23
日常着に着替えたソランジュを連れてマノンがジルベールが泊まっている客間を訪ねると、なぜかアルベリックがだらしなく長椅子に寝そべっていた。どうやら第三王子は昼間の鍛練で疲労困憊となっていることを、だらだらと弟に文句を垂れていたらしい。
軽装で背筋を伸ばして椅子に座っているジルベールは、そんな兄を無視しつつ自分の剣の手入れをしていた。
「ジルベール様。少々お邪魔してもよろしいでしょうか」
マノンが扉を叩くと同時にレオは中から顔を覗かせてすぐさま部屋へ入れてくれたが、一応マノンはジルベールに断りを入れた。
「もちろん」
剣を鞘にしまいながらジルベールは素早く立ち上がってマノンとソランジュに椅子を勧める。
アルベリックは「申し訳ないが、僕はこの格好のままで失礼するよ」と呻きながら告げる。夕食のときよりもさらに身体の
ジルベールにはレオが従者として付いてきているので屋敷の従僕は付けていないが、アルベリックは供を連れずに手ぶらで訪ねてきたのでフェール公爵家の従僕をひとり付けている。
その従僕は困惑した様子で部屋の隅に控えている。どうやらアルベリックに、自分をこの部屋まで移動するために肩を貸すように言われたようだ。
歩くだけでも一苦労なのだから自分の部屋でおとなしく寝ていれば良いものを、どうしても弟と話をせずにはいられなかったらしい。
アルベリックはもともと用事が済めばすぐに宮殿に帰るつもりだったのかどうかは不明だが、完全に手ぶらだった。従僕どころか護衛のひとりも連れておらず、フェール公爵邸に泊まるにしても着替えなどの一切の荷物がない。
ジルベールは当初からフェール公爵邸に居座る予定だったらしく、レオはしっかりと主人と自分の宿泊用の荷物を持っていた。ジルベールも護衛は連れていないが、彼は基本的に自分の身は自分で守るし、レオもあるていどは武術の心得があるので問題はないらしい。
(アルベリック殿下は、多分今夜うちに泊まるつもりはなかったんでしょうね。それが泊まらざるをえなくなったんで、護衛がいないからジルベール様を護衛代わりにする、ってところかしら)
自力ではほとんど動けなくなっているいまのアルベリックは、いま屋敷内でもし賊に襲われでもしたら即座に狙われて命を奪われるはずだ。
(第三王子だから死んだところで王位継承についてはそれほど支障は出ないにしても、王子が殺害されるとなるとそれなりに大事件だし、それが
アルベリックの部屋はジルベールが泊まっている部屋の隣だが、それでも部屋が別々であればアルベリックが悲鳴を上げてもジルベールが駆けつけるまで多少は時間がかかる。
その点、ジルベールの部屋にいれば、一緒に襲われてもアルベリック自身は家具の陰にでも隠れていればなんとか身の安全は確保できるはずだ。
(侍従や護衛をぞろぞろ引き連れてうちに王子様がふたりも前触れなく泊りに来られても困るけど、手ぶらで単身ふらりと泊まりに来られるのもちょっと困るわ)
フェール公爵邸は王宮ほど警備体制は万全ではないのだ。
(せめてアルベリック殿下だけでも、明日の朝一番で王宮にお帰り願いたいところね。ジルベール様は……お父様やお母様が戻っていらっしゃるまではうちに滞在し続けそうね)
ひとまず、ジルベールの家出に関しては考えないことにした。
「ピエリック殿のことで、少々ご相談したいことがございますの」
「うん、かまわない。なにかな」
マノンがソランジュを連れてきた時点で、ジルベールはあるていど予想はしていたらしい。
「リリアーヌのことなのですが、いくら婚約者とはいえピエリック殿がわざわざ我が家まで彼女に会いに来て、さらにあのような礼儀を欠いた振る舞いをしたことについて、わたくしは直接ピエリック殿に事情をお尋ねしたいと思っていますの」
レオが椅子を運んできたのでマノンはソランジュと並んで座りながら説明する。
「なるほど」
ジルベールは軽く頷いたが、レオは「ひっ」とかすかに声を上げた。
「すこし前からピエリック殿は目を覚ましており、使用人の問いかけには素直に応じているようです。もちろん、いまのところは雑談ていどですが」
「そう。おとなしくしているなら、安心だな」
「えぇ。それで、ピエリック殿には先日の王宮での一件と、さきほどの件について、詳しい説明を求めたいと思うのです。わたくしの友人であるリリアーヌに対しての心配りが一切ない振る舞いは、わたくしとしては見過ごせません」
マノンがはっきりとした口調で告げると、納得した様子でジルベールはまた頷いた。
「ピエリック様と言えば……」
姉が言葉を句切ったところで、ソランジュが口を挟んだ。
「さきほどお姉様にはピエリック様の浮気相手がジンク伯爵令嬢であることをお伝えしましたけど、そのジンク伯爵令嬢のクレア様のことで思い出したことがありますの」
それまで黙っていたソランジュは、どうやら考え事をしていたらしい。
「なにかしら」
妹に視線を向けてマノンが話を続けるように促すと、ソランジュは一気に喋り出した。
「わたし、クレア様にはあまり良い印象を持っていませんの。婚約者がいるピエリック様と親しくしているだけではなく、お茶会に出席しては根も葉もない噂話をしたりするんです。人の悪口も平気で言うし、根拠もないのに他人を非難したりするし、品がない方なんです。まぁ、そういう方って世の中にはごまんといるものでしょうし、そういう方とお付き合いをしなくてもわたしは別に困らないのでいつも顔を合わせてもご挨拶をするだけなんですけど、そもそも最初にクレア様のことが癇に障ると感じたきっかけをさきほど思い出しましたの」
ほんのすこしだけ婉曲にソランジュはクレア・ボヴァンのことをけなしたが、つまりは彼女のことが嫌いらしい。
「クレア様が、最初にお姉様のことを悪役令嬢って呼び始めた方ですわ」
「「「え?」」」
マノンとジルベール、それにレオが目を丸くして声を上げる。
アルベリックは声を出す気力がなかったのか、眉を軽く動かしただけだ。
「お姉様が『薔薇の帰還』に登場する悪役令嬢によく似ているって言い出したんです。そこから一気に、お姉様が陰で悪役令嬢って呼ばれるようになったんです」
「えっと、ソランジュ。その『薔薇の帰還』って、なにかしら?」
急に聞き慣れない単語が出てきたため、マノンは質問した。
ジルベールとレオも首を傾げている。
「大河小説『薔薇女王年代記』の一作目の題名です! 現在、三巻まで出ていまして、『薔薇の帰還』『薔薇の宣誓』『薔薇の戴冠』で第一部が完結しました。第二部の刊行は今年中の予定と噂されていますが、次巻の発売日は未定なんです! 女性の間ではいま一番読まれている作品です!」
ソランジュの愛読書らしく物凄い勢いで説明してくれたが、大衆小説を読まないマノンは「そ、そう……」と相づちを打つことしかできなかった。
「その『薔薇の帰還』に登場して、主人公の恋敵となる公爵令嬢マリエットが悪役令嬢と呼ばれる人物です。主人公がほのかな恋心を抱く騎士がマリエットの父親である公爵に仕えているので、その騎士はマリエットに逆らえないんです。でも主人公と騎士は想い合っていて、密かに逢瀬を重ねるようになるのです!」
「僕は、あの作品のマリエットがとても好きなんだけど、残念ながら主人公に試練を与える役柄のせいか嫌な面が強調されていてあまり人気がないんだよね」
アルベリックが話に加わった途端、ジルベールとレオは「こいつも愛読者か……」という表情を浮かべた。
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