第21話 近くて遠い熱

 ふと、自分の感情と付き合うのが上手くなった気がする。


 沈みかけた気持ちを誤魔化し、ツバキはエルネストの袖を引いてあちこちを見て回った。綺麗な物を指差してはしゃぎ、珍しい物を見るとエルネストにこれは何かと尋ねた。時折、知っている物でも知らないふりをして尋ねたりもした。


 今までエルネストと噛み合わないことがあるたびにその理由を探していたが、今日それがようやく分かった。


 自分を分かってもらおうとするから上手くいかなかったのだ。彼の話を否定せず、強く反論せず、少しの諦めを持っておく。ただそれだけで良かった。


 そのことに気がついて、彼と一生を共にすることに対する不安が少しだけ和らいだ。この人は不器用で生真面目だけど悪い人じゃない。少しずつ知っていこうと思えるようになり、気が楽になった。


 心が軽くなったのは大切な物を手放したからだとは、まだ気づけなかったが。











「疲れた……」


 広場のベンチで長く息を吐き出し、足をぐっと伸ばした。時計はもう4時前だ。色々なものを見たせいで頭がくたびれてぼんやりとする。


「かなり見て回ったからな。その割に荷物は増えていないが」


 エルネストの手には紙袋が一つしか握られていない。あの後、見るもの全てに目移りして何が欲しいのか分からなくなってしまい、結局財布を開いたのは先程屋台で飲み物を買った時だけだ。


「服でも買えばよかったんじゃないか?」

「どういうものがいいのか分からないので」

「自分が好きなものでいいじゃないか」

「それが分からないんです! 見た目が好みでも似合わなければ嫌ですし......」


 「そういうものか?」と腕を組む動作が様になっている。高い身長にがっしりとした肩、長い足、整った顔立ち。ツバキはストローを吸いながら恨めしげに彼を眺め回した後、自分の平坦な体と見比べて、わざとらしくため息をついた。


「美丈夫は何を着ても似合うからいいですね。こんなちんちくりんの気持ちなんてどうせ分からないんだ」

「君も充分に可愛らしいじゃないか」

「見え透いたお世辞をありがとうございます」


 唇を尖らせるツバキの頭にエルネストの大きな手が置かれた。

 穏やかな表情だ。半日で随分と距離が縮まったと思っているのはツバキだけではないらしい。


「……今日は楽しかったか?」


 何気ない質問のようで、声音からほんの僅かな心許なさを感じる。ツバキはその不安をかき消したくなって、にこりと笑った。


「はい。こんなに楽しいのは初めてでした」


 ――あ、嘘。


 エルネストの表情が驚きで固まり、やがて氷が解けるように柔らかな微笑みに変わる。見たことのないほどに優しいその顔が、ツバキの良心をひどく苛んだ。


 彼が一番喜びそうな言葉を選び、無意識の内に吐き出してしまった。息をするように嘘をついたことへの罪悪感で顔が赤くなる。


(楽しい、こと)


 一緒にいて、一番楽しい人は誰だろう。


 ツバキはその答えを既に持っていた。でも、駄目だ。脳裏に浮かんだ彼の顔を必死に打ち消す。ぎゅっと目を瞑り、気持ちごと忘れてしまいたいと願う。

 頭に置かれていた手がどけられて、ツバキは弱々しくエルネストの顔を見上げた。いつの間にか険しい表情を浮かべて真っ直ぐを見つめている。


「あのっ本当にやめてください」

「ちょっとだけだって。ねぇ」


 声のする方と彼が視線を向けている方向は同じだった。見ると、一人の女性が軽薄そうな男に絡まれている。

 女性は男をかわしてさりげなく逃げようとしているが、その度に立ち塞がられて身動きが取れない。拒絶の声が大きくなるのに反応して男が苛立ち、ついに女性の腕を掴んで捻りあげた。


「見ていられん」


 ここにいてくれ、と言い残しエルネストが二人の元へ向かう。男の腕を掴み、体を間に挟んで男を女性から引き離す。


「いい加減にしろ。警察を呼ぶぞ」

「お? そういうのカッコイイとでも思ってやってんのか、あ?」

「低俗な会話に付き合うつもりは無い。彼女から離れろ」


 男は恨めしげに睨みつけて拳を振り上げ、エルネストの頬を殴りつけた。べち、と軽い音がして、頭がわずかに傾く。


「……満足か? 早く消えろ」

「テメェ……」


 エルネストは眉一つ動かさず、毅然と男を睨み返しそう告げた。喧嘩慣れしていない男の軽い拳など怖くもない。そう言いたげな彼の態度に男は逆上し、顔が羞恥と怒りで染まる。


「クソが、クソクソクソ」


 震える指で腰に着けた鞄から何かを取り出した。折り畳まれていたそれを立ち上げ、隙だらけの構えでエルネストに向ける。挙動がおかしい。薬でもやっているのかもしれない。

通行人が小さく悲鳴をあげて逃げていった。


 取り出した物はナイフだった。ちゃちな作りではあるが、親指の先から手首くらいまでの刃渡りがある。無差別に振り回されたら穏やかには済まないだろう。

 ちらりとエルネストの顔を見る。自分の身を心配している様子は無いが、問題は彼の背中に隠れた女性だ。怯えて立ちすくむ彼女をどう守るか――魔術を使い、男だけを攻撃するには繊細な集中が必要だ。半端な攻撃では周囲に被害が及びかねない。


 だが液体を固体に変えるくらいならば、彼の実力があれば指先一つで出来る。ちら、と持っていたジュースに目をやる。


 もったいないことをしてごめんなさい、美味しかったです――


「えーい」


 膠着こうちゃくした三人の元に近づき、エルネストが気づくようにわざとらしく声を出して、持っていたカップの中身を勢いよく男にかけた。一呼吸の目配せの後、すかさずエルネストが指先を向け、空を握る。男の腕は一瞬にして凍りつき、青白くなった指からナイフが零れ落ちた。


「んだよつめてぇ……いってええ!」


 凍りついた腕を掴み引っ掻き回すが氷は削れない。悲鳴をあげる男をエルネストが組み伏せ、後ろ手で重ねて手首から先を氷漬けにした。


「助かった。警察に引き渡してくるから少し待っていてくれ」


 彼の言葉に頷く。暴れる男を引き摺っていくエルネストとその後ろをおどおどと着いていく女性を見送り、ベンチに戻ってほぅと一息ついた。

 特に珍しくもない光景だったのか、遠巻きに様子を伺っていた人々はほっとした顔で去っていった。通りはすっかり元の様子に戻っている。


 下手に注目を集めなくてよかった。でもジュースがなくなっちゃったなあ、勝手に買いに行ったら怒られるかな……と考えを巡らせていたその時。


「お嬢さん、僕とお茶しない?」


 聞き慣れた声に反射的に振り向く。


 ココア色の前髪の隙間から、悪戯っぽい笑顔が向けられていた。


「アルウェン。本当に来たんだ」

「なにさ。来ちゃ駄目だった?」

「ううん会えて嬉しい」


 アルウェンは満足そうな顔でツバキの隣に座り、両手に持っていた飲み物の片方を手渡した。お礼を言ってストローを咥えると、アルウェンが手を伸ばし、ツバキの髪を掻き分けて耳に触れた。


「ひゃあぁ!!」

「いつにも増してすっごい可愛いね。僕とすれ違うかもしれないからおしゃれしてきたの?」

「な、ちゃ、そあ」


 慌てふためくツバキに「冗談だよ」としたり顔で言った。手が離れても触れられたところが熱っぽい。


「さっきのヒーローが例のお義兄さん?」

「そっそうだけど、見てたんだ」

「まあね。なんかザワついてるなーって思って覗いたら、近くに君がいてびっくりしたよ」

「……しつこいナンパ男が女の人に絡んでたんだ。義兄は正義感が強いから、助けに入ってそのまま警察まで連れて行っちゃった」

「せっかくのデートなのにお気の毒様」


 なぜかその言い方にもやっとする。アルウェンに今日のことをデートと称されると、不思議と反論したくなった。


「まあ、デート……だよね。男女が二人で遊びに来たんだから」

「だろうね。楽しかった?」

「ん……楽しかったけど」

「にしては浮かない様子だけど」


 そう言われて言葉に詰まった。いつもと変わらない顔をしていたつもりなのに、どうして分かったのだろう。茶色く色を変えた彼の瞳に心を見透かされている気がして、慌てて笑顔を取り繕う。


「たくさん歩いて疲れたのかも。街中すごく綺麗で見とれちゃった。お祭りのこと教えてくれたアルウェンのおかげだね、ありがとう」

「それは良かった」


 ちっとも良くなさそうな口調でそう返す。少しの不機嫌さを滲ませたアルウェンに胸が燻るような思いがして俯くと、彼が顔を覗き込んで言った。


「ね、もしかしてこれもデートじゃない? 二人で広場のベンチに座ってお喋りするだけでもさ」


 からかうようなその言葉に目を見開き、そしてくすりと笑ってしまった。


「ほんとだ。デートかも」

「一日で二人とデートしちゃうなんて悪い女の子だね」


 アルウェンが詰め寄る。


「どっちが本気?」

「へ?」

「……楽しかったのはどっち?」


 どきりとした。


 答えたくなくて、無為にストローを噛む。もう飲み物は空っぽなのに。


 アルウェンもそれ以上は聞いてこなかった。ズズ、とジュースを飲み終えて、ツバキが手に持つカップを取り上げる。


「返してくるよ」


 その言葉がおしまいの合図のような気がして、ツバキは咄嗟に彼の裾を掴んだ。


 アルウェンは振り向いてきょとんとしている。ツバキは自分が何をしたいのか分からないままぼんやりとしていたが、掴んだ裾を離そうとはしなかった。


「すまない、遅くなった」


 エルネストの声がして、慌ててその方向を振り向いた。ややくたびれた様子でこちらに走ってくるのを見て、アルウェンの服からするりと手が離れる。


「お疲れ様でした。殴られたところは痛くありませんか?」

「ん? ……ああ、そういえば殴りかかってきたんだったな。今思い出した。問題ない」


 その言葉に偽りはないようで、頬はちっとも腫れていない。子猫のようなパンチだったらしい。


「ところでこちらは?」


 エルネストがアルウェンを一瞥した。


「友達です。前に言った薬師のお婆さんのひ孫で」

「男……?」



 エルネストが眉をひそめる。どうかしましたか? と尋ねようとしたツバキに甲高い声が重なった。


「初めまして、アルウェンです。ツバキにはお世話になってますっ」


 ……ん?


 あんぐりと口を開け、きゃぴっとした声の発声源を見上げた。

 両手を後ろに組み、上半身を前のめりにしてエルネストに上目遣いをしている可愛い少女……ではなくアルウェン。


「す、すまない。性別を間違えるなどなんて失礼なことを」

「えへへ、こんな格好してる私が悪いんです。気にしないでくださいね」


 肩に着くか着かないかくらいの髪を人差し指と親指でつまみ、くねくねしながら照れくさそうに笑う。誰だ、この美少女は。


「話には聞いてたけど、かっこいいお義兄さんでびっくりしちゃいました。ツバキが羨ましいです~!」

「いや、そうだろうか」


 エルネストは女性に免疫がないのか、豪速球で繰り出される褒め言葉に激しく狼狽していた。ツバキはというと事の理解が追いつかず、甘いピンク色の空気を撒き散らす友人をハイライトの消えた目で傍観する。――何これ。


「今日は偶然二人に会えて嬉しかったなぁ。ツバキ、お義兄さん、またね」

「アッウンまたね……」

「ああ、気をつけて」


 そう言って手を振るアルウェンに、つられて裏返った声でかろうじて別れを告げた。


「元気で可愛らしい少女だったな。君にいい友人がいて安心した」

「あー……アルウェンは男の子です……」


 ピタ、とエルネストの動きが止まる。瞬きを数回した後、合点がいった様子で声をあげた。


「心が、か」

「は?」

「性自認が男性ということか? それはきっと苦労もあるだろう。よく相談に乗ってやるといい」

「アッイヤ違」

「なに、深く言わなくてもいい。デリケートな問題だからな」


 ――なんか、面倒臭いからいっかぁ。


 死んだ魚のような目で首を縦に振る。


「ところで贈り物をしたい相手というのは彼女だろう? 渡さなくていいのか?」


 ベンチに置いたままの紙袋を見て、あ、と声が漏れる。すっかり忘れていた。袋の中からラッピングされた箱を取り出して歩いていった方向を見るも、既にアルウェンの姿はない。


「帰る方向は同じだ。追いかけるか?」


 少しの逡巡(しゅんじゅん)の後、こくりと頷く。伸ばされた手を取り立ち上がり、アルウェンが去って行った道を二人で進み出した。


 大股でどんどん通行人を追い越していくエルネストの後ろを小走りで追うと、次第に上がっていく呼吸に夕暮れの花の匂いが混じった。

 街を行く人々は皆楽しそうだ。親子、夫婦、恋人……一人で歩く人さえ浮足立っていた。誰もが、待ちわびた春の訪れを心から歓迎していた。


 人通りを縫いながら、似た背格好の後ろ姿を見つけては目を移し、彼を探す。二人、三人と数えるうちに、いつの間にか街のはずれへと近づき、もう会えないような予感が胸をよぎる。


 無性に会いたい。鼓動が早い。エルネストを追い越し、ツバキは遠くに見えた人影を縋るように追う。


 伸びた背筋。夕日を反射しない茶色の髪。拳一つぶん高い背。


「アルウェン!」


 ツバキの呼びかけに振り向く。その目の色は赤く戻りかけていたが、夕焼けに染まって分かりづらい。


「そんなに走ってどうしたの?」


 驚くアルウェンの元に駆け寄ると、息を整えながらへらりと笑った。


「これ、割れ物なのに、走っちゃった……」


「……僕に?」


 うん、と頷く。


「昨日、誕生日だったんでしょ? 誕生日おめでとう、アルウェン」


 小さく口を開けたまま箱を受け取り、アルウェンはまじまじと包装を眺めてからこう言った。


「……開けてもいい?」

「今?」

「今。ダメ?」


 背後に目をやると、エルネストは話し声が聞こえないくらいの距離で待ってくれていた。目線を戻し、上目で「いいけど」と答える。


 アルウェンは器用に箱を支えながら、左右非対称に掛けられたリボンの結び目を解いた。

 丁寧に、ゆっくりと解いていく。嬉しいような気まずいような不思議な感覚が胸を焦がして、何となく口から言葉が溢れた。


「私さ、今日嘘ついちゃったんだ」

「誰に?」

「……義兄に」

「なんて言ったの?」

「今日が今までで一番楽しい日だったって」

「嘘なんだ」

「うん。言ってから自分は最低だなーって思ってずっともやもやしてた」

「いつかあの世に行ったら最後の審判で同じこと言ってみなよ。可愛い懺悔だねって神様に笑われるから」


 出し抜けに吐き出した後悔をアルウェンはいつも通り優しい声で受け止めた。くすりと笑い合い、箱をゆっくりと開ける。


 中のクッションを外し、カップの肌が晒された。アルウェンは親指でそれを撫で、何も言わずに俯いている。


「その……ハーブティーをよく飲むでしょ? だからアーシャさんと二人で使ったらいいんじゃないかなぁって思ったの。気に入らなければ、持って帰るから」

「これさ」


 俯いたままのその表情は読み取れない。


「ティーカップじゃなくてコーヒーカップだよ」

「へ?」


 間抜けな声が漏れ、かぁっと赤くなる。恥ずかしさと情けなさで胸がぐちゃぐちゃになって、アルウェンから箱を取り返そうと手を伸ばした。


「持って帰る。返して」

「やだ。一度貰ったんだから僕の物だよ」

「でもコーヒーなんて飲まないでしょ?」

「今日から飲む」

「いいから返してよ……」


 アルウェンは箱を両手で掲げ、手を伸ばすツバキから逃れた。どう追いかけ回しても手が届かなくて、ツバキが泣きそうな顔で唇を噛んだ。

 ぴたりと動きを止め、アルウェンが腕を降ろす。そしてもう一度箱の中を見て、うっとりとした声で呟いた。


「この赤い線、綺麗だね」

「ん……好きな色なんだ」


 上目に彼を見る。


 アルウェンは笑っていた。夕日に焼かれてもなお分かるほど頬を高潮させ、血のように赤い瞳にツバキを映していた。


 恍惚とか、愉悦とか。そんな言葉が似合う顔で、誰よりも幸せそうに笑っていた。


「ありがとう」


 ーーああ、だめだ。


 とけてゆく。


 心も、思考も、表情も、彼のその顔に溶かされてしまう。


 右手は破裂しそうな心臓を胸の上からぎゅぅっと抑え、緩んだ口元に左手を当て、甘い熱に脳がとろけてゆくのを受け入れた。


 抵抗なんて、出来るわけもなかった。


「今までで一番嬉しい誕生日だ」


 箱の蓋を閉め、噛み締めるようにアルウェンが言った。


「……それってほんと?」

「本当。誓えるよ」


 にんまりと囁く。


「君と違って、僕は正直者だからね」


 何それ、と笑う声が震えて裏返る。動揺はとっくに伝わっていると知りながらも、必死に平静を装った。


「またね」


「……うん。またね」


 手を振り別れる。遠くなっていく背中に追い縋れたら、どれほどいいだろう。


 自覚してしまった気持ちに再び蓋をしようとしたら、痛くて苦しくて涙が出そうになった。

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