勇者のものがたり




 僕が生まれた頃にはもう、世界は滅びに向かっていた。

 季節は乱れて収穫が減り、山野の獣たちは食べるものを求めて耕作地を荒らし回った。

 魔物も増えた。

 元から魔物はいたし、被害もあったが、その規模が段違いになった。大型の魔物たちが群れになって、町を襲い始めたのだ。

 そして、全身が黒く腐って死ぬ、黒の病が蔓延りはじめた。


 魔王が目覚めたのだ。


 王国の辺境部がまず魔物たちに占領された。魔界になってしまった。黒の病もどんどんと広がっていった。黒の病は人間や家畜だけでなく、草木や作物も腐らせる。


 魔王は世界を滅ぼす存在だ。

 人間の住む土地を奪い、魔物の領分としていく。圧倒的な力だ。たくさんの騎士や兵士がいれば、魔物と戦うことはできた。けれど、退けるのが精一杯で、根本的に倒すことはできなかった。

 魔物はとんでもない数がいるようだった。


 このままでは世界が滅ぶ。

 それを阻止することができるのは、光たる女神様の信託を受けた勇者のみ。


 そして、僕が、女神様の声を聴いた。

 十五になった頃、羊たちを牧草地へ移動させていた時だった。



 勇者よ、アクタよ

 そなたこそが選ばれしもの

 魔王を倒すがよい



 その御言葉とともに、僕の右肩には光の紋章が刻み込まれた。

 たしかに、僕は光たる女神様に選ばれたのだ。



 僕はすぐさま村の神官様に申し出て、王都に向かった。

 王都はさすがの賑わいだった。田舎育ちの僕が見たことないくらいにたくさんの人がいた。その八割くらいは武装していた。皆、魔王軍と戦うために集められた兵士たちだった。彼らは元々は農民だったり、商人だったりする人たちだ。皆、魔物たちに抗おうとしていた。


「勇者よ、面をあげよ」

 神官様の手回しで謁見を許された国王陛下が言った。

 謁見の間はとても広くて、とても美しかった。床も天井も輝いていた。

 居並ぶ偉そうなひとたちは貴族や大臣たちだ。みんな、値踏みするみたいに僕を見ていた。


 自分の見た目は、村ではマシな方だと思ってた。瞳の色が珍しいくらいのエメラルドグリーンだとか、少し癖毛の黒い髪がいいだとか、体格がいいだとか、女の子たちに持て囃されたことだってあったから。

 でも、その場の煌びやかさと比べたら、とんでもない。自分がただの田舎者であることを嫌でも感じさせられただけだった。


 国王陛下は正面の玉座に座っていらっしゃった。見上げるのも烏滸がましくて、僕は膝をついたまま声を出した。


「はい、ぼ……いえ、私は西の野の羊飼い、アクタといいます。先日、光なる女神様より、魔王を倒すようにと御神託を受けた者です」

「勇者が現れたのは吉祥である。早々に努めて、剣を握る術を身につけるのだ」


 国王陛下から直々に言葉をいただいた僕は正式に勇者と認められ、武術を身につけることになった。

 

「お前が勇者なのか」

 王宮騎士たちの訓練に混じるようになってしばらくして、練兵場の休憩所でで同じくらいの年頃の少年に呼び止められた。


 一目で高貴なひとだとわかる複雑な模様の胴衣を着た、金髪の少年だった。青い瞳は宝石みたいにきらきらしていて、小さい頃に聞いたおとぎ話に出てくる王子様そのものみたいだと思った。


 そうしたら、本当にテオドリクス王太子殿下だったんだ。


「羊飼いごときが神託を得るとは。私でも良かったであろうに」

「殿下は勇者が良かったんですか?」

 心底悔しそうに殿下が言うから尋ねてみたら、思い切り頷かれて驚いた。


 王子様や王様、貴族様というのは強い人たちに守られて、安全なところにいるものだ。家畜を育てるのも、作物を育てるのも、僕たちみたいな者がやる。魔物を退治するのだって同じはずだと思っていた。

 まさか、こんなにきれいな王子様自身が勇者になりたいなんて、思いもよらなかった。


 これまでにも何度か魔王は蘇っているらしい。その度に神託を受けた勇者が戦い、勝ったが、誰も戻って来なかったという。

 光たる女神の加護で魔物も魔王も消え失せるが、勇者も死ぬ。

 この国で生まれたものなら誰だって知っている話だ。


「オルド五世王の御代に甦った魔王を討った勇者は第一王子ヴィクタス殿下だったのだ。私だって勇者に任じられてもいいだろう」

「殿下が死んでしまったら、みんな困ります」

「国や民を救うのは王家だ。私が死んだとしても弟たちがいる。実際、ヴィクタス殿下亡き後は第二王子が聖女を娶り、聖王に即位されたのだ」


 テオドリクス殿下には弟殿下が二人いるのは事実だ。

 けれど、勇者は、僕だ。


「僕は全力を尽くして、女神様と陛下のご期待に応えるつもりです。殿下はどうかご安心ください」

「言うではないか、羊飼い」


 笑ったテオドリクス殿下とはすっかり打ち解けて、一緒に訓練するようになった。身分の差はとんでもないけど、生まれた年も同じだったし、友人になれたのだと思っている。


 勇者が見つかれば、魔王討伐は近い。

 誰もがそう思っていた。僕もだ。

 けれども、そう簡単な話ではなかったのだ。


 聖女が現れなかったから。

 この国に聖女は生まれない。遠い異郷の聖なる乙女は女神の光に導かれてこの地に降り立つと言われている。


 神官ではない僕には正確な意味はわからない。

 わかるのは、聖剣がないということだけだ。


 聖女は扉、鍵になるのは聖王の詞。

 聖女が守る聖剣を引き出すことができるのは聖王、つまりレガリア国王だけで、実際に聖剣を振るうことができるのは勇者だけなのだ。

 

 聖女、聖王、聖剣、そして勇者。

 四つが揃わなければ、魔王を倒すことはできない。


 そのまま、十年経ってしまった。

 十年だ。

 十年間戦争が続いたら、どんな大国だって衰える。まして戦の相手は魔王軍だ。王国軍はよくぞ、侵食してくる魔界化を十年も食い止めたと褒められてもいいだろう。

 僕も何度も前線に出た。王太子殿下に同行したこともあった。


 レガリア王国が魔王軍に落ちれば、魔物たちは隣国に溢れ出ることになる。それを恐れた国境を接する国々は当初は戦費や物資の援助をしてくれていたらしい。

 でも、十年は長過ぎた。

 痺れを切らした隣国同盟はレガリア王国を見捨てた。

 全方位国境は封鎖、国外からの物資も人も入らなくなった。もちろん、レガリア王国を出ていくことも許されない。町や村を魔界に飲み込まれ、住むところも生業も失った人々が国境を越えると、密入国者として容赦無く殺された。

 レガリアの民には逃げることもできなくなったのだ。


 聖剣が必要だった。聖剣のない勇者では魔王を倒せない。

 王国軍がどれほど善戦しようとも

 聖女が現れてくれたなら!


 皆が祈った。神官たちも命懸けで、聖女に呼びかけ続けていたときいた。

 でも、聖女は現れなかった。


 それからさらに一年後、国王陛下が倒れた。

 終わりの見えない魔物との戦に疲れ果てた末の病で、息こそあるものの、目を覚まされなくなってしまったのだ。


 戴冠式を行う余裕がないから国王とは名乗れず、テオドリクス殿下が摂政になられたが、魔王軍との戦はやまない。

 決め手がないままずるずると国土が魔物に塗りつぶされていく。

 

 気がつけば、国土の八割以上が魔物に奪われていた。人が住める場所は王都周辺のわずかな場所のみで、僕の故郷も魔界に沈んだ。


 ある夜、僕はひとりで王都を発った。

 聖女が現れなかったから、聖剣はこの手にはない。けれど、右肩には女神様から頂いた光の紋章がある。

 女神様は確かにおっしゃった。


 『魔王を倒すがよい』と。


 僕はその御言葉を頼りに、魔界へ入り込んだ。


 酷い景色だった。

 山や谷の形はそのままなのに、すべてが灰色に凍りついていた。町だった場所はよくわからない泥のようなものに塗れていて、元々の建物の形がうっすらわかるが、それだけだ。生きている人は一人も見当たらなかった。

 川は干上がり、風はなく、空は鉛の色で、時折、赤い稲妻が走る。

 瘴気は強く、土は毒の塊だ。どんな植物も育たない。仮に人がいたとしても食糧も水もないのだから保つわけがない。


 蠢いているのは醜い蟲ばかり。大型の魔獣や一つ目の巨人がうろついていたのは、哨戒していたのかもしれない。魔物たちが大地の主のように闊歩していた。


 僕は魔界の奥を目指した。魔王の住処なんかわからなかったけれど、瘴気が強く感じられる方にひたすらすすんだ。

 一人きりだ。体力と武器を温存したかったから、できるだけ戦闘は避けることにした。それでもいくつもの魔物を斬り伏せた。

 いくつもの屍を、骨を、踏み越えた。


 息をするのも憚られるような場所をひとり。それでも行くことができたのは、光たる女神の紋章が僕に刻まれていたからだろう。ふつうの人なら三日と持たず、瘴気に蝕まれるか黒の病で死んでいたと思う。


 王城から持ち出した携行食糧と水がいよいよ尽きようとした頃、僕は瘴気の淀みみたいなところに辿り着いた。

 

 元々はレガリア王国の古都メンシスのあたりだった。

 子供の頃、一度だけメンシスに来たことがあった。ずっとずっと昔に王都だった古い街はとても清潔で、賑やかで、たくさんの人が暮らしていた。

 灰色に塗りつぶされてしまっていたけど、ところどころに残っていた石畳はたしかにあの古い都のものだと思った。


 僕は大きな建物の前に立った。その奥から瘴気が溢れてきていた。

 たぶん、メンシスの真ん中にあったネクメルギトゥル神殿だと思った。祖父と一緒にお参りしたときに見た女神様の像が砕け落ちていたから。


 神殿の中は静かだった。どこにでもうじゃうじゃといた蟲も、他の魔物の一匹も見当たらなかった。

 僕は剣を抜いた。持てるだけ担いできたはずの剣の予備はもう一本しかなかった。それで魔王が倒せるかどうか、正直、自信なんかなかった。


 でも、やらなくてはいけない。

 勇者は僕だから。

 その一念で、静かな神殿の奥を目指した。


 ドーム天井のある大広間に、黒い影がいた。

 大きく、見上げるほどの影は人間みたいな頭と、手足があった。それに目。ひとつだけだが、炎のように燃えていたのは目だったと思う。


「お前が魔王か!」

「……そういうお前が、当代の勇者か」


 遠くから囁かれるような、近くで叫ばれるような、人の声とも獣の鳴き声ともつかないような音は、たしかに揺らめく大きな影から聞こえた。

 

 僕の全身が勝手に震えた。

 湧き上がってきたのは恐怖と喜びだ。


 魔界の主、黒の王、満ちたる闇。すべてを飲み尽くし、滅びをもたらす者の前に辿り着いたのだ。

 途方もなく恐ろしかった。

 けど、同時に嬉しくもあった。


 こいつを倒せばすべての苦難は終わるのだ!


 僕は応えず、魔王に斬りかかった。

 魔王は避けようともしなかった。

 刃は魔王の影を、ほんの少しだけ切り裂いたがすぐに元通りになってしまった。


「……聖剣を使え」

「うるさいっ!」


 僕は予備の剣も抜いた。両手に剣を握る。

 水も食糧もほぼ尽きた。これで剣も最後だが、どうせ魔王とともに勇者は死ぬのだ。ちょうどいいと思った。


「消えろ! 消えろ消えろっ!」

 叫びながら、僕は魔王に斬りつけた。何度も何度も、力任せに剣をふるった。薙ぎ、斬り、突き、殴りつけた。


「聖剣を使え」

 魔王がまた言った。使えるものなら使っている。使わないのではない、使えないのだ。だってここにはないのだから!


 そんな事情を叫んでやる道理もない。

 僕は無視して攻撃を続けた。


 魔王が片方の腕を持ち上げ、振った。

 まるで羽虫を追い払うような軽い仕草だったのに、僕は広間の端まで吹き飛ばされた。


「……聖剣を使えと言っている」

「うるさいって言ってるだろっ!」


 僕は這いつくばって剣を拾い、膝がやられたみたいでふらついたけどなんとか立ち上がった。魔王の赤い炎の目が見下ろしていた。


「聖剣でなければ魔王は死なぬ」

「やってみなけりゃ、わかんないだろっ!」


 僕は二本の剣を揃えて突き出し、跳び上がった。狙ったのは目だ。どんな生き物だって、目は急所だ。

 剣は届かなかった。魔王に軽々払い除けられたからだ。


 一度でダメなら二度、それでもダメなら三度。僕が跳べる限り、剣を持ち上げられる限り、諦めることはない。


 何度も何度も斬りかかり、弾き飛ばされた。

 どのくらい続けたのか、振り返ってもわからない。ただ、体が痛み、目が霞んで、体中が熱と痛みでどうにかなりそうだった。


「なぜ聖剣を持ってこなかったのだ」

「お前に、関係、ないだ、ろ……!」

「聖剣でなければ魔王は倒せぬ。……知らぬわけではないだろう」


 知っている。百も承知でここへ来た。

 だが、レガリア王国は限界なのだ。

 王も王子も、騎士も兵士も、誰も彼もが限界なのだ。救えるのは勇者だけ。


 僕は死力を振り絞り、剣を構えた。


「女神よ、光たる女神よっ! あなたが与えたこの紋章に偽りがないのなら、僕のすべてと引き換えに、どうか力をお貸しくださいっ!」


 喉が裂けるほどの声で叫んだ。その声が届いたのは、古い神殿だったからかもしれない。


 女神様は確かに、力を貸してくださった。

 僕の剣が魔王の胸を貫いたのだ。

 同時、とんでもない光が僕と魔王を包み込んだ。



 愚か也、愚か也

 聖なる剣でなくば 魔王は倒せぬ

 満ちたる闇が来る 来てしまう

 闇は満ち 溢れる

 闇は光を飲み 世界は闇に塗り潰される

 ……羊飼いよ 愚か也




 光の中で聞こえたのは魔王の嘆きだったのだろうか。

 僕にはわからない。




 目を覚ました時、僕は神殿にひとりで転がっていた。

 体中の骨が折れていて血塗れだった。激痛に耐えて体を起こし、立ちあがろうとして何度も転んだ。

 そして、気がついたのだ。


 僕の手は皺くちゃで、指をまっすぐに伸ばせなくなっていた。髪はほとんど抜け落ちていて、歯のは一本もなかった。目は霞み、耳はきぃんという耳鳴りばかりで、周囲の音も聞き取れない。



 僕は、信じられないほどの老人になってしまっていたのだ。




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