、言いたいことは全部言って、思う存分泣け。大丈夫、母さんがついてる」

 思わず、涙が滲んでくる。涙は大粒の雫になり、地面を黒く染めていく。私は、人目も憚らず泣いた。大声を上げて泣いた。泣き止むまでずっと、母は隣にいてくれた。


 結局宴には顔を出したが、肉を食べるだけ食べてすぐに抜け、そそくさと自分の天幕に帰った。布団に入ったが、目を閉じると虐められた時のことが頭に浮かんできてしまい、上手く眠れなかった。ただでさえダキニ族は人々に恐れられ、迫害されているというのに、ダキニ族の輪の中にも入れないのでは、私の行く場所はどこにもなかった。

 遠くから宴の音が聞こえていた。笑い声に加えて、楽しげな音楽も風に運ばれてくる。あの中心に母はいる。誰からも愛される母が。皆を照らす太陽のような母が。

 ようやくあたりも寝静まったころ。母が天幕に帰ってきた。どうせ遅くまで片付けを手伝っていたのだ。族長だからといって、木端な仕事を他人に任せる人間ではなかった。

「伊綱、起きているか」

 一瞬返事をするか迷ったが、嘘をつくのは苦手なので、渋々身を起こした。

「星読みに聞いたんだが、今日は星が流れるそうだ。見に行かないか」

「他の人は?」

「いない。二人だけだ」

 母は、皆には内緒だ、と言って笑った。

「じゃあ、行く」

 ほっぽってあった片刃剣を腰に差し、天幕を出る母の背中を追う。数十の仮設集落を抜けると、永遠に続くかと思われる荒野が広がっている。一陣の風が、頬をすり抜ける。砂の匂いが濃くなる。母は岩が積み上がった高台を見つけると、その岩の上に腰掛けた。母の隣に腰を下ろす。母のお気に入りの、甘い香油の匂いがする。

 目が周りそうなほどの満天の星だった。生き物の息吹は、どこにも感じられなかった。地上に目を下ろすと、今までいた天幕の集落は、虫ほどに小さくなっている。

「その髪が嫌か?」

 母は大きな手で私の頭を撫でた。

「嫌だよ。どこ行っても虐められるし」

「そうか、そうか」

 相変わらず明るい笑顔を見せると、母は少しだけ遠くを見つめた。

「伊綱のその白い髪は、お前の父さんから譲り受けたものだ」

「……父さん?」

 父、という存在は知っているが、ダキニ族には、掟だかなんだかよく知らないが、男はいなかった。もちろん、父の話など聞いたことがない。

「ダキニ族は、今でこそ他の種族と交流して食糧を補えているが、昔は悪いことや辛いことをして、食べ物を得ていた。私も一時期、ひどい仕事に就いていてね、そんな時に出会ったのが伊綱の父さんだった」

 母の瞳が陰る。その寂しげな横顔は、私の知らない顔だった。

「父さんは、来迎屋だった。白い髪に、紫水晶のような瞳をしていたな。父さんは出会うや否や、私が殺した獲物に向かって、経を読み始めたんだ。死者を正しい輪廻に還す、来迎屋、という職があるのは知っていたが、実際に見るのは初めてでね。度肝を抜かれてしまった。私が唖然としていると、父さんはこう言った。君はこれからこの人を食べるんだろう、と」

 獣人ダキニ族が恐れられている理由。それは食人の必要があるからに他ならない。人間以外の食料も食べられるが、それで完全に腹の足しになるかといえばそうではなかった。人間の血肉こそが唯一の食糧なのだ。一度食べれば一週間は保つが、それ以上空けると永遠の眠りに瀕する。

「それで、怒られたんでしょ。坊主ってのは、そういう人種だから」

 母は首を振った。

「私も怒られると思った。でも、父さんは違った。自分で殺したものを、責任を持って食べる、それは人間が長く忘れ去った、正しい行いだ、と言ったんだ」

「……それ本当に坊主? 変な人だよ」

「ああ、その通り本当に変な人だったよ。坊主のくせにいつも明るくて能天気で、優しくて。私はいつしかあの人に憧れていた。今でも、毎日思い出すよ」

 そんなに焦がれる男なら、なぜ一緒にいないのだろうか。ダキニ族以外の人々は、つがいで行動しているのをよく見るのに。

「それで、父さんはどうしたの」

 そう聞くと、母は哀しげに笑った。

「別れたよ」

「なんで」

「……ダキニ族には、子をその腹に宿した時、夫と離れなければならない掟がある。ダキニの女にとって、一番美味しいと言われているもの、それは、愛する男だからだ。子供を腹に宿したら、いつもより腹が減るのが早くなるのも相まって、父親というものはこれ以上ないご馳走に見えてしまう」

「そんな悲しいこと」

 思わず岩上の砂を握る。固唾を飲む。

「違うよ、伊綱。悲しいんじゃない。愛しているからだ。愛しているからこそ、そのためにその身を全て、自分の腹に取り込みたくなってしまう。でもそれで食べてしまっては、この国じゃ重罪人扱いだ。そのために掟があり、離別がある。おい、伊綱、泣くな」

「だって、母さん、ずっと父さんのこと好きなのに」

 母は、優しく私を抱きしめた。母の香りがふわりと広がる。太陽の香り、を表すなら、こんな感じなのだろうか。甘くて、そして乾いた香り。

「伊綱は、優しいな」

 小さく、つぶやくような声だった。

「母さんが言いたかったのは、伊綱の白い髪は、母さんが愛する人の白い髪だってことだ。誇りを持て、伊綱。その白い髪とダキニの血は、父さんと母さんが生きた証でもあるんだから」

 母が宙を見た。つられて顔を上げると、星屑の海の中、一欠片の光が真っ直ぐに泳いでいるのが見えた。泳ぐ星は次第に増え、流星たちは優しい光を地上に落とす。

「父さんに、いつか会えるかな」

「きっと会えるよ。父さんも私たちも、見上げる空は同じだから」

 母は、わしゃわしゃと私の白い髪を撫でた。

 母に言われると、私の白い髪もそう悪いものではないような気がしてきた。両親の願いを引き継いで私がここにいるのだ。

「荼鬼様!」

 その名は現在の母の名であり、族長が代々襲名する名だった。呼ばれた声の方を見ると、同じくダキニ族で警備を担当している伊織だった。おかしい、今日は夜の見張りだったはずだ。伊織は全身に汗をかいており、その黒い肌には先ほどまでなかったはずの傷跡が無数についている。

「どうした、伊織」

 母の顔に緊張が走る。伊織は居住まいを正すと、暗い面持ちで口を開いた。

「天幕が、襲撃されています」

 伊織はその言葉を告げるや否や、地面に倒れた。


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