第15話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 12
夜が来た。
病院は騒然としていた。
大勢の医師が、入れ替わり立ち替わり坊ちゃんの部屋を出入りする。
その誰もが、暗い顔で首を横に振って去って行った。
あたしが発見した時、坊ちゃんの顔は真っ白で生気がなく、目はうっすら開いたまま虚空を見つめていた。
最初は、死んでしまったのだと思った。あたしが街に行っている間に、病状が急変して亡くなったんだって。
でもよくよく耳を近づけると、ヒュー、ヒューと、微かな息の音が聞こえた。
弱々しいけれど、確かに心臓の音も聞こえる。
坊ちゃんは、懸命に生きようとしている。
あたしは坊ちゃんを抱えて、急いで医者の元へ向かった。呼びに行く時間も勿体なかったし、少しでも目を離したら、坊ちゃんが壊れてしまいそうで、怖かった。
あれから、時間だけがだらだらと過ぎていく。
医者も看護師も大勢いるのに、事態は一向に好転しない。坊ちゃんは時折苦しそうに血を吐いて、意識の方はほとんどない。
誰も、坊ちゃんを救うことはできなかった。
そればかりか、無理だと匙を投げた医者は、自分まで感染してはかなわないとばかりに、逃げるように病室を出て行く。
看護師も同じだ。一応部屋の前まで来て中は覗いたけれど「ヒッ」と悲鳴を上げてそそくさと屋敷を離れていく。
何逃げてんだよ。
お前らの仕事は坊ちゃんを助けることだろうが。
さっさと仕事しやがれこのクズども。
汚い言葉が次から次へと出てきそうだったけれど、それを吐き出したところで何にもならないってのはわかってる。
あたしは死にかけの坊ちゃんを見下ろし、ぎゅっと拳を握り締めた。
最近の坊ちゃんは、比較的元気そうだった。
熱心に本を読んだり調べ物をしたり、割と好きなように過ごしていた。
だから油断してた。まさかこんなに突然、こんなことになるなんて思いも……――――いや、何言ったって言い訳にしかならない。
わかっていたはずだ。坊ちゃんは初めて会った時から重症で、いつも苦しそうだった。いつどうなるかなんて誰にもわからない状態だった。あんなに酷く放置もされていたんだから、その時点で寿命も縮めていたはずだ。
あたしは無力だ。
結局、あたしは何もできなかった。
「……男爵様が来られました」
その時、廊下の看護師がそう言いながら扉を開けた。
病室に入ってきたのは、酷く苛々した様子のアンカーソン男爵……つまり、坊ちゃんの父親だった。
「……こんな時に」
男爵は坊ちゃんを見下ろして、鋭く舌打ちした。
それから、あたしに歪んだ顔を向ける。
「いつだ」
「…………はい?」
「これはいつ死ぬのかと聞いている!」
心が、すーっと凍えていく。
ああそうか、そういやこういう人だよなと思いながら、あたしは「わかりませんよ、そんなこと」とそっぽを向いた。唇が歪んで、声が震えた。
この人は坊ちゃんの父親であり、あたしの雇い主だ。
それを忘れちゃいけない。
「はあ……全く。死ぬならさっさと死ねばいいものを」
「ッ……」
思わず顔を上げて睨み付けると、男爵はむっとした様子であたしを睨み返した。
「何だその目は。何か言いたいことでも?」
「…………………………いえ」
いえいえいえ……何でもありませんよそうでしょあたし。
落ち着け。感情的になるな。
このクソおやじとか、それでも親かとか、今あたしが口汚く罵って怒ったところで何になる。
あたしの今後を左右する相手に対して、わざわざ不利益なことを言うべきじゃない。
ぎゅっと唇を噛んで堪えた。血の味がして、うぇっと気持ち悪くなる。
このままクソ男爵に血唾を吐きつけてやりたい。そんな衝動に駆られながらそれも堪えたあたしは、とんでもなく我慢強くて忍耐強くて――……自分が自分で嫌になる。
男爵は「ところで」と苛々した様子で病室を見渡した。
「なぜ病院にいる。何かあったら医者を呼べと言ったはずだ。ここに来ることは許可していないぞ」
「この方が、早いかと思いまして」
「独断か。全く……こんな恥さらしを大勢の目に晒すなど、何を考えている。またおかしな噂がまた広まるぞ」
「……坊ちゃんの命の方が大切でしょう」
「は? 思ってもいないことを言うな。小汚い奴隷の分際で」
男爵は吐き捨てるようにそう言うと、扉へ向かった。
出て行く前にぴたりと立ち止まって、あたしを振り返る。
「……まあ、すぐに逃げ出さなかったことは褒めてやろう。こいつの世話をよくもまあここまで続けられたものだ。相応の根性はあるらしい」
「………………」
「しばらくは屋敷においてやる。葬儀屋に連絡しておけ。明日には葬儀をする。それがお前の新しい仕事だ。わかったな」
そして、病室を出て行こうとした。
どうやらあたしの首の皮は繋がったらしい。坊ちゃんがいなくなっても、あたしは雇い続けて貰えるらしい。
…………なのに、どうしてだか。
ふつふつと腸が煮えくり返って、仕方ない。
んなもんどうでもいいんだよって。今あたしのことなんてどうでもいいだろうがって。んなことより息子のことちったぁ心配できないのかって。
葬儀? それを今言うか? 坊ちゃんはまだ懸命に生きようとしてんだぞ?
なのに――――……葬儀だと?
ふざけんじゃねえよ。
脳裏に浮かんだのは、前世でベッドから何度も見た光景。
熱に浮かされて苦しんでいた時だった。父は、部屋をちらっと見ただけで、すぐに出て行った。きっと風邪が移るのが怖かったんだろう。いや、そもそも私がどうなろうと興味なかったんだ。
あの時の、大きくて冷たい背中。
手を伸ばそうとしても、届かない。父は一度だって私を見てくれなかった。
私は、ずっと求めていた。父親の愛を。
愛してほしかった。振り向いてほしかった。
ただ、手を握って傍にいてくれたら。
それだけで、私の心はどれだけ救われただろう?
きっと私が死んだ時も、父はこのクソ野郎みたいに、淡々と葬儀を指示したんだろうな。
……坊ちゃん。
あたしと坊ちゃんは境遇が違う。でも、親に恵まれなかった者同士、多少は通ずるところもある。
だからあなたの孤独も、悲しさも、私にだって、多少はわかる。
せめて、何も聞こえていませんように。
こんな残酷な父親の言葉。何の価値もない、クソみたいな言葉は。
「…………ふざけんじゃねえぞこのクソ野郎」
気づいたら、ずっと抑えつけていた激情が、口から溢れていた。
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