純鉄は錆びつかない
水品知弦
プロローグ・第1話
「嫌いって言ってごめんなさい。嘘ついてごめんなさい……好きなのに、嘘ついて……」
そう言って泣き縋る身体を抱きしめて、その人は優しい赦しをくれた。
「知ってる」
心に染み付いて離れなかった、大好きなその悪戯っぽい声が冷え切った体を溶かしていく。
「僕も愛してるよ」
血よりも赤い深紅の瞳が、暗い夜を照らす灯火みたいに自分を貫いていた。
この国の人たちは、どうしてこんな綺麗な瞳を持つ人たちを悪魔と言って迫害しているのだろう。ずっとそう思っていたけれど、やっと理由が分かった気がする。
あまりに綺麗だから怖いんだ。
魂だけじゃなくて、心まで奪われてしまうから恐ろしいのだ。
「ねえ」
囁く。
「僕の魔女になって」
その声に、体の奥底を掻き乱される。
だめ、だと思う。だけど、悪魔的に幸せなその誘いを拒めるはずがなかった。僅かな理性の抵抗も虚しく、操られるように頷く。
もうどうなってもいい。この人の傍にいられるなら、魂を囚われたってもいいと思った。
好きになってはいけなかった、大好きな人。
自分を誰よりも愛してくれる、無二の人。
かつて――悪魔と呼ばれていた人。
長い指が涙に濡れた頬を包む。ココア色の髪を揺らしながら、無邪気な顔が迫ってくる。
この人は、自分を縛っていた枷を優しい言葉で解いてくれた。
そして新しい枷をちらつかせて、こっちにおいでと言っている。
今度こそ、二度と解けない、決して錆びつかない純鉄の鎖に幾重にも縛られて、命が尽きるまでこの人に全てを捧げる。
少しだけ怖いけれど――それ以上に、とても幸せなことのように思えてならなかった。
この国に来たのは、もう8年前のことだ。
いつか親に売られるのだろうと察しはついていた。良くて奉公、悪くて遊郭。だけどそれが今日だなんて、それも異邦人に買われるだなんて、10歳の椿はつゆほどにも思っていなかった。
「おねえぢゃんん」
自分を買った二人の異邦人と共に玄関を出ようとした椿に、6歳年下の幼い妹が泣きながら縋りついてきた。抱きしめようと手を伸ばしたそのとき、妹の小さな体は父親によって乱暴に引き離された。苦労を知らないつるりとした拳が妹の脳天に落ちて、幼い声が涙交じりの悲鳴を上げる。
「やめて!」
暴力と虚栄を張ることしか脳がないこの父親は、姉妹のわずかな別れの時間すらも許してくれないのか――そう思うとかっと頭に血が上り、妹を掴む腕に爪を立てて抵抗する。
「いってぇな! 金ならもう受け取ったんだ。とっとと行け!」
妹を押さえていた腕が椿の胸倉を掴む。殴られる――反射的に目を閉じたが、覚悟した衝撃はいつまで経ってもやってこない。恐る恐る目を開けると、父の手首は大きな茶褐色の手によって押さえられていた。
「いや……はは。躾がなってなくてすみませんねえ」
「…………」
父親はしどろもどろになりながら頭一つ分以上大きな異邦人を見上げ、情けなく笑う。
「大丈夫?」
浅黒い肌を持つ男から穏やかに、かつ流暢にそう問われ、椿は小さく頷いた。理性的な瞳に安心感を覚えた自分に戸惑いながら、へたり込んで泣いていた妹の元に歩み寄り、ぼさぼさの髪を撫でた。
「桜、元気でね。危ないことしちゃだめだよ」
「ヤダ!」
ぎゅうと抱き付いてきた妹の熱いくらいの体温が泣きたくなるほど愛おしかった。ずっとこうしていたくなる気持ちに必死に抗って、桜の着物の袖から畳まれた折り鶴を抜き取る。ごっこ遊びでよく使っていたものだった。
「これ、お守りにちょうだい。大きくなったら返しに来るから」
そう言いながら、叶いそうにない約束をしてしまったことへの罪悪感で胸が苦しくなる。なおもしがみついてくる桜を乱暴に振りほどき、勢いよく玄関を飛び出した。
先に外で待っていたもう一人の異邦人――灰色の髪の中年男性の、ビードロみたいな青い瞳に見下ろされる。感情の抜け落ちた無表情がたまらなく恐ろしかった。
「怖がらなくていいよ。おいで」
浅黒い肌の男に手を引かれ、町の郊外へと歩を進める。
怖がらなくていいなんて言われたって、一度生まれた恐怖は消せない。これから自分の身に何が起こるのかを想像して涙が零れた。
先導の歩みが止まる。ふいにしゃがみこんだ灰色の髪の男性から折り畳まれた布を差し出され、恐る恐るそれを受け取った。渡された布を持て余す椿に手を添え、布を頬に当てて涙を吸わせる。
「…………」
その人は、何かぼそりと異国語を呟いたようだった。無表情の中にほんのわずかな同情がよぎったような気がした。
「綺麗な町だ」
浅黒い肌の人が言う。灰色の髪の人と入れ替わるように椿の前にしゃがみ、子供を諭すような口調でゆっくりと話し始めた。
「ツバキ。君はこれからとても遠いところに行く。とても……途方もなく遠い場所だ。だから少しだけ眠っていてくれるかな」
びくりと肩を震わす。不穏な予感を抱いて、手に握っていた折り鶴を胸元に隠す。
「……私、遠くても我慢できます。騒がないし、逃げたりもしません」
「大丈夫。怖くないから」
「いや……」
顔に向かって腕が伸びる。咄嗟に逃げようとしてももう遅かった。
後頭部を掴まれた瞬間、幕が降りたように意識を失った。
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