「深海」#なくさずの詩より

 漂うのが好きだった

 そのまま水に任せて浮かんだり沈んだりするのが好きだった。すべてを任せられるというのは素晴らしいことだ。何も考えずにすんだ。そうしたらイエスマンになって碌でもない人と結婚して、稼ぐだけの道具。僕は深海へと堕ちていく。


 どうして、そうなったの?

 海月は僕に言ってきた。

 いやあ、どうしてだろう。

 後部座席の妻と子ども。

 一見易しい世界なのに、どうもダメだね。怖いね、これは。

 こいつらは優しい世界だって思っているんだろうか。

 ATMだと思っているのだろうか。

 もうすぐ保育園で、子どもは可愛いし、妻も悪くなくて。

 これ以上の我が儘はどこにあるんだろう。

 僕はただむなしかった。何もないと知った僕は空しかった。

 ある日、上司に連れられてキャバクラに行った。

 今まで断っていたけど、昇進につながるから嫌々いったのだが、最悪だった。

 何ができる、とか、何をしてる、とか。

 僕は機械みたいに、していることをツラツラと述べて、最後は、

「大変なのねえ」

 と締めくくられて、なんだこの女はと初めて思った。

 僕は大変だと思うには軽すぎる音なんだ。

 なのに、大変だと言われて、ねぎらわれて、僕は、この女が死なないかなと初めて感情が生まれ、テーブルにあるボトルで女を殴った。

 すぐに警察が来て、僕は逮捕され、

「ただ、ムカついたんです」とだけ言っておいた。

 妻は泣くし上司は怒るし世間からはキャバクラに行くような人間に、と一時期だけもてはやされて、すぐに消えていった。

 その後は刑務所に入って、やることなすこと、ぼーっとしてたら、ある人が声をかけてくる。

「あんたあ、なにもないねえ」

「そうなんですよ」

 なんとなく答えが、すらりと出て、僕は吃驚した。

 けど、その人は「大丈夫かい」とか気にかけてくれる。

 不思議に思っていると「お前はここにいる意味がないけど、世間にいる意味も見つけられずに生きちまうから、ここで何か見つけな」と言われた。

 だから、なんでもした内職も運動も礼儀作法も、そしたら、そしたら、僕は本好きなんだと気づいた。

 そういえば学生時代は本ばかり読んでたなあ。

「やっと見つかったかい」

「ええ、ありがとうございます」

 こんなで僕は読むことから書くことにした。

 題名は『深海』

 海月が漂いながら上に心を惹かれていく話だ。

 僕の話だったが、まあ、フィクションにしておいた。

 刑務所で書き終わると同時に、僕の刑期は終わっていたので、そのまま出版社に持っていき、犯罪者が書いたという触れ込みで本をだした。そんなに売れなかったけど、あの人がいなかったら一生、僕は深海に漂う海月だっただろう。

 さて、あの人は、と面会に行ったら、五分程度しか話ができないと言われた。

 彼は無期懲役なもので、誰かに何かを言うのは限られていたから。

 僕と彼は、その五分を無言で過ごした。

 終わりの十秒ぐらいになったら、その人は笑い立ち上がり背を向けて扉の中に消えていく。

 彼は深海より上にいけない人だった。

 そして僕は、どうしていいかわからなくて、彼のことを調べに調べて本にした。これは結構、売れたので覚えている。

 数年後、彼が死んだと話がきた。

 やっと深海から上れたのだと、僕は思う。

 それがよかったか、わるかったか、わからないけれど。

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