第47話 青の魔女の統べる世界

春の花が咲き乱れる広大な王宮の庭園の一角で、7歳くらいの少女が泣きじゃくっていた。


ビクトールは突然目に飛び込んで来た光景を見てぎょっとした。何だこれは? 彼が想像していたものと違う。彼はアレクサンドラに会いに来たはずだった。しかしここにいるのは幼い頃のリリアーナではないか。一瞬薬の調合を間違えたのかと思った。


(ああ……そういうことか。リリアーナの心象風景は今でもこうなのか)


彼自身この薬の効能を理解しきれてないところがあった。何せ殆ど誰も作ったことがない薬なのだから前例がない。リリアーナの思念に入るとはどういう意味なのか、手探りで理解しながら動く必要があった。これが意味するところは、リリアーナという人間の核は今でも庭園の迷路で泣きじゃくる子供のままで、それを何とか隠そうと痛々しいほどの努力と虚勢を重ねたのが今の姿ということなのだ。少なくとも彼はそう解釈した。


(それなら解放してやろう。あの子を庭園の迷路から)


ビクトールは幼いリリアーナに声をかけようとしたが、この少女はまだ自分を知らないということに気付いた。知らない人に話しかけられたら却って怯えてしまうだろう。そこで、代わりに懐から杖を取り出し一匹の蝶を出してやった。


「何これ? きれい!」


それまで顔を埋めて泣きじゃくっていた少女は上を向いてひらひら蝶に飛ぶ蝶に目を奪われた。そして、蝶に引き寄せられるように後を追って行った。このまま行けば迷路から出られるだろう。少女の姿が見えなくなるまで見送ったビクトールは満足そうに一息ついた。


すると視界が開けて別の人物の姿を認めた。金髪の豊かな髪をたなびかせ、ゆったりと安楽椅子でくつろぐ女性。ビクトールはこんな美しい女性を見たことがなかった。ハニーブロンドの髪は優雅に波打ち、紺碧の瞳は高価な宝石よりも神々しい輝きを放っている。彼女に比べればリリアーナはまだ親しみやすさがあるが、目の前の女性は余りに完璧すぎて声をかけるのも恐れ多いような近づき難さを持っていた。間違いない。彼女がアレクサンドラ・オズワルドだ。リリアーナの中に彼女は「生きている」のだ。


(とうとう見つけた。彼女が青の魔女だったんだ)


ビクトールはごくりと唾をのみこんだ。するとアレクサンドラはビクトールに目を向け、全く驚いた様子を見せずにこやかに微笑んだ。


「ありがとう、そしておめでとう。こんなに早く迎えに来てくれるとは思わなかった」


**********


しばらく二人は無言で対峙した。緊張を隠せないビクトールと、柔和な笑みを浮かべるアレクサンドラ。先に口を開いたのはアレクサンドラの方だった。


「禁書庫の書置きを見つけてくれた? まさか本当にあれを発見する人がいるとは思わなかったわ。どうやって答えにたどりついたの? ねえ教えて」


「それより先に聞きたいことがある。どうしてこんな面倒なことをした?」


喜びを隠せず無邪気にはしゃぐアレクサンドラに対し、ビクトールは警戒心を解かず厳しい表情で接した。


「リリアーナのためよ。あの子を一人にしておくのは不安だったから。だから私があの子の中に入り込んだ」


「嘘だ。それよりも魔法使いとしての野望が先にあったんじゃないか? 肉体を捨てる代わりに娘の中で生き延びる。そして娘が王太子妃になった時に娘の体を乗っ取って自分がなり替わる」


それを聞いたアレクサンドラは声を上げて笑い出した。


「やあねえ。この術は人格までは乗っ取らないのよ。リリアーナは自分を失うわけじゃない。私の強大な魔力をあの子に移すようなものなの」


「そんな簡単な話じゃない。あんたは三つの魔法をかけた。王太子に一つ、リリアーナに二つ。リリアーナにかけた魔法は守護魔法だけじゃない。自分の魔力を娘に与えると同時に、人格の一部を移す、つまり彼女の中で自分が生き続けるという、未だかつて誰もやったことのない術だ。完全な乗っ取りではなくても、あんたの意思を一部介在することはできる、それもリリアーナには気づかれずに。現に、王太子が彼女に杖を向けた時、力の一部を使っただろう。本来は、二人が結婚しなければ術は開放されない条件だが、相手が王太子だったから例外的に可能だったんだ。無事二人が結婚すれば、作戦は完全に成功するはずだった。娘を通じて世界を統べる天才魔術師の誕生だ」


ビクトールは黒髪の隙間から射抜くような視線をアレクサンドラに投げかけた。一瞬でも気を抜くとあっという間に取って食われそうな圧を感じる。アレクサンドラの方は、睨まれると却って嬉しそうに顔をほころばせた。


「すごい。そこまで到達できたなんてあなた本当に優秀なのね。でもそれじゃまるで私が悪人みたいじゃない。そんな風に思われるなんて心外だわ。娘を愛するからこその行動よ。リリアーナは不憫な子だから」


アレクサンドラはそう言うと、微かに眉をひそめた。


「あの子は本当にかわいそうなの。魔力以外は申し分ないのに。認められようと必死に努力していたのを知ってるわ。でもプライドが高いから逆に誤解ばかり与えてしまって。王太子もあの子のこと全く理解しようとしなかった。魔力だけが全てじゃないと言ったのは最初の一回だけ。それからは周りに流されてだんだんあの子を邪険に扱うようになった。それなら私があの子に唯一欠けてるものを授けようと思ったの。親の愛よ」


それを聞いたビクトールは吐きそうな顔になって言い返した。


「どうだか。愛と自己犠牲だけであの書置きを残すとは思えない。魔法使いとして前人未到の高みに到達したいという野心と我欲しか感じ取れなかった」


「それが分かるのは、あなたも同じ思いをしたからでしょう?」


ここでアレクサンドラの笑みが深くなった。


「リリアーナの中からあなたのことずっと見ていたわ。スラム街の貧民に強大な魔力を与えるなんて神様も遊びが過ぎるわね。この世界では生きづらさしかなかったんじゃない? あなたがここにいるということは、私の思考をトレースしてきたはずよ。そこでどう思った? さっき言った野心と我欲があなたの中にも芽生えなかった? ただの聖人君子ならここまでたどり着けないはず」


ビクトールは言葉に詰まったままアレクサンドラを睨みつけた。彼女の甘い声が全身に絡みつくようだ。この態度で答えは分かったようなものだった。


「私は肉体から解放されたから今は好きなことが言える。生前より欲望に忠実になれるの。あなたも私と一緒にここに留まらない? そうすればリリアーナとずっと一緒にいられるわよ? 現実の世界では最下層の平民と公爵令嬢が結ばれるなんてあり得ないけど」


「ふざけるな! 青の魔女め!」


ビクトールは雑念を振り払うかのように声を振り絞って拒絶した。


「そんなことのために来たんじゃない。王太子の呪いを解いて欲しい。そしてリリアーナを解放してくれ。このままでは家の監視下に置かれたまま自由を手にできない。それを言うためにここまで来た」


「王太子? ああ、あの坊やね。あんなのどうでもいいじゃない」


アレクサンドラは急に冷淡な態度になって椅子に深く座り込んだ。


「娘を捨てた男が何だって? ずっと寝てればいいのよ。国王だって呪いを解く方法を知ってるはずよ。リリアーナと結婚させればいいだけ。分かってるのにそれをしないんだから自業自得以外の何物でもないわ」


「リリアーナにとっても酷だろう。もう王太子から心が離れてるんだから」


「でも私はそういう風に未来を設計したの。運命に逆らったから呪いが発動したのよ」


「やっぱりあんた変だ……未来を設計するなんて……神でもないのに」


ビクトールは呟くように言ったが、アレクサンドラは無視して別のことを言い出した。


「そうだ。あなた私がいつ王太子に呪いをかけたか知ってる?」


「おそらく生まれたばかりの王太子に加護を与えた時だろう。あの時既に自分の娘と結婚させるつもりだったんだ。加護を与える振りをして、娘と結婚しなければ呪いを発動する術を密かにかけた」


「すごーい! あなた天才ね! ますます欲しくなっちゃったわ」


アレクサンドラは少女のようにはしゃぎながら言った。


「じゃ、もう一つ。リリアーナにかけた守護魔法のことはいつ知ったの? あの子は知らないはずだけど」


「前にリリアーナの記憶を覗かせてもらった時に何があったかは把握した。本来は守護魔法と引き換えに術者の命もこと切れるはずだが、あんたはリリアーナの中に入り込むことに成功した。これが死の真相だ。本人は記憶を抜かれて覚えてないらしいが」


「経皮吸収されるあの薬使ったの? あなたたちもうそんな仲なのね。あの子の頭の中身が全て分かるわけじゃないからそこまでとは知らなかった。裸を見られるより恥ずかしかったでしょうね」


アレクサンドラはそう言うと、コロコロと愉快そうに笑った。


「元々守護魔法はそれなりの魔力がないと発動しないだろう? なぜそれを魔力の少ないリリアーナにかけた? あんたの守護魔法はあんたの魔力でしか正常に発動しないはずだけど、二人が結婚して魔力が開放されれば問題ないと思った?」


「まあそんなとこね。それに、リリアーナの思念に入ってしまえば誰にも邪魔されないと思ったの。まさか危険を顧みずここまで来る人間が本当に現れるとは思わなかったわ。王太子と結婚すれば私が顕現する仕組みになっていてリリアーナは強大な魔力を手にすることになる。もう誰にも欠陥品なんて言わせない。完璧な守護魔法を手にしたこの国の支配者のできあがり。そのはずだったんだけど」


「でもそうはならなかった。王太子がリリアーナを裏切ったから。このままでいいのか? せっかく念入りに準備をしたのに結局王太子が眠りこけただけ。命を懸けてまで準備した魔法は不発に終わった」


「あら、まだ終わりじゃないわ。あなたがいるじゃないの。わざわざ私を追いかけてくれたあなたが」


アレクサンドラの宝石のような青の瞳に射抜かれ、ビクトールは思わず身がすくんだ。金縛りにあったかのように動けなくなる。これは魔法ではない、ただひたすらアレクサンドラが怖いだけだ。ビクトールは自分にそう言い聞かせた。


「ここまで来てくれた天才魔術師さん。世界の誰もが認めなくても私が認めるわ。人間ごときにあなたの凄さは理解できない。私一人では覆せない理もあなたが協力してくれれば可能になる、力を顕現できるはずだわ。肉体は抹消されても、私と融合することでリリアーナを通して世界を統べることができるのよ」


それを聞いたビクトールは吐きたい気持ちになったが、冷静さを装ってアレクサンドラに向き合った。


「そんなことにはならない。俺がここであんたを仕留める。そのために来たんだから」


ビクトールは白い顔をしたまま、懐から杖を取り出した。


「リリアーナの中のあんたを葬って呪いの連鎖を断ち切る。そうでないと王太子はともかく彼女が本当の意味で自由になれない。頼む。もう解放してやってくれ」


「そんなことが可能だと思ってるの? しかも相手はこの私よ? それに、私に手を掛けたらあなたの存在も消えるの。知ってるでしょ、この魔法薬の効能。リリアーナの思念に干渉した者は、その代償として現世の存在を抹消され、誰の記憶にも残らなくなる。あなたは最初から存在しない前提で世界は塗り替えられる。だからこの魔法は禁断扱いになっているのよ」


そう言うと、アレクサンドラは安楽椅子から立ち上がってビクトールをじっと見据えた。彼女の豊かな金髪がヘビのようにずるずると伸びて、ビクトールの身体に巻き付く。そのまま彼の身体は宙に浮き、おびただしい量の髪の毛に締め付けられ息もできなくなった。


「あんたのレシピ通りに作ると思ったか? そんな芸のないことするわけじゃないか。レシピを改良するのは得意なんだ」


「じゃあやってみれば? いくらあなたでも可能かしら?」


骨がきしみ、痛みと圧迫で気が遠くなりかけながら、無理やり笑みを作ってビクトールは反論したが、アレクサンドラはそんな彼の様子が面白いらしく余裕の表情を浮かべながら煽って来た。ビクトールは思わずかっとなったが、言われた通り確かに勝算があるわけではない。何せ試用すらできない薬なのだ。一発勝負で決めなければいけないなんていくらビクトールでも不可能に近い。彼女はどうやって正しいレシピにたどり着いたのだろう。


お互い睨みあったまま膠着状態が続いていたが、別の方向から余りにも意外な声が聞こえてきた。


「ビクトール! お母様! これは一体どういうことなの!?」


その一言でビクトールの拘束が解かれ、彼はドスンと地面に落とされた。後ろを振り返るとリリアーナがそこに立っていた。理論上は彼女の思念の中に本人が現れるはずはないのに。ビクトールはすっかり驚いて、身体の痛みも忘れるほど動揺した。


「どうやってここに来た?」


「あなた蝶を飛ばしてくれたじゃないの。ビクトールが出した蝶ってすぐ分かったわ。それを追ったらここに着いたのよ。それより、さっき変なこと言ってなかった?」

リリアーナはビクトールに駆け寄って、彼が起きるのに手を貸しながら答えた。あの小さい少女が成長してここに来たということだろうか。ビクトールは目の前の現実を整理しようと、急いで頭を巡らせた。


「研究者の悪い癖ね。まずは目の前の現実に対処しなさい。考えることなら後でもできるんだから」


アレクサンドラは、ビクトールの脳内を覗いたかのようなことを言った。


「お母様これはどういうことですか? どうか教えてください」


「やっぱりリリアーナに本当のことを言わなかったのね。そうでなければこんな恐ろしいこと認めてくれるわけないものね」


アレクサンドラはビクトールからリリアーナに視線を移し、この上なく慈愛に満ちた笑みを浮かべながら言った。


「久しぶり、リリアーナ。感動の親子の再会じゃないの。どうしてもっと喜んでくれないの?」

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