研究者視点②
「……ん……う……」
体が揺さぶられ、意識が急激に浮上していく。
しかし、予想以上に疲労が溜まっていたらしい私の体は実に重く、目を開くことすら億劫だ。
一瞬だけ薄目を開けて見てみると、男が何かを持っているのが見えた。
形状から見るに、恐らくアレはゴムだろう。
きちんとしている。どうやら学校の性教育にはしっかりと効果があったらしい。
こちらとしても、孕む心配が無くなってくれるので大歓迎だ。
「あぁ……申し訳ないが、私は今自分から動けない。勝手に使ってくれ」
そう言い終わると、男が私の下半身の方へと回りこむ。
そのまま私の足を持ち上げて……あれ?
私が傷に当てておいた布を外
「あぐあッ!?」
突然の激しい痛みに体が跳ねた。眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
涙も出てきた。あまりにも痛い。
だが、その後も心臓の鼓動に合わせて、焼けるような痛みは押し寄せて来る。
「……ッ!!ぐゥッ……!あぁッ…………!!!」
体を捻り、四肢を動かし、何とか痛みを分散させようとするも、痛みは一向に収まらない。
ならばもう、暴れるだけ無駄だ。布団を握り、歯を食いしばって痛みを堪える。
これならば、もう少し耐えていられそうだ。
「ハァッ、ハァッ!フゥーッ!」
永遠にも思えるような長い時間の後、急に痛みが和らいだ。
その変わりに、足には何かできつく縛り付けられているような感覚がする。
……成程、恐らくだがアレはゴムではなく包帯で、この痛みは包帯を足に巻こうとしたためのものだった、という事なのだろう。
まぁ、そりゃあ血塗れの女を抱くって言うのは気が引けるか。
「フーッ……フーッ……」
「終わったが……大丈夫か?」
上から男の心配そうな声が降って来る。
大丈夫か大丈夫でないかと聞かれれば勿論大丈夫ではないが、今の私には大丈夫と答える以外の選択肢など存在していない。
折角ここまで来れたのに、たかが痛み程度で台無しにするわけにはいかないのだ。
「フゥーッ、だっ、大丈ッ、夫、だとも……!」
未だ襲いくる痛みに堪え、私はなんとか言葉を紡ぎ出すことができた。
しかし、言葉の節々に大丈夫では無い感じが滲み出てしまう。
男は何かを考えている様子だったが、しばらくすると立ち上がり、何処かへ去っていった。
流石にこの状態は無理と判断したのだろうか。まぁ、そうしてくれると非常に有難いが。
「ハッ……ハァッ……ッ!」
だが、実際はそうで無かったらしい。男はすぐに戻ってきた。
今度こそゴムを持って来……全然違った。
私の額をタオルのようなもので拭ってから、また何処かへ行ってしまう。
おかげでかなり楽にはなったが……あの男は一体いつになったら私を抱くつもりなのだろうか。
抱くのならさっさと抱いてくれた方が私の精神的に有難いのだが。
「ふぅ……ふぅ……」
……数分程時間が経って、痛みもかなり収まってきた。
後方からドアの開く気配と、男が近づいて来る気配がする。
どうやらこちらの様子を見に来たらしい。
「……大丈夫か?」
「ふぅ……あぁ、もう大丈夫だよ。すまないね、こんなことをやらせてしまって」
「構わない。……ところで、腹は減っているか?」
「……?」
腹が?……そういえば、最後に食べたまともな飯は……昨日の夜か。
菓子パンを幾つか食べて、その後すぐに追い出されたんだった。
思い出したら急に腹が減ってきた。
「まぁ、減ってはいるが……まさか作ってくれるのかい?」
「いや、もう用意はほとんど出来ている。席に座……座れるか?」
……まぁ、私のあの醜態を見ればそう思ってしまうのも当然か。
しかし、ドアの先の光景を見てみると、食卓らしき席はすぐそこにある。
あの程度ならば、今の私でも辿り着けるはずだ。
「席というと……すぐそこだろう?そのくらいなら大丈夫さ」
「そうか」
「ああ、大丈夫……って、うわわっ!?」
「食卓まで運ぼう。あまり動かないでくれ」
体がいきなり宙に浮く。どうやら抱き上げられたようだ。
目と鼻の先にまで近付いた男の顔から目が離せない。
「い、いや、大丈夫だって言ったんだが!?」
「転んだりして怪我でもすれば大変だ」
「……う、ぬ、まぁ、その通りなんだが……流石に……」
恥ずかしい、と言葉にする前に男が動き出す。
私の体をぶつけないようにしてドアを通り抜けると、優しく椅子私を座らせた。
そして、こちらが何も言えないうちにキッチンの方へと行ってしまう。
それから数十秒もすると、何かが焼ける音と共に美味しそうな匂いが漂って来た。
……いや、本当に何なのだろうかあの男は。
先程から何がしたいのかさっぱりわからない。
それに、私の覚悟を何度も何度も弄んで……私を一体どうするつもりなんだ?
などと考えていると、男が料理を乗せた皿と水を持って来る。
湯気を立ち上らせる彩り溢れたそれは、非常に美味しそうだ。
「……おぉ、野菜炒めか。いいね、美味しそうじゃないか。正しく男飯という感じだ」
……とりあえず語感で男飯と言ったが、男飯って褒め言葉なのだろうか?
しかし、男は気にした素振りを見せていないので、多分褒め言葉なのだろう。
男は一度キッチンに戻り、箸を一膳と水をもう一つ持って来た。
そして私の前に箸を置くと、そのまま椅子に座る。
「……ん?君の分は……?」
「俺は大丈夫だ。遠慮せずに食べてくれ。これは歓迎会だからな」
歓迎会……歓迎会……?私の……?
「……あ、ああ……か、歓迎会か……歓迎会なら、仕方がない、な、うん」
「水は、麦茶とオレンジジュースがある。そっちの方が良ければ言ってくれ。持ってこよう」
何故、そんなに私に良く……いや、まさか、これ……毒……?
成程、歓迎会とは、そう言う……やはり、抱けなかったのが気に食わなかったのか?
いや、そもそも最初からこうするつもりだったのかも知れない。
「……な、なぁ。まさか……これは、私を……?」
「ああ、貴女に食べてもらうために作ったんだ。むしろ食べてもらわないと困る」
「…………あ、え、そ、うか……そう……だよな」
念のために確認してみるが、やはりそうだったらしい。
……上げて落とすとはこのことか。
しかし、仕方が無い。どうせ食べるしか無いのだ。
「……では……い、ただきます」
体温が下がり、全身の血の気が引いていることがハッキリわかる。
その上汗は出るし手も震える。上手く箸が持てない。
逃げたい。このまま皿を落とせば少しは可能性が────
「……自分で食べられるか?」
「ヒッ……あ、だ、大丈、夫、だ。……じ、自分で、食べる……!」
いや、もう、無理だ。目の前に男が居る。死ぬしか無い。
……せめてあまり苦しまないようにしよう。
さっさと致死量を取り込めればそれで良いはずだ。
皿を持ち上げて中身を掻き込み、水で流し込む。
「ッ……………………!」
……ん?普通の味だぞ……?
変な気体が発生するわけでも無いし、異物っぽいものが入っているわけでも、キノコが入ったりしていたわけでも無いし……
「…………あれ?」
「だ、大丈夫か?口に合わなかったのか?」
「え………………」
どうやら、本当に心配しているらしい。
……まさか、これ普通の料理で、毒だのなんだのってただの杞憂だったり……?
いや、そうなるとまた……あ、違う、拙い、早く返事をしなくては。
「あ、い、いやいやいや!とても、とても美味しかったとも!」
「それなら、良かったが……一体どうしたんだ?」
「そ、それは、そのぉ……」
ど、どう切り抜ける……?
毒が入ってると思ってました、なんて言ったら本当に毒殺されそうだし……
…………あ、そうだ。こう言う時に便利なのがあった。
「き、気にしないでくれたまえ!女の秘密というヤツだ!」
「……あぁ、成程」
よし、やはりこの手は強いな。こう言う時に女に生まれて良かったと思う。
しかし、まだ切り抜けたわけでは無いはずだ。早急に次の手を……
「……おかわりは、要るか?」
「えあっ…………も……ら、えるのかい?」
「ああ。構わない」
「じゃ、じゃあ……貰おうじゃないか」
……どうやら、考える必要は無かったらしい。
彼が皿を持ってキッチンに戻る。
「さ、どうぞ」
「うん、有難う」
彼が再び野菜炒めを持って来た。最初よりも少し多く盛り付けられている。
今度は先程のように掻き込んだりせず、ゆっくりと咀嚼し、味わって食べる。
「…………美味しい」
「それは良かった」
心底安心したかのような声色。
マスクの下にある表情はわからないが、その目は確実に柔らかくなっている。
……成程。つまり、私はただただ善意で出してくれた料理に対して、毒だのなんだのと疑っていたわけだ。
………………あー……拙い。
理解してしまうと、湧き出して来た罪悪感で押し潰されそうになる。
「……私は……これを、毎日食べてもいいのかい?」
「いや、そうもいかない。食材には限りがある。これ以降は比べ物にならないくらい貧相になるから、出来れば今のうちに味わって食べてくれ」
「………………ッ、じゃあ、今回は……」
「歓迎会だからな」
「……そう、か…………」
…………考えてみればそうだ。
病院にいた頃はこのくらい普通に食べられたが、ここは一般家庭。
この状況において、食料は貴重なものだろう。
つまり、私は彼を疑っただけでなく、彼の貴重な食料を無駄にしたと言うことになるのか。
「勿体ないことを、してしまったかな」
「……まぁ、気にするな。いざとなればかき集める。好きに食べても構わない」
「ッ…………!」
ああ、拙い。本格的に拙い。
自己嫌悪が止まらない。涙腺も決壊する。
「すまない……すまない……!」
もう、謝ることしかできない。
到底許されることではないと言うのはわかっているが、それでも謝るしかない。
今の私には、それくらいしか出来ることは無いのだから。
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