第3話
こうして、
つまらないベッド生活から解放された彼の勢いは、まさしく長い間監禁された野生動物が檻から解き放たれたかのよう。
「うひょおおおおお! カモンベイビイイィィィイイ!」
そのため、『廊下中をフルスピードで漕ぎ回る』という男子ならではの憧れはあっさりと叶えることができたというわけだ。
「きぃぃぃんもチィィィイイイイイイイイ」
何の臆面もなく、ここまで常識外れな行動をできる田舎者は、恐らく彼一人だけだろう。何より、この行為自体が『普通に迷惑』だという認識が持っていないから困ったものだ。
「うわっ。ってなんだ。またあの変な……」
周囲の人々は彼の勢いに驚きながらも、彼だと分かった途端、それぞれの仕事や用事に戻っていった。大半の医療関係者や患者は彼を避けるようにしていたのは、どうせ注意しても聞かないと知っていたからだ。
ふと、ルート上に一人の少女が現れた。
「――――え」
亮の突進に驚きのあまりに、両眼をまん丸くしてその場で硬直して、身動きの一つも取れなくなってしまったようだ。
「まずいッ!」
彼は全力でブレーキをかけて、辛うじて急停止できたものの、逆にその反動で車椅子から勢いよく飛び出した。
「ばどぇぶ」
奇声と共に不格好なダブルピースで少女の前でへたり込んだ彼に、彼女はどう声を掛けたらいいか分からず、三秒の間が経過。
やがて相手が勇気を振り絞って、突っ伏している亮に恐る恐る声を掛ける。
「……あ、あの。だ、大丈夫ですか」
「ご覧の通り、私は両足を骨折していて、一人では起き上がれない身ではありますが大丈夫! モォーマンタイ!」
「……その状態でまだ大丈夫と言える貴方もすごいわね。この子を起こして、
「承知致しました、お嬢様」とメイドは長い黒髪を翻して主人の指示に従う。
二人は少し苦戦したものの、なんとか彼を車椅子に座らせることに成功した。
「すみません、お嬢さん方。お怪我はありま――」
少女の顔を見上げたその瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃が身体中を駆け巡った。見るものを惹きつけるような碧い双眸の前に、彼は言葉を失ったのだ。
窓から差し込む陽光が丁度少女の白髪に当たり、より一層輝いて見えた。
髪も肌も唇も、何もかもが薄い。触れてしまえば、はらはらと散ってしまいそうな、そんな危うさも兼ね備えて。
けれど、その端正な顔に感情らしいものが見当たらず、硬質に引き締まっている。まるで、笑顔をとうの昔に忘れてしまったかのように。
せっかくの美貌なのに勿体ない、と彼は思った。
「お嬢様、少し急いだ方が」
「……そうね。ごめんなさい」
彼女の声で亮はハッとした。
「おっと、私としたことが惚けてしまうなんて! お怪我はありませんか、
しかし、彼の声は空虚に響くだけで、少女と従者は既にその場からいなくなっていた。
「おふ、この私をスルーするなんて酷イ!」
無視されることに余程衝撃的だったみたいに、亮は項垂れた。が、すぐに顔を上げた。赤瞳の奥に闘志の火を燃やしながら、得意気な笑顔を広げて力いっぱいに言う。
「でも……だからこそ、燃えル!」
「すいませんナースさん、すんっごい美少女らしい美少女を見かけませんでしたか?」
「はい?」
「ああ、どうか気を悪くしないでください。貴女も大変美しい……ですが、私は貴女よりも美しい美少女を探しています!」
「とりあえず、ぶん殴っていいのかしら」
「なんでェ?!」
大袈裟に驚く亮を見て、ショートカットの看護師は内心でため息一つ。
以前から亮の噂を耳にしていたけれど、実際に実物を見るのも声を聞くのも今回が初めて。
ましてや、今日本棟を訪ねるのは書類を提出するため。職場に戻っている最中に亮に話しかけられたのが災難だった。
今すぐ彼と別れて仕事に戻りたいのは山々なんだけど、だからと言って「はいさよなら」と一蹴するわけにもいかない。
渋々彼の人探しに付き合うことになった看護師は、相手の外見を尋ねると、亮は勝ち誇った顔でこう答える。
「それが……インパクトが強すぎて全く覚えてません! キラーン☆」
――あ、アホだこの子。
失礼な感想が一瞬彼女の脳裏をかすめたが、それでも問答を続ける。
「じゃあ、その相手に何か、これといった特徴はない?」
「あ、そうか! つまり、私が探し求めている人物は……腹話術師なんですネ!」
「……一体、どういう思考経路でそうなったの」
「だって、相手は二つの声を使い分けて会話をしたんだぞ。これをやるには非常に高度な技術が求められる。
かつて私が腹話術を鍛えようとして、逆に腹筋の方を鍛えてしまったからネ! ハハハ、どうです? 触ってみませんか?」
突如の誘いに、看護師は手振りで「遠慮しておく」と断った。亮はすかさずに「初触りは無料ですよ」とアピールしたが、彼女は「結構です」と語気を強めてキッパリと断る。
――噂通りの変な患者ね。
亮と少し言葉を交わしただけで、頭が痛くなるというのが何よりの証拠だ。
それに、彼の発言から考えると、当時現場にもう一人がいたの方が自然のはずなのに、それを指摘するのも面倒臭くなって敢えて省略した。
「もっと何かこう、相手に関するヒントはない? 例えばこう、会話で何か気になることを言ったとか」
「あ、『お嬢様』という単語を聞いた! これ、何か重大なヒントになる的ななにかじゃナイ!?」
少し俯いて『お嬢様』を繰り返し呟く看護師。
こんな辺鄙な病院にまで入院してくる物好きなお嬢様は、一人だけ心当たりがある様子だ。
「もしかしたら、キミが探している相手は『ガラス姫』なのかもしれないね」
「ガラス姫……! 響きからして、何やらお上品なお嬢様のよくぁぁーん! 運命の相手はそのガラス姫で間違いない! 私がそう判断した!」
「間違っても後で問い詰めないでよ」と看護師は小さく肩をすくめる。
――でも、この子ならもしかしするとワンチャン……。
もう一度目前の亮に一瞥をして、期待を込めてこくりと頷く。
「立場上、他の病人の情報をそう簡単他人に教えられません。プライバシーの侵害になりますからね」
「ええー、そんなああ!」
とほほ、と項垂れる彼の姿を見て、看護師は優しげな微笑に転じさせた。それはまるで、肩の荷が少し下りたかのような笑みだった。
「でも……。うん、キミになら大丈夫そうね」
「……」
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