23.深夜のおしゃべり
あんまり見事な月だった。
小さくてまんまるい。
そのくせ中天で燦然と輝いている。
これが太陽の光を受けているだけなんて信じられないくらいだ。
「おいしそうだなー……いかんお腹減った」
あれからイオルは部屋を抜け出し、同じ階のベランダでまんじりともせず夜空を眺めていた。思わぬ睡眠妨害は思った以上に根が深く、目を瞑るだけではちっとも眠気がやってきてはくれなかったからだ。代打で空腹がやってくる。小さな宿だ、深夜の食事サービスなどは見込めるべくもない。不可能だと思えば思うほど、満月が今朝食べ逃した厚切りハムソーセージに見えてくるから憎らしい。
「やっぱりイオルだ」
イオルがまだ見ぬ夜明けの朝食を恋しく思い描いていると、背後から声がした。
「ん~……カナキ?」
イオルは振り返り、そして予想通りの姿を確認すると首を傾げた。
「どうしてここに」
「イオルの部屋からすごい音したから」
「あらぁ、それは失礼」
「気にしてないよ。おかげでイオルが部屋を出ていく音も聞こえたし……だからこそってのもあるしね? ほら」
そう言って、カナキはカップで塞がった両手を掲げた。
各々野営時に使っている個人用のものである。
「どっちが良い?」
「はて?」
「甘いのとしょっぱいの」
「しょっぱいの」
「だろうね」
返事の意味などあったのだろうか、ずいと片方を手渡される。
ぱかり、蓋がわりのコースターを取ると、ほかほかと湯気が立ち上った。さして聞いてないように渡されたイオル用のマグには、とろりと白いポタージュが月光を受けて照り照りと輝いている。匂いからしてじゃがいもだろう。ほぼ同じタイミングで、カナキの方からはココアの芳醇な香りがした。
ぐう、と胃袋が動く。腸が蠕動する。唾液がじゅわりと沁みだして、あっという間に準備は万端。
「よくわかったね、甘いしょっぱい問題」
「イオルはとりあえず最初は食い気でしょ、時間帯問わず」
「ぬ」
イオルが感心したように言うと、カナキは大した感動もなくしらりと返す。
若干の失礼さはあるがまったくの正解なので、イオルに反論する余地はない。
「ありがたく頂きます……」
おとなしくスープに口をつける。
とろりとしたテクスチャが舌をくすぐり喉を通る。
胃の腑に落ちて、熱を生む。
「……おいしい」
「そりゃ良かったよ」
じんわりと広がる温かさに、ほう、と息を吐く。
それから、同じくカップを傾けているカナキを見やる。
さらりと流れる黒髪も、満月みたいにぱっちりとしたまあるい眼球も。夜風に馴染む少し高い地の声も。紛れもなく夜属性だとしみじみ思う。人間だから、潜在的に闇夜は怖い。本能的に闇夜は恐い。けれどいつの頃からか、イオルはその存在を好ましいと感じる。
月明りの下で見る彼はあんまり『らしい』ものだから、なんだかどこか溶けていってしまいそうだ。ふらりとどこか飛んでいかないように、おかわり! と軽口を叩こうとして、ぶるりと僅かに身体が震えた。スープを身体に入れたせいか、余計に夜風が凍みたらしい。たった数ミリほどの身体のサイン。それをどう聞きつけたのだろう、ふわりとカナキの上着が包み込んだ。
「貸すよ」
「え? っ、いいよカナキだって寒いじゃん」
「と思うでしょ。こう見えて暑さ寒さには強いよ、ほら」
寄せられたむき出しの二の腕は、なるほど鳥肌もなく滑らかなものだ。それよりも、いきなり見せられた細く見えてその実きちんと筋肉を纏っている様だとか、そのくせやっぱり色白の肌の質感だとか、そういう男性と中性のバランスの妙がいやにどきどきする。咽そうになるのを、イオルは必死で我慢した。
「なんでか石の影響でね」
「へえ?」
「普通のディプシウムは結局『析出して持ち主を守る』のが本来の役割でしょ? 俺のはその本来の機能が極限まで引き出された石なんだとさ。だからこれも『持ち主を守る』の一環」
「『肉体の強化』も『持ち主を守る』の副次的な効果?」
「そういうこと」
「つよいこだ」
ふふふ。イオルは思わず笑みをこぼす。
だってとてもそうは見えない。
一昔前ならサナトリウムで本を読んでるのが似合いの容貌のくせして、蓋を開けてみれば極論冬でも半袖でぴんぴんしている近距離戦闘系健康優良児。凄まじいギャップである。
「えーっとその、いいんじゃない? ギャップ萌えはいつの時代も立派な武器だというし」
「本当に良いギャップだと思ってんのそれ」
「それがきゅんポイントになるかと言われれば……どうだろう……なんかちょっとベクトルが違うような……?」
「そこは素直に褒めなよ」
「ごめんよ」
「謝られても困るけど……正直者」
そう言いながら、カナキはマグの縁を指先で撫でた。
「――じゃあ、ついでにもう少し聞いてく?」
言葉のわりに怒っているわけではない。
吐息とともに形作られた、力の抜けた笑み。
「……うん。聞いてく」
「ああ、やっぱりクイズにしようかな。疲れたし」
半分ほど中身の減ったそれを手すりに置くと、姿勢を崩して頭を手すりに乗せる。
上目遣いになった赤い瞳。覗き込んでくるその角度。やわんだ目じり。
それらの全部が珍しくて、イオルの心臓が変なリズムを刻む。
当ててみなよ、と言ったその顔は至極穏やかで、どこか同年代の気兼ねない会話を愉しむ素振りだった。
「……っ、うー……。あっ、じゃあ暑さ寒さに強いってことは実は風邪ひかない、とか?」
「正解。馬鹿みたいな無茶しなけりゃね」
イオルが思いついたことをそのまま口にすると、カナキは嬉しげに目を細めた。
石が出てからは一度も引いてないよ、と注釈をつける。月光を受けて、唇からちろりと白い歯が覗く。それがあまりにもいけないものに見えて、イオルは努めて脳をクイズモードにする。
「要は健康っぽくなるように仕向けられていると……わかった、暴飲暴食できない」
「そう、この年にして食べ放題が少し鬼門」
「それはお辛い。ある程度身体を動かさなきゃ気が済まなくなった」
「ん、まあ……動き足りなかった日は寝る前にストレッチとか軽い筋トレとかはするようになったかな」
「からの、早寝早起き! ……ん? システム的にそうなりそうなのに違うじゃん」
カナキは大体にして朝が弱い。
今日だってイオルがもりもり朝食を咀嚼している間もぼんやりしていたはずだ。
「正解。健康優良児だから実はもう眠い……でもこればっかりは反抗するかな。多分一生」
「なんで?」
「本は夜読むのが面白い」
カナキが悪戯っぽく言った。
ああ、わかるかも。とイオルは思う。
夜更かしの楽しみを知ってしまったら、なかなか昼型の生活には戻れないのだ。
「ああ~……なんかこう、夜の方が没入感出るよね」
「文章が滑らかに入ってくる感じ」
「あるある」
「あるある」
二人同時に重なって、そしてふ、と笑いあう。
ああ変なの。苦しいのに、楽しい。
胸のどこかがカリカリ引っかかれて痛いのに、もう少し感じていたい。
明らかに矛盾である。
ほんの少し残った冷静な部分のイオルがそう思う。
世界は相変わらず大変で、今日だって大変で。
身体はボロボロ、追い打ちのように眠れずに更にドロドロ。
……なのに、この時間がもっと続けばいいと思ってしまうなんて。
でもそうだ、今宵は月の世界を見た後に、月の住人と月夜の邂逅。
出来すぎているではないか。役者が揃いすぎている。
イオルは可笑しくなって一人ひっそり笑う。
ならこれは半分くらい夢なのだ。だから半分は泡沫なのだ。
――だから、普段言えないような恥ずかしいことも言えるような気がした。
「あの、さ」
「……うん?」
「ありがとう、その……昼間。フィーのこと助けてくれて」
「何それ? むしろお礼言うのは俺の方じゃないの。治してくれてありがとうってさ」
「ううん。そりゃ治したのは事実だけど……それより先、助けてって思ったわたしを助けてくれたから」
あれはわたしを助けてくれたのも同然だったんだよ。
うまく伝わっているだろうか。
「なんか意外だったよ、咄嗟にフィー庇ったの。まあ助けてって思ってたわたしが言うのもなんなんだけど」
「ね、俺も不思議。キャラじゃないよ。……まあ、俺もあの攻撃が違う方向に逸れそうなのはなんとなく感じてはいた。さて何処へ行くかと思って見渡してたら、誰かさんがひっどい顔してたから」
「ひどい顔て」
「事実」
短く言い終えて、カナキがふと目線を外す。
動いた拍子に髪が瞳を囲っていって、少しだけ表情が見えづらくなる。
きっとちょっと恥ずかしいんだ。イオルはそう解釈する。
けれども決してぶすくれてはいなくって、はにかむような振動を感じる。
「……それでいいんだよ」
イオルはぽつりと呟いた。
思わず滑り落ちてしまったような、そんな声だ。
さらさらの髪の奥で、カナキの赤い目が見開くのが見えた。
「恥ずかしくなんてないよ。カナキの本当のところは……根っこがそうなんだ、きっと。ずっと一緒にいたわけじゃないけど、だからこそわかるよ。シュウと対峙した時だって、イヴナ山の道中だって、ローとフィーに初めて会った時だって……それだけじゃなくて、大体いつも気が付けばさ、カナキはわたしのことを助けてくれてるんだ。きっとわたしから見えてないところでも、シュウのことも助けてるんだろうなって今ならわかる。ツンとしてるからあんまり感じさせないだけで、ぱっと見そう見えないってだけで……カナキはヒーローなんだよ」
たどたどしく、つっかえながら、逐一言葉を選んだくせに出てくる言葉は明瞭でない。それでもイオルはカナキ・シュレイラの目の前で、訥々とカナキ・シュレイラを語ってみせた。カナキ・シュレイラを歌い上げてみせた。
(――こんな風に上着貸してくれちゃうところとかさ)
だけれどこれは、言わないでおいた。
こればっかりは自分だけに留めておきたいからだ。
稚拙な表現になったそれらに、でも懸命さは伝わったらしかった。
カナキはきょとんとした顔をして、それから。
「大概恥ずかしい奴……でも、ありがと」
密やかに、困ったように。しかし花開くように笑って見せた。
***
それからぽつり、ぽつり。
言葉を交わした気がするけれど、何を話したか定かでない。確かなのは、結局「甘いものも捨てがたい」と言って飲み物を交換してもらったことくらいだ。自分の胃袋の確実性が今だけはとてつもなく恥ずかしい。カナキはそれすらわかっていたように、きっちり半分残されたココアを差し出した。
「じゃあ、そろそろお休み」
イオルのマグを回収し、底に溜まった最後の一口を殊更ゆっくり飲み干してカナキが言った。
「あ、上着……」
「明日にでも返して。それから……」
ふわりとカナキの熱の気配がした。
顔の右側だけいやに温かい。
それほど近くに、カナキがいた。
「今日のことはシュウには内緒」
「……なんで?」
熱に浮かされたように言う。
何故だろう、いけないことをしている気分になる。
「なんでも」
「ずるいよ」
「……シュウは絶対からかってくるでしょ。俺はまあどうとでも流せるけど……イオルは平気?」
「……無理め、かも」
「でしょ。だから」
――秘密ね。
重ねるようにカナキが囁く。
抗議の声さえやけに甘ったるく響く。自分がどうしようもない阿呆になってしまったか気さえする。
「じゃあ、また明日ね」
カナキが去っていった後も、イオルは動けないままでいた。
眠れない自分に、彼が差し入れをくれただけ。
――それだけの夜を、それだけにしたくない自分がいるような、そんな気がした。
***
宵は一層深くなり、動くもののない空気は一等冴え冴えとしている。
澄んでいるのに深い夜だ。
イオルは深く息をする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
ようやく動きを取り戻す。
自由になった目線を動かすと、ふと手元にココアが残っているのに気が付いた。
(あの人が口を、つけていた――)
いけない方向に考えそうになるのを、首を振って振り払う。
回し飲み程度、何度もやってきたことだ。
イオルはそっと口をつける。
カナキの上着に顔をうずめて、
カナキのマグカップで、
カナキの淹れてくれたココアを。
こくりと一口、大事なもののように飲み干した。
熱の逃げたそれはひどく強く、純粋に舌を刺激する。
「…………あまい…………」
それは糖分で、深夜にはほとんど必要のないはずのエネルギー源で、えもいわれぬ甘露で、――それから赤い果実だった。
今にも弾けそうな赤い実を一つ、イオルの身体は悦んで迎え入れた。
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