27

「いない? リリアーヌが?」

 聞き返しながらマノンが振り返ると、薄暗い階段の途中で真っ青になったソランジュが立っていた。

「はい……さきほど、女中のひとりがリリアーヌ様からお姉様に伝言があるとわたしに声をかけてきたので、ひとまずわたしが話を聞いておこうと思って部屋を訪ねたのですがいなくなっていたんです……」

 泣きそうな表情を浮かべてソランジュが訴える。

「中庭に面したテラスの窓が開いていて、どうもそこから出て行ったようなのですが」

「テラスって、リリアーヌの部屋は二階よ!?」

 ジルベールなら二階のテラスから中庭に飛び降りるくらいのことは平気でしそうだが、リリアーヌはごく普通の令嬢だ。

「そうなんです! だから、もしかしたら誰かに連れ去られたのかも……!」

「誰に!?」

「さきほど、庭の見回りをしていた下男が、やけに番犬たちが吠えていると言っていたので、もしかしたら何者かが侵入しているのかも……」

「ソランジュ。それなら、あなたがひとりで屋敷内を歩くのも危険よ。コラリーたちにも侍女のそばを離れないように伝えなさい。あと、サムソンに屋敷内外の警備を強化するように伝えて」

 執事の名を出してマノンは指示をする。

 現在、フェール公爵邸には王子がふたり滞在しているのだ。王子と伯爵令嬢のどちらの身の安全を優先するかと言えば、当然王子だ。

「はい」

「アルベリック殿下。申し訳ないのですが、妹についていてくださいますか」

 不審者が侵入しているかもしれない以上、屋敷内をソランジュひとりで歩かせるわけにはいかない。使える者は王子でも使う主義のマノンは、遠慮なくアルベリックに頼んだ。

「もちろん、引き受けよう。僕がどのくらい役に立つかはわからないけれど、妹君の盾くらいにはなれるだろうからね」

 まだ動きはぎこちないが、アルベリックはソランジュに向かって手を差し出した。

「お姉様。リリアーヌ様が何者かに攫われたのだとしたら……」

 ソランジュは不安に満ちた顔でマノンに訴える。

「なんでそんなことになっているのかはわからないけれど、とにかく屋敷内の警備を先に強化しなければならないわ。リリアーヌの行方を捜すのはそれから――」

「はっ! そうやって時間稼ぎをしてリリアーヌを余所に移すのか!」

 ピエリックは鼻で笑うと、ジルベールが床を蹴った。

 マノンがジルベールに視線を戻すと、レオが主人の利き腕にしがみついてなんとか剣を振り下ろさないように制止しているところだった。

「それがあんたのやり口ってわけだ!」

「……なにを言っているの?」

 ピエリックとまったく話がかみ合っていないことに、マノンは眉をひそめた。

 彼はリリアーヌの姿が部屋から消えたのはマノンが指示したからだと考えている。どうやら彼は、この屋敷内に不審者が侵入しリリアーヌを攫った可能性は考えていないようだ。

「リリアーヌを監禁しているのはわかってるんだ! 俺に家捜しされると困るから、リリアーヌを隠すんだろう!?」

「監禁? リリアーヌはうちに泊まっているだけよ? あなたに会わせる気はないけれど、食堂でリリアーヌがわたくしたちと一緒に食事をしているのをあなたも見たでしょう? あれのどこが監禁だというの」

じゃない」

 吐き捨てるようにピエリックは告げた。

「え?」

 マノンは大きく目を見開いた。

って、誰のこと? わたくしは、リリアーヌの話をしているのよ?」

「あんたこそ、あの女で俺が誤魔化せると思ってるのか!? 殿下は騙せても、俺は――っ!」

 ピエリックが言い終える前に、ジルベールは空いている手で目の前の男の襟元を掴み上げた。

「口の利き方に気をつけろ」

 低い声でジルベールはピエリックを凄む。

「殿下、に、言ってるわけじゃありません、よ」

 上着の襟を掴まれて首を締め上げられた格好になっているピエリックが、苦しげに顔をしかめながら答える。

婚約者に対する口の利き方に気をつけろと言ってるんだ」

 ゆっくりと言い含めるようにジルベールは告げる。

「殿下! ひとまず剣は離してください! フェール公爵令嬢の前で流血沙汰だけはお控えください! 兄が気に食わないなら、ひとまず一発か二発殴っておいてください!」

 必死にレオが言い募ると、ジルベールは一瞬だけ考える素振りをしてから手にしていた剣から指を離した。そして、その剣をレオが拾おうと主人の腕から手を解いた瞬間、ジルベールは拳を握ってそれをピエリックの腹に命中させた。

「…………ジルベール様。ピエリック殿から事情を聞けなくなると困りますので、そのくらいで」

 これほどまでにジルベールが激昂している姿を見たことがなかったマノンは、どのようになだめれば良いのかわからないまま恐る恐る声を掛ける。

 まさか彼が声を荒らげたりすることなくいきなり相手を殴るとは想像もしていなかったのだ。

 マノンの父はどちらかといえばすぐに感情的になるので、怒っているときなどはわかりやすく怒っているし、喚いている。すぐに国王を罵るし独立すると叫ぶので、そんなフェール公爵に慣れている家族や側近たちは「あぁ、またか」と思うだけだ。

 一方、ジルベールはなかなか感情を表に出さないので、なんとなく機嫌が悪いことはわかっても、怒りのていどが判断しづらい。

 レオは必死に「ご令嬢の前ですよ!」と言い募っているが、彼は主人のこのような一面をまったく知らないわけではないようだ。

「そう、だな」

 ふーっと長いため息をついた後、ジルベールは渋々といった様子で呟く。

 どうやら、これ以上ピエリックを痛めつけることはしないと決めた様子だ。

「それで、あなたが言うところのというのは誰のことかしら」

 ジルベールの渾身の一撃を腹に受けたピエリックは激しく咳き込んでいたが、マノンは気遣ってやるつもりはなかった。ジルベールを怒らせたのはピエリック自身だ。

(まるでわざとジルベール様を煽ったように見えたけれど……それとも、あんな言い方をすればわたくしが怒ると思ったのかしら?)

 多分後者だろう、とマノンは考えた。

 ピエリックは『悪女』であるマノン・ウルスを怒らせて本性を暴いてやろうとしたのかもしれない。もし『悪女』が本性を見せれば、ジルベールは自分の味方をしてくれると思ったのだろう。

(つまり、彼の中でわたくしは小説に登場する『悪役令嬢』ではなく、リリアーヌを攫って監禁している『悪女』というわけね。でも、それだと先日の王宮での振る舞いはどういうことかしら?)

 やはりなにかがちぐはぐでおかしい、とマノンが訝しんだときだった。

「お嬢様! 火事です!」

 執事のサムソンが焦った様子で階上から叫んだ。

「え? 火事!?」

 マノンの頭の中に浮かんだ疑問が一瞬で霧散する。

「温室で火災です! すぐに全員で消火に取りかかっていますが、お屋敷に燃え広がらないとも限らないので、すぐに避難してください!」

 サムソンの報告を聞いて真っ先に動いたのはジルベールだった。

「マノン。ひとまず、避難だ」

 掴んでいたピエリックの襟元から手を離したジルベールは、すぐさまマノンの肩をそっと叩く。

「温室で火事だなんて……」

 頭が混乱してきたマノンの代わりに、ジルベールは執事にいくつかの指示を出した。

 レオはまだ咳き込んでいるピエリックの足首の縛めを解きながら「自分で立って歩けますよね?」と確認している。

「一体、なにがどうなっているの……?」

 呆然とマノンは呟くことしかできなかった。

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