第14話 3日目 8時40分 明朝の星とひとつでも出来ることを
きっと昼に死ぬのだろうと、ビルの上に輝く明朝の星をみて思う。
水曜日。三日目の朝がやってくる。
ふわりと香る小麦の匂いに朝を感じる。でも私はきっと朝死なない。
よく煮た出汁の匂いがこもる夕方でもなく、油がたくさん乗ったラーメンを食べたような夜でもなく。
きっとお天道様が空に燦然と輝く昼間に死んでいく。
七日間と木彫りの人形は言った。
目覚めた日は月曜日だった。
月火水木金土日。七日目は日曜日。弁護士事務所から出ようと天気予報を見た時、11時半くらいだった気がする。それから雨の中を歩いて30分くらい……12時くらいだろうなと思う。約束をしたわけでもない、そう言われたわけでもない、なんとなく昼に死ぬのだと思う。
初日こそ疲れで眠れたが、残り時間を考えているのか、眠っても起きてしまう。眠ることの大切さは知っているけど、数日後に永遠に眠るのだから、今必要ないのではと思ってしまう。きっと優太朗も起きている。そしてこの明朝の星を見ている。
東京タワーに行き帰ってきたら、お父さんの様子がおかしかった。どうやら菱沼さんは結菜のお父さんにもコトの顛末を話したようだ。
お父さんは「自分が苦しくなるような嘘ばかりいうな、頼むからもっと自分のことを大切にしてくれ」と私をまっすぐに見て言った。
人の噂は、最初に流れたものが永遠に残る。仁さんが家で亡くなった時、警察が来て現場検証が行われたのもあり、近所の人たちに「自殺」という噂がたった。
私たちは仁さんの葬儀や静子さんの対応に忙しく、気がついたら仁さんの死亡理由は自殺に決まっていて「どんな悩みがあったんですかね、あんなに明るかったのに」と的外れなことばかり言われた。そのたびに否定したが、最後まで自殺という話は消えなかった。
結菜も自分がしたことと、言ったことへの責任を取らされるだろう。それはたぶん、永遠に消えない。
正解なのか、不正解なのか分からない。それでも瑞樹と結菜がずっと一緒に居られたらよいのにと思うのは、おばさんのお節介かしらね。
私は優太朗と買ったおそろいの東京タワーキティーちゃんを撫でた。
そして明朝の星の下、少しでも眠ろうとベッドに横になると、ガタガタッと家の鍵を開ける音がした。
どうやらお母さんが帰ってきたようだ。少し信じられない……今は夜というより朝だ。ここまで働かせている会社は、さすがに危ないのではないだろうか。
家に帰ってきてから郵便物を見て、お母さんが働いている社会福祉法人が分かった。
児童養護施設と、乳児院、ショートステイなどを受け入れている施設で『核家族化が進み、地域の繋がりが薄くなっている今こそ、私たちは繋がりを求めます』と寮長の女性と男性が写真に写っていた。どうやら夫婦で運営している施設のようだ。そこの副寮長のところにお母さんが載っていた。
理念はすてきだと思うけど、いくらなんでも働き過ぎなのではと思いつつ、私はうつらうつらとほんの少しの睡眠を取った。
「おはよう結菜」
「おはよう、瑞樹。」
私たちは自転車置き場で集まり、一緒に学校に向かうことにした。昨日涼花が連れて行ってくれたので、もう行き方は分かる。
少しだけ冷たい風が首筋を抜けて気持ちが良い。そろそろ上着が必要な気温だ。
赤信号で自転車を止めて瑞樹を見る。
「昨日大丈夫だった?」
「ああ……予想以上に父さんが意気消沈って感じで、何か言われるっていうより、とにかく検査をしようって感じだった。母さんは寝込んじゃって朝から顔見てない。でも父さん曰く『大丈夫だ、俺が見てるから』って。その目だけは、わりとガチで。やっぱあの家に入った時から思ってたけど、両親はすげー愛し合ってるんだよな。じいさんは夜中に来て少し話したんだけど、変わった人だった」
「変わってるって、どんな風に?」
「わりと重い話をしてるのに、まるで動じないんだ。ニコニコ微笑んでる。でもその目の奥は一ミリも動かない。全く本心が読めないな」
「さすがたくさんの人を育てた人ね」
信号が青になり、ゆっくりと走り出す。
たくさんの人を育てているような人なら、色んなトラブルを見てきているのだろう。その対処で毎回心を揺らすわけにはいかない。でも自分の孫の話となると、別なような気もするけれど……。
瑞樹は続ける。
「父さんは『検査を待って、瑞樹に決めさせます』って言ってくれてた」
「瑞樹に決めさせる……って言ってくれてるだけで、ありがたいわね」
「そうだな。じいさんは話せば分かってくれそうな雰囲気はあったけど……かなり出来る経営者みたいな雰囲気で、こっちの言葉が届いてるのか、よく分からない人だった。ずっと笑顔で、それが逆に怖いんだよ。母さんは部屋の隅で小さくなって、ずっと謝ってて……見てて辛かったな」
病院で一言も発せず、ただ瑞樹の後ろに立っていた身体が細く顔色が悪い女の人がいた。きっとあの人がお母さんだろう。
視点も定まらず、あんなことがあったとはいえ……私と全く目を合わさず、風にゆれる凧のようにふらふらと歩いていた。
瑞樹の怪我とお母さんの身体の弱さは全く関係ないけれど、何か問題があった時にすぐに話して貰える関係性を作れなかった、辛い思いをさせてしまった。そんな風に自分を責めてしまうのだろう。
母親とはそういうものだ。子どもに起きた不幸は一緒に背負いこんでしまう。
私は自転車を運転しながら、
「私がおじいさんと話したほうが良い気がする。土曜日に私が料理を作るから、おじいさんと食事できないかな?」
「ふたりで?」
「うん。関係している人たちが瑞樹のおじいさんと冷静に話すのは難しそう。だったら無関係で大人の私が一度話してみるのはどうかしら。結菜が夏にあったことを謝りたいと言っている……と言えば、容易に叶いそう」
「そうだな。言っておくよ。でも難しそうな人だけど……大丈夫か?」
「私が興味あるだけ。それに最後に全力で料理する言い訳にもなるし」
「そうか。……いいな。俺も最後に遙の全力料理が食べたい」
「優太朗にも何か作りますよ」
「そうか!」
優太朗は笑顔になった。どうせなら豪華にと思うけれど、結菜が作ったといって怪しまれないレベルにすべきだろう。
でもそれじゃ遊べないし……どうしようかしら。
自転車を止めて学校の中に入っていくと、職員室前で声をかけられた。
「宮永さん、おはよう」
「佐藤先生、おはようございます」
担任の佐藤先生だ。どうやら事故のあとに病院に何度も足を運んでくれたとお父さんから聞いた。
三十代後半の体育会系の男性教諭で、陸上部の顧問をしていると知った。佐藤先生は、
「体調は大丈夫か?」
「はい。平気です。お見舞い、ありがとうございました」
「お、おお。なんか他の先生たちも噂してるけど、宮永頭ぶってすげー真面目になったな。この真面目になった宮永に期待して言うけど、お前明盛受けるなら、英語の短期講習入らないとマジできついぞ。なんだあの小テスト、やる気あんのか」
「あ……えっと、なるほど……」
明盛大学……つまり瑞樹と同じところに結菜は進路希望を出しているということだ。
結菜になるために勉強道具一式を見たけれど、結菜は本当に勉強に興味がないらしく、真面目にやっているように見えない。
それでも瑞樹と一緒にいたくて志望しているということだろうか。
佐藤先生は瑞樹をみて、
「瑞樹は推薦だし、監督と話も済んでるから決まったようなものだけど、本当に瑞樹と一緒に入りたいなら、短期講習入れよ。今のままじゃ無理すぎる」
「……はい。わかりました」
「宮永はよく分からんガッツだけはあるから、本気出せば健康科学科ならいけると思う。英語だ英語。ちょっとマジで来いよ。瑞樹と一緒に大学行くんだろ!」
そういって佐藤先生は結菜に微笑みかけた。これほど勉強していない子に向かって「ガッツがある」と言ってくれる教師は珍しいと思う。
高三の九月から焦ってなんとかなるものなのかしら。杏樹は大学に行ったけど、高校二年生の頭からずっと勉強していた気がする。
一時間目の授業が丁度英語だったのでノートを開いたら、世界史よりは勉強しているように見えた。
私は授業を受けてノートを書き写しながら、頑張れ受験生と結菜の丸い文字を撫でた。
私は、受験というものを正面から取り組んだことが無いので、その苦労が具体的には分からず、ただ「頑張れ」としか言えない。
私の両親は、私が幼い頃に離婚した。
毎日お父さんとお母さんがケンカをしていたことしか覚えていない。
正確に言えば、ふたりが怒鳴り合う声が記憶の彼方にあるだけだ。
そして母方の祖母に預けられた。お母さんは私に言った。「生活が落ち着いたら、必ず迎えにくるからね。待っててね」私はその言葉に深く頷いた。
絶対にお母さんが迎えにきてくれる。そう信じていたけれど、待てど暮らせど、お母さんは来てくれなかった。毎日毎日ポストを覗いてお母さんから手紙が来ていないか待った。学校に居たら来てくれるのでは。公園にいたらお母さんが私を見つけられないから帰ろう。ずっとずっとお母さんを待っていた。何をしていても、お母さんが迎えにきてくれるのでは。そう期待してずっと待っていた。
でも来なかった。
待って待って、毎日待って。
そのまま高校生になり、育ててくれた祖母も亡くなった。
もう諦めていたはずなのに、それでもお葬式にはお母さんが来るんじゃ無いかと思い、心のどこかで待っていた。
祖母が亡くなったのに、私は心の奥どこかで、お母さんが来てくれるんじゃないかと期待して待っていた。
さすがに来るだろう、会えるだろう。
でも来なかった。
だから私は大学に行くなんて選択肢はまったく無かった。
生きる。それだけのために就職して配属された東京で小さなアパートを借りてただ働いていた。
したいことや夢、希望学科など考えたこともない。ただ生きていた。
でもそれほど不幸だと思ったことはない。料理が好きで、その仕事をしていたから。
それだけがきっと神さまが私にくれた、たったひとつの光だった。
ぼんやりと過去のことを思い出していると、四時間授業が終わり、涼花が飛びついてきた。
「やっぴーー! さてさて文化祭の準備を始めましょうか~!」
今日は四時間授業で、五、六時間目は文化祭の準備だ。
私はスマホを取りだして、画面を見せた。
「メニュー考えてきたから話し合いましょう」
「えー?! 結菜メニューなんて考えられるの?!」
「スマホで調べただけよ。そんなの誰だってできるでしょう?」
私はそう言って笑った。
どうやらホラースイーツのお店を出す所までは決めたようだが、何を作るのか考えていないようだった。
だから眠れない夜にホラースイーツのメニューを色々考えていた。私が通っていた商業高校に文化祭で食べ物を出すという文化はなく、ただ演劇や歌を歌っていた気がする。クラスの出し物自体が初体験だ。ドラマや映画のなかでは見たことがあったけど……。だから嬉しくて色々考えてしまった。
私は目玉クッキーのページを開いた。
「これは見かけは気持ちが悪いけど、中は普通のクッキーだから簡単に作れると思う」
「ええええ……キモい!! すごい、こんなの作れるの? 目の部分は?」
「色素を使うの。無害だし簡単よ」
「え?! この血管は?!」
「これもそう。ペンで描くんだけど、それほど難しくないわ」
「え~~?! キモくて可愛い~!」
そう言って涼花は目を輝かせた。
私が見せたレシピはバターとお砂糖を使った単純なアイスボックスクッキーで、真ん中に水色、そして黒目があり、白目の部分にアイシングで血管を描いたものだ。
アイシングはそれなりに大変だが、描くのは下手なほうが味がでるようなものだ。
席の周りに集まっていたクラスメイトたちは「クッキーくらいなら作れるよ!」と盛り上がってきた。
私はブックマークしておいた目玉ゼリーのページも開き、
「ゼリーは単価が安くて良いかなと思ったんだけど、日持ちしないのよね」
その声に孝太が手を叩いて笑った。
「思い出した! 涼花さ、ゼリー作ったんだけど大量に作りすぎて一週間以上冷蔵庫入れててさ、最後のやつ俺にも食わせたんだけど、食った後腹痛くて寝込んだもん」
それを聞いて涼花は、
「そうだった。なんか変な水が浮いてきたから孝太にあげたんだよね~~」
「お前、変な水が浮いてる食い物、俺に食わすなよ!!」
「まあまあ。いつも便秘って言ってるから、良かったじゃん??」
その言葉に「孝太いつも便秘なの?!」とクラスメイトたちが爆笑する。
孝太は涼花を捕まえて後ろから羽交い締めにして大騒ぎしている。
手作りゼリーは本当に日持ちしなくて、次の日には食べたほうがいい。
私は孝太に捕まえられている涼花を見て、
「金曜日しか家庭科室使えないから、金曜に作って月曜に出すことになるのよ。それだとちょっと不安だわ」
「そうだねー。たしかに危ないかも」
「クッキーなら完全乾燥させれば一週間は余裕よ」
「机の上にたくさん並べたらキモカワイイかも!!」
涼花やクラスメイトたちは、レシピのサイトを見ながら去年クッキーを売ったクラスがどれくら売れたのかなど調べはじめた。
今年は食べ物を出す店が少なめで、結構売れるのではないかと他のクラスメイトたちが輪に加わってくる。
「よっし、看板いっちゃおっかー!」
大きな声がして入り口の方を見ると、男子生徒たちが巨大な板を持って入ってきた。他の生徒たちが机を片付けて空間を空ける。そこにビニールシートを広げて板を置いた。男子生徒のひとりが涼花に向かって叫ぶ。
「なあ、ホラースイーツの店、でいいの?」
「うん、それでよろしく!」
「オケオケ!!」
何人かの男子生徒たちはペンキを借りてきて、大騒ぎしながら板を塗り始めた。そこに瑞樹と孝太も参加して楽しそうにはしゃいでいる。
私たちは10才年が離れているから、一緒に学生生活を送ったことなどない。こんな姿を見られるのは新鮮で嬉しい。
それに私は学校が終わったらすぐに帰って家の手伝いをしていた。それに目立つタイプじゃなかったから、こんな風にクラスの話し合いに参加したこともない。
死んだのに新しいことを経験できるなんて皮肉ね。
準備だけはしておきましょう。
それに料理のことを考えるのは何より心が安まる。
私は買い出しリストを涼花と書きながら思った。
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