第10話 無際限の悪意

 もう何日笑っていないことだろう。ベッドの上でぼんやりと寝転びながら、カレンダーに目をやった。

 イーサンが屋敷を去ってから1ヶ月が経った。リーズはまだ戻ってこない。いや、きっともう戻って来ることはないだろう。この屋敷はあの狡猾な公爵夫人の手中にあるのだから。


 今まで自分がどれだけ守られてたのか。それを思い知る。

 この屋敷の使用人は20人。今やその半分がツバキの敵だった。


 あの朝の出来事からセドリックが帰ってくるまでの一週間、ツバキはレオノーラの息がかかった使用人たちから嫌がらせを受け続けた。初めは陰口や無視、足を引っ掛けられるくらいだったが、一切抵抗しないツバキに対し、メイド達はみるみるうちに付け上がっていった。

 ベッドに大量の埃をぶちまけられたり、掃除中のモップをわざとぶつけられたり。食事は腐っていたり、虫が入っているのが当たり前だった。


 勉強道具や本を破られた時、とうとう我慢が限界を迎えた。激しく掴みかかり糾弾きゅうだんしたが、レオノーラが現れてツバキの方がいさめられた。それからも幾度となく抵抗したが、彼女はどこからともなく現れ、呆れたように笑いながら場を収めて帰っていく。くすくすと嘲笑しながらメイドと去っていく後ろ姿に憎しみのような感情を抱きながら、ツバキの心は少しづつ荒んでいった。


 嫌がらせに厳しく言い返すたびに、今まで培ってきた自分の人格が摩耗していくような感覚を覚えた。強くあればあろうとするほどに自分の中の優しさが削ぎ落とされて、心の棘だけが鋭くなっていく。

 自己嫌悪の中、もしかしたら自分が間違っているのかもしれないという幼い思い込みが、ツバキから反抗する気力を奪っていった。


 セドリックが帰ってきてからはあからさまないじめは無くなったが、陰湿な嫌がらせは続いた。


 気力と笑顔を失い、亡霊のように日々を送る。屋敷の中で際限なく膨らんでいく悪意に、たった14歳の少女は抵抗するすべなど持ち合わせていなかった。











義母上ははうえのメイドを魔術で尋問したらしいな」


 席に着くなりエルネストからそう諌められた。視線を逸らし、紅茶に入れたミルクをくるくるとかき混ぜる。


「ひどい嘘をつかれたので」

「だからといって罪のない人間に魔術を使うことが許されるとでも思うのか? 君の体質は極めて恵まれた特別なものなんだぞ。それを振りかざして民間人を脅すなど言語道断だ」

「……すみませんでした」


 取ってつけたような謝罪が気に入らなかったのか、エルネストは眉をひそめる。

 

「最近君の悪い噂をよく耳にする。一体どういうことなんだ」


 どういうこと、か。


 初めから糾弾するような顔を向けてきた彼にありのままを話したところで、素直に信じてもらえるわけもないだろう。ツバキはフッと唇を歪め、冷たく言い放つ。


「どうしてだと思いますか?」

「……君のそういう態度のせいじゃないのか」


 胸がぎゅっと痛んだ。期待した訳でもないのに、失望のような気持ちが広がっていく。


「かもしれませんね」


 そう言い、寂しげに笑った。エルネストは、見た事がないほど哀しく大人びたその表情を見て、思わず黙り込んだ。

 ティーカップに口をつけると、不愉快な香りが口から鼻へと抜けた。ミルクが腐っている。エルネストが紅茶にミルクを入れないと分かっていてこんなことをしたのだろう。カップの持ち手を指で作った輪っかにぶら下げ、紅茶を芝生の上にひっくり返した。


「随分と行儀が悪いな」

「手が滑りました」

「一体どうしたんだ! そんなことをするような人間では無かっただろう!」

「……私の何を知ってるんですか? 猫を被る相手がいなくなって、本性を表しただけかもしれませんよ」

「本当にどうかしてるぞ!」


 膝の裏で椅子を蹴り、もういい、と言い捨ててエルネストが去って行く。

 ツバキは長いため息をつき、屋敷と繋がった小さな温室から一人ぼっちで外を眺めた。溶けかけた雪に覆われた花壇の中で、ひょろりと頭を出している枯れた雑草。まるで自分を見ているようだ。

 そういえば、故郷はもうすぐ桜の季節だ。同じ名前をした6歳年下の妹に思いを馳せる。もう8歳になるのか。甘えん坊は卒業したかな――。


 くらりと天を仰ぐ。顔がはっきりと思い出せなかった。そんなはずはないといくら記憶を辿っても、ぼんやりとした姿しか思い浮かばない。思い出は鮮やかに残っているのに。


 鼻の奥がツンとする。時の残酷さを痛切に恨んだ。


「あの」


 女性の控えめな声がして、はっとその方向を見る。20歳くらいの背の高いメイドが、おどおどとこちらへ向かって来た。


「何?」

「そ、その……お嬢様、これくらいの、小さな箱を大事にされていましたよね」


 指を四角く形作り、メイドは怯えた様子でそう聞いた。


「だったら何? レオノーラ様に盗んでこいとでも言われたの?」

「ち、ち、違いますぅ! 同僚達がお嬢様の部屋から出てきたのを見たんですけど……その、手に箱を持っていたので、お伝えした方がいいかと思って」


 その言葉に血の気が引いた。誰にも見つからないようにクローゼットの奥にしまっていたはずなのに。


「誰が持って行ったの?」

「サ、サラとヘーゼルですぅ!」


 またあいつらか。奥歯を噛み締め、ツバキは駆け出した。

 屋敷のエントランスに飛び入り、中央に立って意識を研ぎ澄ます。サラとヘーゼルの気配は最悪な形で覚えていた。二階から降りてきて、この場所を通り、外に出ている。ツバキは残された気配の後を追い、外壁に沿って屋敷の裏手へ向かった。その先に待っていたのは、焼却炉と煙の臭い。


「あの箱を返して!!」


 ツバキの怒号に、焼却炉の前にいた二人は驚いた顔で振り向いた。しかしすぐに余裕に満ちた笑みを取り戻す。

 焼却炉の蓋は開いたままだった。火の点いた焚き付け用の薪の中央に、見覚えのある小さな木箱が見える。ツバキは脇に置かれた火かき棒でその箱を手繰り寄せた。少し焦げていたが、まだ燃えてはいない。安堵する間もなく箱を開けると、中には何も入っていなかった。


 二人は醜い笑い声を上げ、ヘーゼルが手に持った桜色の折り鶴をひらひらと振った。対するサラの手には火のついたマッチが握られている。

 ゾッとして声も出せずに二人に向かって飛びかかった。サラがマッチを地面に落とし、ヘーゼルが尻もちを付く。折り鶴は手を離れ、ひらりと宙を舞った。


 その時、趣味の悪い悪戯のように、強い北風が吹いた。空中の折り鶴は風に飛ばされ、燃え盛る焼却炉の中へと吸い込まれていく。


「いっ……」


 振り返り、まろびながら炉へと駆けた。ぐらりと体勢を崩しながら片手を地面につき、炉の中に入るすんでのところで折り鶴を手にし、間に合ったとほっと胸を撫で下ろした。

 端が少し焦げている。この小さな燻りが広がる前に完全に消火しないと。少しなら水に着けても……あれ?


 ヘーゼルとサラが真っ青な顔で自分を見ている。


 ツバキは、自分が体勢を崩したままであったことにようやく気がついた。勢いのままに突っ込んだのは、鉄製の焼却炉の、その外側。


 顔の右半分を焼却炉に擦り付けながら倒れた。転んだ時に打った肘が痛む。うめきながら立ち上がろうとした時、遅れて生じた頬の痛みに気付いた。


「ぁああああ!!」


 灼熱の激痛にツバキは絶叫した。頬を抑え、地面をのたうち回る。視界の隅でヘーゼルとサラが悲鳴を上げながら逃げていくのが見えた。

 熱い。熱い。痛い。何度ももんどりを打って魚のように地面の上を飛び跳ねる。土を握り締めて立ち上がろうとするが、膝が砕けて上手くいかない。あまりの痛みに全身が震え、目も開けられなかった。


「お嬢様!? ひぇぇ何が……誰かぁーっ!」


 さっきのメイドの声がする。間もなく数名の人が駆けつけるような足音がして、執事に抱えられた。


 虚ろな意識の中でふと妹の笑顔を思い出して、ああ帰りたいと、そう願った。











 急な呼び出しから始まり、しばらく仕事に追われていたが、ようやく一段落がついた。職場から帰ってきてからもなお業務をこなし続けていたセドリックは大きく息を吐き、外の空気を吸うために執務室を出た。


「お疲れ様でございますね」


 書類整理を手伝っていた老執事のスティーブが、後ろを歩きながらそう言った。セドリックはため息を返し、お前もな、と彼の苦労を労う。

 時刻は午後5時過ぎ、夕刻へと差し掛かる頃だ。セドリックはふとひと月前の出来事を思い出した。

 大人しく真面目だと思っていた少女が、珍しく感情に振り回されていたようだった。あの後レオノーラと話をする前に呼び出しを受けて慌ただしく家を出たので、結局ことの仔細は分からないままとなっている。


「あの子のメイドの行方は分かったか」


 そういえばと約束を思い出し、スティーブにそう尋ねた。


「それが……どうやらつい数日前に婚約者と共に引っ越したようです」

「数日前?」

「申し訳ありません。ご命令の後、すぐさま調べるべきでした」


 歯痒い思いだったが、スティーブを責めることは出来なかった。彼もセドリックのサポートで走り回っていたのだ。仕方がないとこめかみを揉み、「引越し先を調べておけ」と言ってテラスの椅子に腰掛けた。


「お飲み物をお持ちしましょうか」

「ああ……水でいい。コーヒーは飲み飽きた」

「かしこまりました……おや?」


 歩きだそうとしたスティーブが、何かを見つけたような声を出した。

 廊下に目をやると、小さな黒髪の少女が足早にこちらへ向かっていた。その頬には大きな湿布が貼られていたが、隠しきれてない真っ赤な腫れが目の辺りまで広がっている。


「お嬢様、その傷はどうされましたか? きちんと処置はなさったのですか?」


 スティーブは珍しく動揺を隠さずツバキに話しかけた。対するツバキは傷を隠すように俯き、大丈夫です、とだけ呟く。


「大丈夫ではありませんよ。これは火傷ですか? 跡が残ってはいけません」

「薬、塗ってもらったので。……跡が残ったら、恥ずかしいですか?」


 そう言って力無く笑う。セドリックがピクリと眉毛を動かした。


「次期当主の妻の顔に傷があるなんて、家門に泥を塗ることになりますよね。そうなったら、私はどうなりますか? 元の家に帰されますか?」


 スティーブはツバキが随分と心を病んでいることに勘づいた。孫のような年の少女に対し、かける言葉を探すのに手間取ってしまう。おろおろとする彼の横から、セドリックが静かに近づいた。


「……ごきげんよう。公爵閣下。お目汚しをしてしまい申し訳ありません」

「いや……ツバキよ」


 ツバキの自虐的な言葉に即座に首を振る。スティーブは何か自信ありげな主の姿に頼もしさを感じた。そしてセドリックがゆっくりと口を開く。


「傷など気にするな。はらが無事なら何ら問題無い」


 数秒間、反応ができなかった。


 ツバキの顔は悲しみで歪み、今にも泣き出しそうに俯いた瞬間に走り出した。遠ざかっていく背中を見ながらスティーブとセドリックはひどく狼狽した。


「お待ちくださいお嬢様! ……旦那様! 一体いくつになったらその無神経さが直るのですか!」


 子供のように叱られて、セドリックは今までになく焦りながら顎に手をあて考えた。


「……それほどまずいことを言ったか?」

「当然でしょう! ああ気の毒な」


 スティーブが頭を抱えた。


「今すぐに謝罪に参りましょう。語弊があったと説明をしなければ」

「む……」


 有無を言わさぬ剣幕のスティーブにたじろぎ、その背について行こうとしたその時、慌ただしい足音が近づいて来た。見ると一人の使用人が大きな封筒を持って向かってくる。


「公爵閣下、国王陛下より急ぎの書類が。至急確認をとのことです」

「しばし待て」

「しかし使いの者が返信を受け取るために待機しております」


 険しい顔で数秒悩んでいたが、スティーブに目配せをして書類を受け取った。


「ひとまず頼んだ」

「かしこまりました。後で必ず直接謝罪に参りますよう」


 うむと小さく頷き、足早に執務室へと戻っていく。スティーブは一人でツバキの部屋へと向かい、閉ざされた扉を軽くノックした。


「お嬢様。ご在室ですか」


 想定していたが、返事は無い。ベッドが軋む音がわずかに聞こえるので部屋にいることは間違いないだろう。慎重に言葉を選び、声を張り上げた。


「先程は申し訳ありません。旦那様はお嬢様の心配をするあまり、言葉選びを間違えてしまわれたのです。けしてお嬢様を軽んじているわけではございませんよ」


 無音。自分の言葉が一切少女に響いていない気がして、スティーブはぬぅと唸った。これ以上気の利いた言葉が思い浮かばない。やはりセドリックが直接謝罪に訪れることが最良の薬になるだろう。


「また後で旦那様が謝罪に参ります。その時お気持ちが落ち着いておられましたら、どうかドアを開けてくださいますか」











 嫌だ、会いたくなどない。ツバキは布団にくるまって聞こえないふりをした。

 初めはセドリックが何を言っているのか理解できなかった。その言葉を何度も反芻して、やがてその意味に触れると、悲しみが胸にじんわりと広がってきた。


 そうだった。

 私は、魔術師の血を濃くするためにここに連れてこられたのだった。


 何を悲しんでいるのだろうか。自分が忘れていただけじゃないか。自分がしてきた努力は、全てこの家に身を捧げるためのものだったのに。


 もう何も考えたくなかった。必死に目を閉じて眠ろうとするが、顔の火傷が酷く痛んで眠れない。頬を押さえたり痛みを誤魔化すために腕をつねったりしているうちに、部屋は暗くなってしまった。


 そろそろと布団から顔を出し、窓の外の景色を見つめる。ほとんどが夜に支配されつつあったが、森林と空の繋ぎ目でわずかな緋色が抵抗している。だがその明るさもゆっくりと押し潰され、やがて闇に負けた。


 あの森の向こうはどうなっているのだろう。木々はどこまで続いているのだろう。ふと、ツバキの胸に子供のような想いが生まれる。


 ここに来てもう4年も経つのに、ツバキは授業以外ではヴルツ家の敷地外へ出たことがなかった。だがそれに不満を抱いたことはない。買われた立場なのだから、自由が無くて当然だとすら思っていた。


 ずっと良い子でいようと思っていた。必死に勉強して、言葉も作法も礼儀も全て身につけて、この家の一員として認められようと、その一心で4年間頑張ってきた。それなのに義母には嫌われて、使用人にまでひどいいじめを受けて、一人の人間とすら認められていなかった。セドリックにすら子供を産む家畜のようにしか思われていなかったことが悲しくて、心の中がすっかり空っぽになってしまった。


 そっと窓を開ける。身を乗り出して足を外壁の出っ張った部分に置いて、音が響かないように慎重に窓を閉めた。

 そろりと体の向きを変え、背中を外壁にへばりつかせる。2階から地面を見ると少し肝が冷えたが、覚悟を決めてえいっと飛び降りた。すぐに体にかかる重力を減らし、夜風に服をはためかせながらゆっくりと落下する。

 無事に地面に降り立ち、そのまま裏門の鍵を解いて屋敷の外へと踏み出した。


 目の前に広がるのは真っ暗な森へと続く細道。道は残雪で覆われていたものの、うっすらと人が歩いた跡がある。初めて外に出た感慨よりも恐ろしさが勝ったが、それすら無視できるほどに自暴自棄になっていた。明かりも持たず、獣道のようなその道を歩き出す。

 凶暴な獣がいるかもしれない。道に迷ってもう帰れないかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、深く考えることをしなかった。じくじくと痛む顔を時々押さえながら、何も言わず、何も考えず、月と星に照らされた雪の残る道を一人で突き進んで行く。

 小さな動物が草むらを走る音、風で枝が擦れる音、空に浮かぶ金色の月。自然というものに随分と触れていなかったことを実感しつつ、少し心が安らいだ。


 どれくらい歩いただろうか。俯いていた視界の隅にきらきらとした輝きを見つけ、ツバキは顔を上げた。

 目の前には湖が広がっていた。輝きの正体は星の光が水面に散った姿で、水の揺らめきに合わせて光も踊る。火傷の痛みを忘れ、しばしその光景に見蕩みとれた。

 それほど大きな湖ではない。外周に沿って小道が拓かれていて、ゆっくり歩いても10分あれば一周できるだろう。今までの道から湖の歩道へと歩みを変える。その地面はよく踏み固められていて、普段の人通りをうかがわせた。


 少し進むと、木でできた短い桟橋があった。かなり古いようで、上に乗ってみると木が軋む音がする。慎重に端まで移動し、しゃがんで水の中を覗き込んだ。底が見えそうなほど澄んだ水の表面に、くっきりと自分の顔が浮かぶ。

 火傷を抜きにしても酷い顔をしていた。肌も唇も荒れて、濃いクマが目を窪んだように見せている。自分が美人だなんて自惚れたことはないけど、これはあんまりだと心の中で自嘲した。唇を歪めると火傷が引きつって痛んだ。


 ふと、水面にふわふわと漂うものがあった。驚いて顔を上げると、大きな綿毛がいくつか宙を漂っている。


 それらは仄かに発光しながら、青や赤などそれぞれごく淡い色を抱いていた。僅かだが純粋なマナの気配を感じ、これは綿毛では無いと気づいた頃には、そのふわふわ達はツバキの体にびっしりとくっついていた。

 正体が分からなくて少し怖かったが、なんとなく悪いものではないような気がして、体を縮こまらせたままじっとしていた。やがて風が吹いた途端に空に舞い上がり、湖の上空に達した途端、ふわふわはほどけて小さな繊維のようになり、くるくると回りながら湖に落ちてゆく。


 結局あれが何だったのか、さっぱり分からなかった。少し可笑しくて、あまりに綺麗で、途方もなく現実味が無くて、ツバキは苦しげに頭を垂れた。


 辛い。


 大粒の涙がボロボロと溢れ出す。



 ーー妹に会いたい。自分がいなくなってから、あの子はどうやって過ごしてきたのだろう。おねえちゃんと毎日泣きに泣いて、今頃は流石に涙も枯れたかな。

 ずっと一緒にいたかったのに、もうおんぶして慰めてあげることも、 話をしながら一緒に寝ることも出来ない。あの子はこれからも人の心が足りない両親の元で寂しく暮らしていくのだ。

 悲しくて悔しくて、涙が止められなかった。恥ずかしげもなく大きな声をあげて、妹の名前を呼んだ。まだ甘えたい盛りだったのに。自分が親に甘えられなかった寂しさをあの子には感じて欲しくなかった。それなのに、あんなに急に引き裂かれるなんて思ってもみなかった。悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい!!


 なぜ私だったんだろう。


 あの時、どうして二人に出会ってしまったのだろう。


 桜の元へ帰りたい。それが出来ないなら過去に戻りたい。子供じみた願いを誰かにすがるように祈った。



 しゃくりあげながら膝を抱え、変わらず静謐せいひつな湖畔を見つめる。どんなに祈ったって、こんな甘えた願いを叶えてくれる神様なんていないのだ。


 水面に映る星空の隅から、真っ白なふわふわの塊が一つだけ戻ってきた。他のふわふわと比べて小さくて色がない。

 ツバキの膝の上に降り、吐息のような夜風に揺れている。柔らかそうだな、と思い、手を伸ばしてみようとしたそのときだった。


「邪魔」


 出し抜けに声がして、ツバキは大きく体を震わせた。左右を見回した後、恐る恐る後ろを振り向く。


 桟橋の手前に一人の少年が立っていた。


 背格好から、年は自分と同じくらいのように見えた。顔立ちも髪の色も薄暗くてよく見えないのに、その双眸そうぼうは黒いキャンバスに血を落としたように浮かんでいる。

 真っ赤に輝くその瞳があまりに美しくて、ツバキはほうけた顔で黙りこくってしまった。


「ねえ聞こえてる? そこ邪魔なんだけど」


 少年はまだ幼さの残る低い声で、不愉快そうにそう言った。

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