第13話 せっかちな幽霊
鏡の中に完全に姿をあらわした少女がすばるを真っ直ぐ見つめていた。
まったくの見知らぬ他人だった。
「…どちらさま?」つい、丁寧語が出た。
見た目はすばるよりもさらに幼い中学生風なのに、タメ口などとてもきけない貫禄があった。
青白い肌、艶やかな漆黒の髪。額でまっすぐに切り揃えられたヘアスタイルはやや重たげで、やや昔っぽく感じる。
顔立ちも七瀬およびすばるとは全く違った。はっきり系の目鼻立ちをした真星姉妹に比べ、鏡の中にいる少女のそれは、キリッと引き締まってはいても、和風と表現できる範囲にとどまっている。
だから、鏡の中にいても七瀬ほどの凄惨さはなく、どこか涼しげだ。一重まぶたに切れ長の目がとても賢そうに感じる。
年齢というか享年は骨格から勘案して13、4歳、しかしすさまじいベテラン感が漂っている。
すばるの心にすぐ、ある名前が浮かんだ。
「あの、もしかして、あなたは…」
おずおずと問うすばるに、少女は無表情のまま「わかってる」とでも言いたげに軽くうなずくと、心もちあごをあげた。
「話を聞こう」というわけだ。愛読書であるゴルゴ13からそう解したすばるは、自己紹介もそこそこに、つんのめりがちに次々言葉を投げかけた。
「状況はおわかりですか」「やりすぎだったのは反省しますが、ああしないと聞く相手ではないと思ったんです」「ところで姉は、七瀬はどうしてます?」「なんとかなりませんか」
すばるの懸命な問いかけに、鏡の中の見知らぬ少女もまた、能面のような表情のままふむふむとうなずくと、唇を開き何かを答えた。
だが声は聞こえない。まるで音声だけカットされたみたいだ。
機嫌を損ねたくはなかったが、すばるは思い切って、
「ごめんなさい、聞こえない」と、ジェスチャーとともに伝えてみた。
するとはじめて少女の眉宇が動いた。
懸念した怒りの表情ではなく「そうか、そうだよね」という感じにうなずいた。案外気さくなのかもしれない。
しばらく、思案するように首を傾げていたが、おもむろにこちらへ右手を伸ばしてきた。
得たりとすばるも左手を伸ばし、鏡の中の少女と掌を合わせる形になった。
間もなく、頭の中に言葉が閃いた。
––––– あなたは大丈夫のようね。
一瞬、意味がわからなかったが、すぐに幽霊との濃厚接触についての確認だと理解し、「はい、全然大丈夫。何時間でもへっちゃらで話せます」と答えた。「特別製なんです、わたし」
すると、
–––– 心を読んでもいい?
と、閃いた。掌越しに記憶を探る許可を求めているのだと見当をつけて、
「どうぞ、お好きに」
と返事した。そのあとは特に何も感じず、一拍おいて、
–––– さっきはよく我慢した。えらい。
との言葉がいきなり閃いた。
急に褒められ、すばるは動揺した。赤岩へのカチコミを断念したのを評価しているらしいとやっと気づき、
「いえ、私はただのバカです。みんな子供たちのおかげです」
そう返事すると、くすくすと笑ったような気配が伝わってきて、
–––– でも、間違ってはいない。あんな愚か者の教師と同じ地点へと落ちなくてすんだ。それにしても彼女は問題が多い。いえ、すっかり闇に浸っている。
と閃いた。赤岩の行状については、把握してくれているらしい。少しホッとしたすばるが、どう返そうか迷っていると、
–––– ところで、現在のお姉さんに関するあなたの推察はだいたい正しい。
と閃いた。さらに
–––– だからこそ行動に慎重さが求められる。
と続いた。
閃きは立て続けだった。少女幽霊は、かなりせっかちのようだった。
せかせかと伝えられた情報によると、やはり七瀬はある種のサークル、つまり結界に閉じ込められた状況にある。もちろん赤岩先生のしわざなのだが、彼女も一種の催眠状態に陥っていて、自主的な終了操作が困難な状態だという。また、すばるが近づくべきではないというのも嘘ではなかった。あまりに七瀬に近い存在すぎ、人であってもサークルに取り込まれるおそれが強いという。これについて少女は、
–––– 感電中の人に触れたら、一緒に感電するみたいな感じかな。
と表現した。しかし解決策について聞くと、反応は一転してスローダウンし、
–––– うーむ。
深く思案する気配だけが伝わってきた。そして沈黙。
その不気味な静けさが、おさまりかけたすばるの不安をまた掻き立てた。
それほどまでに事態は深刻なのだろうか。
「どうしたら、どうしたら姉を助けられますか」
知らずにすばるの目に涙が盛り上がり、ほおを伝って落ちた。
「私が余計なことばっかしたせいで…」
–––– そうね。でもそれはそれ。
意を決したように少女は伝えてきた。
–––– なんなら、あともう少し余計なことをしてもらおうかな。
すぐには意味がわからず、すばるが口をぽかんと開けたままでいると、一転して力強い意識が閃いた。
–––– 心配はいらない。あとは私がなんとかするから安心して。ただ、とりあえずあなたの元気さを少し借りたい。子供たちにも。
続いて、すばるの脳裏にこれからすべきことが閃いた。すぐさま体育館に戻ってそれを履行しろというわけだ。予想もしない内容に、
「マジでこんなことが役にたつんですか?」と、すばるが聞くと、
–––– マジって表現にまだ慣れないけれど、その通り。
と、返事があった。
–––– 練習のはじめにやっていたでしょう。あれぐらい気合をいれたらたぶん大丈夫。声の大きさよりも意識を集中するのが肝心。要するに発する言葉に念を込めるの。ことだまというやつね。
「でも…」考え考え、すばるは懸念を伝えた。
すっかりあなたの好意に甘えるつもりでいるが、あなたも霊であるからには、御守りで武装した赤岩との接触には大きなリスクがあるのではないか。七瀬の代わりに良くない影響を受けてしまうのではないか、と。
だが、少女はなんの逡巡もなく、
–––– ありがとう。それはなんとかなる。いえ、だからこそあなたの助力が必要。
と、言い切った。そして、すばやく追加の指示をすばるに与えると、
–––– じゃあ、よろしくね。
とたんに鏡の中の姿がぼんやりとしてゆく。せっかちな彼女は、すぐに計画を実行に移そうとしているのだ。
「あの、お礼はどうすればいいですか。それと、やっぱり、お名前は…」とすばるが聞こうとしたが、鏡の中の少女は口元にほんの微かな笑みを浮かべ、指を立てた手を軽く振った。
さっさと計画を実施せよということだった。
少女は完全に消え、すばるだけが鏡に残った。
すばるがフロアに姿を見せると、
「せんぱい」待ちかねたように佳奈が駆け出てきた。
「ごめん、またせた」すばるはうなずき、鏡の中の少女と打ち合わせた内容をブツブツと口中で確認した。すると佳奈がおそるおそる尋ねた。
「なにか、わたしたちにできることありますか?」
唇にあった言葉を飲み込むと、すばるは佳奈の賢そうな顔を見つめた。
さらにほかの子供たちと吉村夫婦を振り返った。たくさんの目が彼女を見返している。
そうだ。これからやろうとすることは、すばる一人でできるというものではない。少女も、子供たちの協力が必要だと言っていたではないか。
「ここはひとつ、みんなに共犯になってもらうか…」
すばるがそうつぶやくと、
–––– 犯罪なんてとんでもない。十分な公益性がある。駐車場に澱む迷妄を破り過ちを正せば、おのずとこの地に平安が蘇り、皆がまた安らかに過ごせる。そのためには速やかに行動すべし。
と、閃いた。ちゃんと聞かれていたらしい。
「ひゃっ。表現が良くなかったですね、すみません」肩をすくめるすばるを、佳奈たちが不思議そうに見ている。
苦笑したすばるは佳奈たちに、
「ありがとう。実はみんなに手伝ってほしいんだ」と呼びかけた。さすがに姉の幽霊がどうとかは言えず、「最後にドンっと気合を入れて稽古をしめたい…そう、今後もここで稽古させてもらいますって、アキナさんへの許可申請って感じかな」
苦しい説明をごまかすべく早口だったが、子供たちは真剣な表情でうなずいてくれた。
「稽古はじめみたいな大きな声を、もういっぺん出せる?」とこぶしを突き出して聞くと、
佳奈も神谷も、笑顔になって同じしぐさをしてみせた。
「大丈夫です」
「任せてください」と大槻が自信ありげにうなずいた。
間が空いたのを吉村夫妻に謝って、すばるは竹刀を構えなおした。
(天よ、多少の公私混同を許したまえ)と、胸のうちでつぶやく。
そして、「ここからは少しスピードアップ。声はさっき以上に思い切って出します」と宣言する。
フロアに響く返事があった。
「では、再開します、行くぞ」
おお、という声で体育館が揺れた。
「道場のみんなと、仲良くしよう」と腹から叫んで大上段に構え直したすばるは、「かぞく、ともだち大事にしよう」と吠えつつ竹刀を振り下ろす。子供たちが後に続いた。また叫ぶ。
「いじめぜったい、やっちゃだめ」
子供たちも大声を上げつつ竹刀を振った。
「なかまはずれも、やっちゃだめ」
「ひとのふりみて、わがふりなおせ」
笑い声が起こるが、生徒たちは元気よく復唱し、思いっきり竹刀を振ってくれた。しばらく一本づつ振っていると、次第に調子のあがってきた感触があった。よし。
切り返し行きます、と宣言してから、
「いじめ、ぜったい、だめだめだめ」で、素早く切り返す。
生徒全員が声を合わせてくれている。きっと駐車場にも届いているだろう。少女の要望がこれだった。心を揃え声を揃えて剣を振る。
「死者が目覚めるほどの気合いが迷妄を断ち切る」のだそうだ。当然ながら、「ほんまかいな」と疑う気持ちは頭のすみにあった。が、いつしか建物の外から、ゴロゴロと響く音が聞こえてきたのにすばるは気づいた。
晴れていたはずの夜空に、突如として雲が湧き雷が落ちはじめたのだ。
幽霊も大物になると自然現象までコントロールできるのだろうか。そんな疑問が浮かんだが、だれに聞けばいいのかはわからない。まあいい。
「わるぐち、かげぐち、いわないぞ」
「わるぐち、かげぐち、いわないぞ」
「自分のいやなの、ひとにもしない」
「いやがらせして、なにがうれしい」
「逆ギレやめて、まずは落ち着け」
また笑いが混じった。字句に言いたいことはあるだろうが、吉村たちも表向きはすばるに合わせ、大声をあげてくれている。
「ともだちつくろう、なかよくなろう」
「だけどボッチに、いじわるするな」
子供たちの明るい復唱に続いて、体育館の端まできたすばるはターンする。
そのとたん、爆発音のようなすさまじい雷鳴が響いた。雨音までは聞こえないが、窓の外が繰り返し激しく光った。
嵐を呼ぶ女だぜ…とうなり声がしたのは、たぶん吉村晶子だ。
すると、
–––– その調子、あと少し。
誰かが耳元でささやいた。
もちろん七瀬でも吉村晶子でもない。一瞬、ひやりとしたがすばるは、
「ゆえなくきらうな、さげすむな」と叫び、竹刀を振った。
周りを見まわすと、いつのまにか成人の生徒たちも一緒に大声をあげて竹刀を振ってくれている。
そうか。みんなが助けてくれているんだ。すばるはやっと素直にそう思えた。また大声をはりあげた。
「ゆうれいだって、ともだちだ」
ほんのかすかに声が遅れたが、それ以前より大きな声が返ってきた。
「ゆうれいだって、ともだちだ」
「あきなさんだって、仲良しだ」
「あきなさんだって、仲良しだ」
「…」さっきの少女の吹き出す気配がした。
雷はおさまったようだが、今度はいきなり外の照明が一斉に点灯し、昼間のように周囲が明るくなったとたん、消えた。
怪現象の連続に、吉村夫は目を泳がせつつ竹刀を振っている。
–––– しんぱいかけた、もうだいじょうぶ
突然、別の若い女の声がした。頭上にかかった雲が晴れたような気がして、同時に肩にかすかな感触。
七瀬が戻ってきたのだ。よし。
「まちがえたら、なおせばいい」
「まちがえたら、なおせばいい」
子供たちから伝わる熱気に加え、目に見えない気配が彼女の横に立っているのを感じた。どうやら、ミッションは無事に終えられたようだ。
「たのしくみんなで、けんどうやろう」
となりのフロアから「空手もいいぞ」と合いの手が入った。反対側の空手道場の大人たちも、にこやかにこちらを見ていた。
「とにかくみんなで、元気になろう」
すばるはいったん間を開けた。
ゆっくり息を吸い込みながら構えを大上段に持ってゆく。
「みんなで元気に」子供たちも意図を理解し、彼女に合わせてくれている。それを確かめると、すばるは頭の上に竹刀を立てると、
「あしたへゆこう」と叫びながら思いっきりに踏み込んで竹刀を打ち下ろした。子供たちの声と動作が一つに重なった。
余韻のあと、体育館が静まり返った。
「はい終了」すばるが明るく宣言すると、子供たちがいっせいに鬨の声みたいに吠えてくれた。
空手教室からも拍手が起こった。子供たちも拍手をはじめ、吉村たちは拍手に応えるように大きく手を振り上げた。
「ありがとう」また声がした。どちらの声だったかは、拍手にかき消されてよくわからなかった。
騒ぎが落ち着こうとする時、吉村夫が急に窓に駆け寄った。
どうしたの、と尋ねる妻を手で制し、ロックを外して重い窓を力任せに開けた。細く長く続く泣き声のような音がはっきりと聞こえた。
子猫かな、と最初すばるは思った。
いや、女性の泣き声だ。
頬を赤くした子供たちは気にせず笑い合っているが、大人たちの幾人か不審気な顔をしている。吉村夫がすばやく外に出た。
すばるも子供たちと握手しながら駐車場の様子をうかがう。そのうち、吉村に連れられて人影がフロアに入ってきた。
LED照明の下でもはっきりわかる青ざめた顔の人物は、赤岩先生だった。
彼女は大人たちの固まっているところまで無言で進んだが、そのままへなへなと床に座り込んでしまった。
「どうしました」
吉村晶子の問いにも、赤岩先生は両手で頭を覆い、ただかぶりを振り続けるだけだった。
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