第6話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 3
「もうちっと美味い料理って言われてもなあ……お医者様からの指示なんだよ。こういうの作れってさ」
そう言って、下っ腹の突き出たシェフは困ったように頭を掻いた。
面倒くさいこと聞くなって顔に書いてある。
「でもほとんど食べてないんじゃ作っても意味ないじゃん。あんただって折角の食材をゲロにするのは嫌でしょ?」
「ゲロって……まあ、確かにゲロみてえだなとは思ってるけどよ。勝手に手ぇ加えてもしものことがあったら、俺らの所為になるんじゃねえのか?」
「今更容態が悪くなったって誰も何も言わないでしょ。今が最悪の状態なんだから。それより食べてない方が問題じゃない? 坊ちゃんってえーと……アレルギー? とかそういうのはないの?」
「それはねえけどよ……」
そっか、ないなら勝手に作ればいいか。
料理なんてしたことないけど、どんなに失敗したってあのゲロみたいにはならない自信がある。
あたしは適当にその辺の食材を手に取った。
そしたら、シェフは途端に血相を変えた。
「お、おい! 勝手に触るな! 今日使う食材もあるんだから――!!」
「えーケチ。こんなにいっぱいあるんだから少しくらいいいでしょ」
「良くねえよ! 奥様に叱られるのは俺なんだからな!? お前は坊ちゃんの世話だけしてりゃいいんだよ。ほら、さっさと出てけ出てけ!」
ドケチなシェフめ。
厨房を追い出され、あたしは仕方なく坊ちゃんの離れに向かった。
「ほんとムカつく。毎日毎日いいもん食べてるくせにさあ。あたしには残飯しか用意してくれないくせに。どうせお金持ちなんだから、一個や二個恵んでくれたっていいのにねえ」
そう言いながら、ポケットの中から艶々とした赤い林檎を取り出す。
今日のデザートにでも使う予定だったのだろう、高そうな林檎だ。
ガリ、と齧り付くと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「ああ、盗んだ林檎、さいっこう!」
――――――――
――――――――――――――
「て訳ではい! くすねてきたからど~ぞ~」
「誰が囓りかけの林檎を持って来いって言った!? シェフにマシなものを作らせるんじゃなかったのか!?」
「だって作りたがらないんですもん。あ、その林檎囓ったのあたしだから大丈夫ですよ」
「何が大丈夫なんだ!?」
坊ちゃんは嫌がって林檎を受け取ろうとしない。
けっこう大きな林檎だからあたしが二口三口囓っても、食べるところはまだまだいっぱいあるのに。
坊ちゃんは好き嫌いが激しいらしい。
「大体、林檎なんて硬いもの、どうやって……」
「ああ、そういうことですか。じゃあうっすーく切りますよ。皮も切った方がいいですかねー」
あたしはポケットからナイフを出して、シャリシャリと皮を剥いた。
剥いた皮はあたしのおやつにするから絶対捨てない。身の方をうっすーく切って、ベッドテーブルの上に置いた。
「これなら食べられます?」
「…………」
坊ちゃんは林檎をじっと見つめて、恐る恐る手を伸ばした。
枯れ枝のように細い手。所々火傷のように爛れている。こんなほっそい林檎の欠片なのに、持つ手はちょっと震えていた。
欠片の先っぽをシャリ、と囓って、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
吐き出すかなと思ったけど、暗かった目に、その時初めて光が宿った。
「…………美味しい」
坊ちゃんの目から、ぽろっと涙が零れた。
一口にも満たない、こんなほんのちょっとの林檎で。
さすがに驚いた。
あたしも前世ではほとんどベッドで過ごしていたけれど、食事にはもっとお金をかけてもらえていた。
いつもより体調のいい時に食べる食事は、最高に美味しかったことを覚えている。でも、泣く程じゃなかった。
あんなゲロ食続きの毎日を送っていたら、こうなっちゃうってことか。
「……いっぱい切ってあげるから、ゆっくり食べてくださいね」
坊ちゃんは驚いたように私を見た後、小さく頷いた。
それからと言うもの、厨房にゲロを取りに行くついでに、フルーツや野菜を二つ三つちょろまかすのが日課になった。
新鮮なのは何をつけなくても美味しいし、うっすーく切れば案外何でも食べられるらしい。
ずっと放置されていた所為で歯の方も悪化していたけれど、あたしが毎日磨いてあげてるおかげか、少しずつ良くなっていた。
最近はちょっと顔色もマシになってきている。
「こんなに毎日くすねてよくバレないな」
「すごいでしょ? あたしの特技」
「ろくな特技じゃないぞ」
あたしはトマトの皮を食べながら坊ちゃんの小言を聞き流した。
外の世界を知らない金持ちの坊ちゃんには、あたしの苦労はわからないでしょうよ。
ま、それは前世の私も同じだったんだけど。
たまに思う。
チャールズは、あたしのことが嫌いだったんだろうなって。
あったかい布団でぬくぬくと寝ていたあたしのことが、憎くて憎くて仕方なかったんだろう。
酷い顔色を化粧で誤魔化していたことに、彼は気づかなかった。
もしかしたら化粧には気づいていたかもしれないけど、化粧ができるほど元気なんだって思えば、憎しみは倍増したんだろうなと思う。
あたしはそれに気づかずに、いつも優しくて素敵なあの子に、馬鹿馬鹿しい恋をしていた。
黒歴史だあんなもの。
正直、今となってはどうでもいい。
「……どうした。変な顔して」
「はい? 変な顔? してました~?」
おどけてみせると、坊ちゃんは「気のせいならいい」とそっぽを向いた。
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