鏡の中の・おせっかいな・死んだはずの姉

布留 洋一朗

第1話 はじまりは冤罪

「あっ、すばるちゃん…」

 呼ぶ声の聞こえた気がして、真星まなぼし昴は立ちどまった。

 同時に灰色のブレザーが視界をかすめたが、誰なのか特定はできなかった。

 夕方を迎えた北けやき台駅の階段は混雑がひどかった。すばるも結局は人の波に押され、一階まで降りてきてしまった。

 そのまま流されるように改札を出て、やっと周囲を見回したが、もう遅い。

 

 声は可愛いらしい女の子の声だった。

 聞き覚えは、あるようなないような。少なくとも高校の友人たちとは違う。

 連中なら遠慮なく呼び捨てるだろうし、そのあとは彼女に忍び寄り、うれしそうに見つけられなかったのを罵倒するだろう。

 「まあ、いっか」今日は、すばるにとって重要な目的のため、わざわざ途中下車したのだ。まずそれを済ませよう。

 彼女はそのまま、駅舎とつながるショッピングセンターへと足を進めた。

「すばるちゃんかあ。ちゃんづけなんて久しぶりだよ」

 それでも声のことが頭に残り、いろいろ考えながら歩いた。

(近くに別のすばるがいたのかも。でも、たいてい男だよね)


 どちらかといえば男性イメージのある自分の名を、すばるは別に嫌っていない。むしろ気に入っていた。

 ネーミングは父親による。彼が冬空に見出したプレアデス星団の美しさにちなんだというのが公式エピソードだが、あと付けだろう。

 女、女、女ときて次の子供がまた女だった運命への、父の抵抗がほのかに感じられなくもないが、星は好きだし「スバル」という音も悪くない。

 同名の自動車メーカーがあるため、TVCM等で連呼されるのはやや困る気もするが、年齢とともにからかわれるのは減った。

 

 同様に、まだ幼く従順だった末娘に対し、父が自分の趣味嗜好(剣道・写真に阪神タイガース)を息子代わりにそっくり引き継がせようと目論んだのも、家族六人自分以外は全て女(飼ってる猫もメス)となった彼の心理を想像すれば、怒りよりも笑いがこみあげる。

 父の企てについては、かつて反抗期に達した長姉(論争好きで理屈っぽい)がしきりに非難した。ただ、当の被害者たるすばるは、男と偽り育てたオスカルの父ほどではないし、別にいいやと思っている。

 これは、彼女の気質もさることながら、思春期を迎える時期に真星家を襲った特大の不幸とその後の父の憔悴ぶりを勘案すると、これぐらい見逃してやろうかいと寛大な気分になるせいだ。


 –––– いまじゃ五人家族だもんね。

 と、目的地に向けて喧騒をかきわけつつすばるは考えた。

 そう、不幸とは家族の死だった。すばるの二番目の姉、七瀬はすでに亡くなっている。まだ17歳だった。

 その唐突な死に、すばるたち姉妹はかつてないショックを受けた。だがそれ以上に父と母は変わってしまった。とりわけ、快活なイケおじだった父の、自信に満ち溢れた姿はいまの彼には見出せない。


 –––– それにしても、なあ。

 高校進学にメドをつけたすばるは、あらためて自分から写真を趣味として選び、技術を学びはじめた。写真部にも入った。

 その際、父は所有のデジタル及びフィルムカメラシステムと学生時代以来のプリント用機材(引き伸ばし機とかそんなの)をそっくり末娘へ譲渡した。

 が、肝心の機材に関する説明が最小限しかなかった。意地悪とかではなく、主任モデルだった次姉(七瀬は姉妹で最も顔かたちが整い、他の三人ほど猛々しくはなかった)を思い出すのが辛く、気力が湧かないのだ。

 それでもアフターフォローぐらいしろよ、と不満げなすばるに対し母もまた「そんなに怒ったりしないで。わかってあげて。ね」などと弱々しく宥めたりした。悲しみは、ほかに娘がいてもやわらぐわけではないという。

 

 めざす店に着いた。いわゆる駅前写真店だ。

 店構えは決して大きくは無い。けれど新品及び中古カメラ機材の密度が高く、わざわざ都心部に出なくてすむ。なによりこのデジタルのご時世に各種のフィルムが置いてあるのがいい。さらに嬉しいことに、期限の近づいたフィルムを安値で購入できる。価格は時々で違うが、概して相場よりかなり安い。

 高校生で、かつあまりバイトに時間を割きたくないすばるにとって、強い味方といえる店だった。

 今日の狙いはモノクロ35ミリフィルムだった。

 フィルムコーナーとされる棚には国内の雄、富士フィルム様と外国メーカー2社の製品があった。だが、「値下げ」表示のあるのは1社の二十四枚撮りのみ。うーん。買うべきか。

 数種類のフィルムを感光しそうなぐらいにらみつける。

 小さなコーナーの前にいつまでも突っ立ってはいられない。昭和風デザインのセーラー服に170オーバーのコスプレめいた自分が仁王立ちしていたら、店にも他の客にも邪魔で仕方ないのはよくわかっている。


 しかたなく、通路を隔てた「休憩コーナー」へと移動した。

 ここはイートインスペースも兼ねていて、向かいのハンバーガー店のお盆を持つ客が多い。だが、しまり屋の彼女は手ぶらのまま空席に腰をおろした。

 「どうしようか…」と、どれを購入すべきかを真剣に検討する。いつも一緒に行動する親友・芽衣子と陽菜でもいれば騒がしく相談に乗ってくれるだろうが、今日は単独行である。「安売りのフィルムが積み上げてあったって時代がうらやましいよ」と、ひとりつぶやく。生まれてないけど。

 

 彼女の煩悶は、背中側から聞こえた声に中断された。

 右ななめ後方に、それぞれ黒と紫のアネロのリュックを傍に置いた高齢女性がふたり、声高に話し合っている。しばらく耳を傾ける。そんな気になったのは、黒アネロの年寄り女が、

「もうね、面食らうことばかり。いまどきの高校生の考えることはさーっぱりわからないわ。時代が嫌なほう嫌なほうへと変化してる。それで、あれがいまどき典型の高校生なのよ」

 と、断言したためだ。ちょっとカチンときた。

(そうだねー)と、高一のすばるは、心の中でまぜっかえす。(私だって今どきの年寄りの考えは、年々わけがわからなくなってるし)

 耳に入ってくる老女二人の会話によれば、黒アネロはここに来る前、孫にあたる高校生とバッタリ出くわし、経緯は不明ながら軽く言い合いになって、負けた。最後は少しきつい言葉をかけられ、紫アネロにそれを嘆いている状況と推察できた。

 そういえば、黒アネロにどこか見覚えがある。誰だろう。視線はカメラ店に置きながらもすばるは思案した。

「おはずかしい、しつけがなってない」

「あのぐらい、どうってことないじゃない。私にちゃんと挨拶してくれたし。ほら、うちの孫なんか本当に憎らしくて、おまけに訳のわからない奇行までやらかしてくれるの。この前は強盗団に間違えられた」

「強盗?それはまた」紫アネロの大袈裟な身振り手振りに、黒アネロもやっと表情が緩んだ。

「ほら、お向かいの坂口さんのところ、門の前に植え込みがあるでしよ。あんまり手入れしてないけど。あそこにね、毎日草とか木の枝が置いてあるんだって。意味がわからず、噂の強盗団の印かもって奥さん怯えてらして。そしたら、どうもうちの孫が置いていたの。なのに大樹、理由を言わないのよ。私がやんわりと聞いたらぶっきらぼうに『うっせ』だって」

 黒アネロは笑って、

「大樹くんはまだ小学生でしょう。意味なくそんなことやる年齢よ。それに比べて…」

「それでも果南ちゃん、よく勉強ができるじゃない。学校だって、うらやましいわ。うちの孫、とうてい行けない」

(かなんちゃん?)

 すばるの脳裏に、一人の女の子の姿が浮かんだ。

 岩崎果南ちゃん。小学校の同級生、そしてすばる一家が引っ越しするまではお隣さんだった。


 慎重にすばるは斜め後ろに視線を送った。気づかれるのを恐れたのではなく、怖がられないために。いわゆる男顔のせいなのか、ぜんぜんそのつもりはなくとも、すばるには睨んだ、メンを切ったと誤解されることがよくある。

 見覚えがあった。しばらく記憶のピントを操作するうち、

「ぜったいそう」と確信した。岩崎のお祖母さんと呼ばれていた人物だ。かなんちゃんは、やはり岩崎果南ちゃんだった。


 背中で慎重に様子を探る。相手が気づいた気配はない。まず、すばる自身が4姉妹の中の一人だから印象も薄いに違いない。当時とは比べものにならないほど身体は成長し雰囲気も変わっている…はずだ。

 それに、果南ちゃんとそのお母さんとはごく親しかったが、お祖母さんはほとんど会話もなかった。たしか真星家が引っ越す一年ぐらい前に、お祖父さんの死去に伴って同居をはじめた人であったはず。それでも、なかなかの教育ババだった記憶がある。果南ちゃんの塾の送迎をやっていた。そういえば当時から果南ちゃんにウザがられていた気もする。


 「大樹、この前なんか庭の梅を折っちゃってね…」

 「ほんとに、いつの間にあんな不良になってしまったのか。まさか不良になるとか、あの娘が…」

 黒アネロこと岩崎のお祖母ちゃんは、紫アネロがとりなそうと懸命に披露し続けるさまざまな大樹少年のいたずらにもろくに反応せず、果南ちゃんの愚痴ばかりこぼしている。

 だんだん思い出してくる。岩崎のお祖母ちゃんは、自分の孫にだけ関心ある人だった。表向き友人たちに愛想よくしても、内心さっぱり興味がないだろうとは子供心にもなんとなくわかった。

 しかし、すばるは首をひねった。「よりによって果南ちゃんが不良?」

 まずその疑問が浮かぶ。上の学校に行っていきなり変化した例はときおりあるが、すばるの知る彼女の気質からして、ヤンキーデビューは考え難い。

 それどころか、風の噂で彼女がすばるの長姉と同じ公立高校へ進学したと聞いた。長姉の美波の母校は、明治時代初期の創立を誇る地域トップ校なのだ。みんな学業に追われ、非行活動に時間を割く暇があるとは思えない。東リべのグッズでも集めていたのを誤解したのかしら。


 「…でも、小学生だっていろいろいるわよ。ほら、トレーディングカードってあるでしょ。あれが紛失したって話が…」

「それよ」岩崎祖母が急に反応した。「ねえ、片山さん、聞いて。私も気味の悪い目にあっているの」

 かたい口調になって続ける。紫アネロは片山というらしい。そういえば片山さんという家も昔の家の近所にあった。

 告白にあたって岩崎祖母はやや背を丸め、声をひそめたが、すばるは背中全体を耳にしてそれを聞いた。

 ここ半年ばかり、身の回りに置いた金目のものが消え失せた。具体的には現金やアクセサリー類。彼女はいかにも憂鬱そうに、

「私ほら、昔は家で仕事していたでしょ。あの時もちょくちょく、あったの」

 窃盗の犯人は、おそらく当時同居していた義母で間違いない。あの人は世間では人格者として通っていたが、近くで見ていると信用できないところが多々あった。手癖も悪かった云々。

「果南はね、だんだんあの人に似てきてしまったの。私の言うことも聞かなくなったし、ふだんは大人しい感じなのに、私が諫言すると、さっきみたいに大声を出す。もう、本当につらくて…」

と、岩崎祖母は頭を何度も横に振った。目の端でそれをとらえ、すばるは首筋がむず痒くなった。心からの嘆きというより、芝居くささが鼻につく。


つぎにすばるは、少しだけ肩が重くなったのを感じた。

(うっ、これは…)

 黒と紫の会話がループ状態にあるのをたしかめてから、すばるはそのままショッピングセンター内にある手洗いへと向かった。


 薄暗い手洗いはしんとしていた。誰もいない。すばるは個室に入らずに、洗面所の鏡を見つめた。

 そこには、青白い顔をした少女が写っていた。

 何回見ても心は平静ではいられない。

 すばるではない。同じ制服姿だし目鼻立ちにも共通点はあるが、全体に彼女より少し小ぶりな体格をしていた。そして、大人びた印象のある表情は、冷たく冴えて美しかった。

「…なっちゃんさあ、もっとこう、穏やかに出てこれない?」

 鏡の向こうの次姉は、だまったまま末妹を見つめた。なんとも凄惨な雰囲気が寄せてくるが、別に妹に恨みを抱いているのでないのは知っている。というより、妹に頼みがあるのだ。

「わかった、わかった。ところで今日のテーマはなに?やっぱりさっきの果南ちゃんの話?」

そこまで言って、人の入ってくる気配がした。鏡の向こうの姉は消えた。今はすばるの血色の良い顔だけが写っていた。

「しゃあないな」

 すばるは足早にさっきの休憩コーナーへときびすを返した。

 まだ、いた。

「そろそろ帰りましょうか」

「ああ、だんだん寒くなってくるから」

 とか言いつつ、岩崎と片山はまだぐだぐだしていた。

 

 「それより、フィルムはどれを買ったらいいと思う?」

  すばるはスマートフォンを片手につぶやいた。なにも起こらない。

 片山が、今にも席を立ちそうに足をぶらぶらさせて、

「そうそう。その後、息子さんはどう。もうすっかり良くなったのよね」

 と聞いた。岩崎の息子、すなわち果南ちゃんの父親は、コロナか何か知らないが少しの間、入院していたらしい。

「ええ、おかげさまで。さっそく残業続きみたいよ」

「教頭先生って、やっぱり忙しいの?」

「どうだろう。仕事の話はあまりしないから」

 その時、すばるはスマホをつかんだ自分の指が、自然に動くのを感じた。起動ずみのテキストソフトに、彼女の意思とは別に文字が勝手に入力される。

 そこにはこうあった。「チチオヤガカギ」「カナンノオメイヲススゴウ」

 –––– またかよ、おせっかいめ。


 気の良い女の子だった果南ちゃんの濡れ衣を晴らしたい気持ちは、すばるにだってある。だが七瀬の希望は、もっと本格的な疑惑解明、すなわち探偵ごっこなのだ。

 ウィジャボードとかコックリさんは、当人の無意識が文字を書かせているとすれば、やっぱり私の無意識が生み出した姉の七瀬の虚像なのだろうか。

「突然の死を受け入れたくなくて、無意識のうちにこんな芝居を自演しているのかな、わたし」と、ダブルバアさんに聞こえないようつぶやく。

「いや、残念ながら違う」と、これはすばる自身の心の声が胸の内で叫ぶ。無意識だったら、もうちょっとなんというか、すばるに気をつかってくれると思うのだ。

 また指が勝手に動いた。

「シンジルモノハスクハレル」「スベテノフカノウヲケシテ、サイゴニノコッタモノガイカニキミョウデモ、ソレガシンジツダ」

 妹の逡巡に姉も気がつき、煽りに入った。後段のセリフなど、いかにもミステリー好きだった姉の口走りそうなことだ。

「これこそ、私の無意識がなっちゃんを演じてる証拠かな」と、しつこくささやくと、

「ナンデモイイカラトニカクヤレ」と指が示した。くそっ。

 姉が、この世に思いを残したとすれば、それは探偵として活動できなかったことだろう。ただ単にヒマなだけかもしらんけど。ちぇっ。


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