第14話 彼女との日々(9)
「最期に――。最期に、恋人が欲しかったの」
ゆっくりと彼女は振り向くと微笑んだ。
「恋人?」
とは――。
恋する思い人と書いて、恋人。
僕の聞き間違えでは無いだろう。
「ええ。感情はさておき……ね」
恥じらう様に視線を逸らし、詩織は俯いた。
「さておきなんだ……」
つまり、神崎は僕に好意は無い。
雅人は小さくため息をついた。
「《結果的》に肉体関係を築ける関係が欲しかったの」
恋人と呼べるのかはわからないけど。詩織はそう呟いた。
僕の言葉が聞こえなかったのか。
詩織は雅人の言葉に触れなかった。
「肉体関係……」
雅人は言葉を失う。
一回とは言え、僕らは肉体関係を持ったことは間違いない。
「それに今の私を理解出来る人は、あなたしかいないと思ったもの」
「……それは僕もだよ」
どうして互いに相手を理解出来ると思ったのか。
同じ目をしていること。
それくらいしか、明確な答えは無かった。
「それなら、私たちの関係は合理的なのかもしれないわね」
「合理的?」
僕の中に道理的も合理的も無いのだけど。
「あなたは私の身体。私はあなたの存在、時間。互いにその願いを叶えるため。――実に合理的でしょ」
突発的な彼女の提案。
「そう――だね」
結果的には、合理的かもしれない。
過程は道理的では無いけど、彼女の言葉は一理ある。
「あなたは私の身体を好きにしていい。――だから、私はあなたの時間を好きにして良いわよね?」
首を傾け、詩織は不敵な笑みを浮かべた。
「僕の時間?」
抽象的な言葉。
現実的に僕は何を差し出せばいいのか。
「私の好きな時間に会えること。――どうかしら?」
「好きな時間……夜中も?」
「ええ」
「それで僕は?」
さっきの彼女の言葉を再確認する。
「私の身体を好きに出来る。――良いでしょ?」
どこか自慢げな眼差しを向ける。
不思議と明るい雰囲気が漂っていた。
遊園地に近づく度、愉快な音楽と歓声が聞こえてくる。
今までは避ける様に過ごしていた。
煌めく様なその明るい音に。
だけど、その音は今の僕には不思議と不快感を与えていなかった。
「それって……どこまで?」
思わず立ち止まる。
その曖昧な境界線は明確にしなければならない。
――彼女のためにも。
「どこまでも無いわよ。ありのままの意味よ」
等価交換。
呟く様に詩織は言った。
好きに出来る。
狭い様で広いその言葉。
やはり、日本語は難しいのだ。
「……こないだのは?」
雅人は不安げな顔で再び足を動かした。
彼女とのイメージを共有するため、再確認する。
イメージの不一致は避けなければならないと、雅人は思った。
「許容範囲。あなたが望めば、それ以上でも」
自身を納得させる様に詩織はゆっくりと頷いた。
「それ以上……? どうなっても知らないよ?」
他人事の様に言う。
本人が良いと言うなら、本当に良いと思ってしまうのだ。
なにせ、僕は単純な男だもの。
大きな理由も無く、暗い気持ちになったから。
そんな理由で死のうと思うほど、僕は単純な男なのだ。
まあ、僕からすれば、そんな理由では無いのだけど――。
「別に構わないわよ。仮に――」
両手を後ろに組み、ゆっくりと彼女は歩くと、何食わぬ顔で続きの言葉を躊躇った。
すると、考え込んだ様に詩織は立ち止まる。
「仮に?」
雅人もつられる様に立ち止まった。
「仮に私が妊娠したとしても、それを私は知ることが出来ないもの」
無表情に近いその表情。
彼女ははっきりと雅人に告げた。
自身の中に新しい命が生まれる可能性。
それすら知ること無く、詩織は死ぬつもりなのだ。
「――――」
冷や汗を掻く様に雅人は言葉を失った。
投げやり様な感情。
いや、それとは少し違うかもしれない。
様々な可能性が脳裏に過った。
しかし、不思議と恐怖は無い。
僕自身、死ぬと決めているからだろうか。
僕も彼女と同じく、その事実を知ることは無いのだから。
「だから――あなたの時間を頂戴」
「……わかった」
彼女はその身を僕に捧げた。
当然、僕も彼女にこの時を捧げなければならない。
僕の時は彼女のために。
僕の最期まで、この時を君に捧げよう。
「それじゃ、行きましょう――雅人」
気持ちを切り替える様に詩織は微笑むと、軽い足取りで歩いて行く。
雅人。違和感が無く彼女は言った。
思い出す、恋人が欲しいと言う彼女の願いを。
彼女はどんな関係であれ、僕を恋人と認識した。
――これ以上に幸せなことは無いだろう。
「うん――詩織」
互いの最期を迎えるまで。
僕は君の恋人であろう。
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