第37話 生きるはずの君と死ぬはずの僕(3)


 電車を使い、全力で走って三十分。


 神崎の表札。

 目の前には二階建ての一軒家があった。


 そして――家の前に停車する一台の白い車。


 救急車。

 必然的に彼女の手紙が現実になったと雅人は悟った。


 さっきまでの燃え上がる熱量が一瞬にして冷めていく。

 呼吸が次第に落ち着いて行った。


 間に合わなかったのか。

 僕はどうしていつも肝心な時に何も出来ないのか。


 ここに救急車がある意味を雅人は理解する。


 家の扉が開いた。

 担架で運ばれる詩織。

 額に血が付いていた。


 青ざめる雅人の耳に野次馬の会話が入る。

 どうやら、詩織が階段から落ちたらしく、それを見た義母親が慌てて救急車を呼んだとのことだった。

 その会話が本当だとするならば、彼女は自殺を図った訳では無い。


 一瞬だけ、安心感が雅人を包んだ。

 しかし、油断出来ない状況は変わらない。


 その後、警察官に囲まれた義母親が出てきた。

 酷く義母親は混乱している。

 目撃して救急車を呼んだ割には、不審な態度に見えた。


「あの女が抵抗したから」

「あの女が自分で階段を落ちたのよ」

「私は悪くない」


 何度も何度も、自身を肯定する様に警察官に訴える。

 雅人は理解した。彼女こそが、詩織に暴力を振るう悪女であることに。

 見た目は、化粧の良い綺麗な女性だった。


 詩織の身体を見たからなのか、警察は彼女をパトカーへと連れて行った。


「親族の方はいらっしゃいますか?」

 ハッチバックを閉める前、野次馬がいる前で救急隊員は言った。


 担架に横たわる制服姿の彼女。

 雅人は衝動的に足を動かした。


「はいっ」

 雅人は手を上げ、救急隊員の前へと現れる。


 自然と身体が動いた。

 彼女の傍にいられるのは、僕しかいない。


「君は?」

 救急隊員は制服姿の雅人を見るなり、不思議そうな顔をする。

「僕は詩織の――」

 彼女の何なのか。頭で過る。

「――彼氏です」

 強気で言った。意地でも乗る理由を探す。

 これはその結果だった。


「おお、そうか。なら、心配だろう。――乗ってくれ」

 雅人の言葉に救急隊員は強く頷く。


 そして、雅人は救急車へと乗った。


 耳鳴りの様に響く救急車のサイレン。

 二人の救急隊員の声が小さく聞こえた。


 両手で詩織の右手を強く握りしめる。

 この思いが彼女に届けば良いと、強く願ってしまう。



 ―――



 気がつけば、雅人は病院の病室前の待合所のソファーにいた。


 どれくらい時間が経ったのか。

 時計を見ると、あれから四時間も経っていた。


「詩織は――」

 ハッとした顔で雅人は立ち上がる。


 僕は何を忘れていたのか。

 詩織がいるだろう病室へと雅人は足を動かした。


 雅人が病室の前へ辿り着く頃、ちょうど病室の扉が開いた。


 出てきたのは、白髪を生やした一人の医師。

 二人は呆然と見つめあう。


「――ちょうどいいや」

 雅人の表情に察したのか、医師は微笑んだ。

「ちょうど良かった……?」

 いったい何がちょうど良いのか。見当がつかなかった。

「君は神崎さんの――彼氏さんかい?」

「……まあ」

 面と向かってそう言われると、雅人ははっきりと頷けなかった。

「それじゃあ、説明しても良いね」

「説明?」

「神崎さんの症状だよ」

 そう言うと医師は雅人を病室へと誘う。

 恐る恐る雅人は病室へと入った。


 個室のベッド。

 目の前で眠る詩織。

 雅人はその光景を呆然と眺める。


「完結に言うとね。頭の打ち所が良かった。打ち所が悪ければ、即死だったよ」

 詩織を見つめる雅人の後ろで、医師はそう告げた。

「悪ければ――即死」

 身体に染み渡っていく絶望的な言葉。

 ゆっくりと眉間にしわが寄っていった。


 そんなもしもの世界。

 考えたら、また血の気が引いていく。


「でも、彼女は無事だった。やはり――」

 腕を組み、少し解せない顔で医師は首を傾げた。

「やはり――?」

 緊張感が漂う。

 彼はいったい何を躊躇っているのか。

「もしかすると、それは彼女の生きたいと言う願いがそうさせたのかもしれないね」

 医師は分析する様に淡々と告げた。


 彼女が生きたいと願った。

 その思いが、この結果を生んだのか。


「願い……ですか」

 復唱の様な言葉しか出て来なかった。

「奇跡。僕らはあまり、その言葉を使いたくないけどね。でも、後遺症も無くほぼ無傷なのは、そう言わざる得ないよ。――良かったね、彼氏くん」

 そう言うと医師は軽い足取りで病室を出て行った。


 夜空に照らされる病室。

 僕と詩織だけの世界。


「奇跡……」

 

 君が生きたいと願った奇跡。


 途端に涙が溢れた。


 こんなにも涙が出るものなのか。

 深々とした喜びが込み上げた。



 君が生きている。

 それだけで僕は幸せだった。

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