逃亡
頭が一つ。腕が二つ。足が二つ。二本足で立ち、背筋がぴんっと伸びて直立している。体長は二メートルに届かないぐらいで、尻尾は生えていない。
それだけを述べれば、人間と同じ姿形だ。しかし実際の『そいつ』は、人間とは似ても似つかない姿をしていた。
服を纏っていない身体は、泡のように膨張した無数の赤黒い肉塊が全身を覆い尽くし、ぶくぶくと膨れ上がっている。膨れた肉塊は血管が浮かび上がり、表皮はパンパンに張った状態だ。今にも破裂しそうな見た目だが、膨れ上がった肉で出来た足はしっかりと大地を踏み締めており、歩いた程度の刺激では破裂していない。見た目に反して意外と丈夫なようだ。腕も大きく膨れ上がっていて、指も普通の人間の三倍はあろうかという太さがある。
これだけでも生理的な不安や嫌悪を感じさせるには十分な見た目だ。だが、その印象を何倍にも、或いは何十倍にも増幅させる部位がある。
顔だ。
頭部らしき部分に、人間の顔があるのだ。いや、顔らしきもの、というのが正確か。
顔の片側半分が膨れ上がって肉塊と化し、残る部分も焼け爛れたような状態になっている。瞳は左右どちらも残っていたが、肉塊に飲まれた方はカエルのように飛び出し、爛れている方は死んだ魚のように白濁していた。半開きの口の奥にヒダのようなものが見え、舌にはイボのようなぶつぶつが無数に生えている。
どう見ても人間の顔ではないが、しかし見れば見るほど面影を感じてしまう。例えるなら、人間の遺体をあれこれ弄り回して作ったような怪物のような風貌だ。
そのような存在を一言で言い表すには、果たしてどんな言葉を使えば良いのだろうか。生物と呼ぶにはあまりにも気色悪く、人間と呼ぶには冒涜的。ならば肉塊と呼んでしまいたいところだが……由美にはそんな逃げ道もない。
棒立ちしていた由美の方に、肉塊の怪物はくるりと振り返っていたのだから。間違いなくそれは生きていて、由美の姿形や物音に反応するだけの五感を持ち合わせているようだった。
「……………」
「……………あー、えーっと……」
目が合ってしまった由美は、戸惑いの言葉を返すのが精いっぱい。
人間の顔を持った、体長二メートルぐらいの肉塊状の生物。テレビでもネットでもそんな生物の話は聞いた事もない。勿論由美はこの世に存在する全ての生物を知っている訳ではないが、しかしこんな化け物がいれば、有名にならないなんて考えられない。
ならば一体何物だというのか。乱れる呼吸を整えながら考えて……やはり人間の顔がある以上、人間なのではないかと思う。
皮膚ガンやら突然変異で、こんな見た目になってしまったのかも知れない。そんな馬鹿な、漫画じゃあるまいし――――と現実的な考えが過る由美だったが、しかし段々と、その『非常識』な考えが一番現実的な可能性なのではないかと思い始める。
理由は、肉塊の怪物の手に『松明』が握られていたからだ。それも奇妙な。
松明と称したように、それは棒の先に布のようなものを巻き、そして燃やしていた。奇妙な点は、その炎が青い事。なんらかの炎色反応が起きているように見える。
一般的に動物は火を恐れるものであるし、何より松明という周りを明るくするための道具を使う知能が、この存在の頭にはある。由美の知る限り、そんな『動物』は人間だけだ。ならば人間と考えるのが一番自然であろう。
勿論、令和のご時世に松明なんて原始的過ぎやしないかだとか、いくら病気とはいえ裸で徘徊って普通に警察案件ではないか、等の考えも浮かぶ。しかし人間であれば、話し合いが出来る筈。
「こ、こんにちはー」
由美は引き攣る口許をどうにか動かして、出来るだけ友好的な挨拶を試みる。敵対的な反応を示すより、この方が向こうも落ち着いて行動出来るだろう。
一番避けたいのは、襲われる事だ。向こうがどんな人間か分からないが、こちらに敵意はない。邪魔する気はないのだから見逃してほしい。
果たしてこちらの気持ちは通じたのか。由美が見つめる中、肉塊の存在 ― 由美はひとまず『そいつ』と呼称する事にした ― はしばし考え込むように動きを止めていたが……
やがて『そいつ』は動き出した。
片腕を高々と掲げた、如何にも殴りかかってきそうな体勢。しかも全力疾走としか言えない速さで、由美目掛け駆け出すという形である。
これに敵意がないと判断するほど、由美は能天気な性格をしていない。
「ひぃ!?」
いきなり接近してきた怪物に驚き、悲鳴と共に由美は逃げ出す。
人間なのか、怪物なのかは未だ分からない。
だが友好的な存在ではないようだ。捕まったら果たして何をされるのか。正体不明故に想像も付かない以上、逃げるしかない。
反射的に逃げ出したのが良かったのか、はたまた『そいつ』の動きが鈍かったのか。いずれにせよしばらく走れば、『そいつ』の姿はすぐに見えなくなった。
だが、それと同時に新たな問題も噴出する。
「(あ、あれ? 私、今何処走ってんだ!?)」
日が暮れて暗く、しかも初めて訪れたため土地勘がない森を、がむしゃらに走り回ればどうなるか? 答えは明白で、由美はすっかり自分の場所が分からなくなった。
冷静であれば、ここで一旦立ち止まるという考えも浮かんだだろう。しかし全力疾走の疲弊が由美の頭を鈍らせる。加えて姿は見えなくなったが、『そいつ』から与えられた恐怖心が身体を無意識に突き動かす。
由美が立ち止まったのは、背後から足音が聞こえなくなってしばし経ってからの事だった。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……はぁ……ふぅ……」
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ます。落ち着きを取り戻してから、由美は辺りを見渡した。
そして大いに戸惑う。
がむしゃらに走り回って、自分の居場所が分からなくなったから? そうであればどれだけマシだっただろうか。少なくとも、山の中にいるのは間違いないのだから。
だが、今はその揺らぎようのない筈の事実すら曖昧になっている。
周りには木々が立ち並んでいた。しかしその木々の様相が明らかにおかしいのだ。幹がぐにゃぐにゃと曲がり、おまけに捻れている。しかも表面が青く、幹にある凹凸はまるで人間の顔のようになっているではないか。
おかしいのは樹木だけではない。下草も、葉が捻れながら伸びていて、おまけに色も真っ青だ。
この山の事を全て知っている訳ではない。地球上の植物を全て知っている訳がない。それでも、由美にらこの異様な植物達が地球上のものとは思えない。
いや、そもそもの疑問として……
「(なんで、草とか木がハッキリ見えるようになってるの!?)」
夕刻を迎え、辺りは刻々と暗くなっている。現在時刻は不明だが、帰ろうと思った時にはもうすっかり暗くなり始めていた。あれからしばし経った今、もっと暗くなるのが普通だ。いくら月や星が出ていようと、太陽より明るい筈がない。
ところがどうした事か。今では草木の輪郭がハッキリと見えた。勿論見えないより見えた方が良い。山の中にはたくさんの危険があり、それに気付かないというミスを防げるのだから。しかし原因が分からないと、何か良くない事のように思えて不安だ。
では、何が原因なのか。
単純に、周りが明るいからだろう。景色がハッキリ見える理由など他にない。
ならば夜が明けてきたのか? 確かにそれなりの時間逃げ回ったが、いくらなんでもそこまで時間は経っていないと由美は思う。精々十分かそこらの筈だ。しかし現に景色は明るい。
混乱したまま空を見上げる由美。偶然にも彼女の立っていた場所は、頭上に樹木の葉が茂っていない。それ故に彼女は自分の真上に広がる空を目にする。
不気味で、奇怪な大空を。
「ひっ!?」
目にした光景の恐ろしさに、由美は悲鳴と共に尻餅を撞いてしまう。
空は、青白く輝いていた。
それだけなら美しい光景と思えたかも知れない。だが違う。青白い空には無数の『目』が存在していて、地上をじっと見つめていたのだ。しかも目と称したが、人間の目とは異なる。白目がなく、黒目が大きく、瞳孔がぐにゃぐにゃと歪んでいた。
あまりにも異質な光景に、少しばかり落ち着きを取り戻した由美は目を擦り、それから空をまた見る。だが、浮かぶ目玉は消えない。むしろこちらに視線を合わせてきたような……そんな気がして、慌てて木の陰に身を寄せてしまう。
訳が分からない。此処が何処かも分からない。
まさかこれは、昨今アニメや小説でよく聞く異世界転移というやつにでも巻き込まれたのか。そんな馬鹿な、あんなのはただのフィクションではないか、異世界なんてある訳ない――――否定する言葉を心の中で呟けど、しかし人間の顔のように表皮が歪んだ樹木は消えてくれない。空から感じる視線も残ったまま。
仮に、此処が本当に異世界だとしたら……
「わ、わた、し、どうやって帰ったら……」
異世界からの帰還方法なんて、由美は知らない。彼女が読んだ事のある小説やらなんやらの主人公は誰もが大した苦もなく定住していて、帰ろうとする者など皆無だった。それもその筈、異世界から帰ったら物語が終わってしまう。あの手の話は異世界を楽しむためのものなのだから、エンディングを迎えるまで、或いは死ぬまで主人公を帰す訳がない。
そもそもこんな世界で生きていけるのか?
異世界転移でイケメン男子との逆ハーレム。もふもふ動物や女の子達とのスローライフ。そういう展開の漫画や小説は数多ある。だが考えてみれば、そうした異世界には一つの重要な前提が必要だ。
つまり、人間型種族が繁栄した、地球と大差ない環境である事。
しかし考えてみれば、地球の中ですら地域によって生物の姿は違う。熱帯雨林には気持ち悪い虫がたくさんいて、深海には意味不明な形の魚が泳ぎ、洞窟内には手足どころか目もないような生き物が歩き回る。異世界が地球と同じ環境とは限らないし、そこに暮らす生物が地球と同じような進化を辿るとは限らない。
異世界に来たとして、人間が生きていける環境なのかどうかが怪しい。そうだ、あの肉塊人間のような怪物も、異世界に生息するモンスターだとすれば説明が――――
「(違う違う違う! 異世界転移とかモンスターとか、それはフィクションの話! もっと現実的な考え……例えば……あ、あの怪物が持っていた松明! アレに変な薬が入っていたのかも!)」
非現実に逃避しようとする頭を振りかぶり、由美が考えた新たな可能性は『薬物中毒』。
あの肉塊染みた化け物が持っていた松明は、青白い炎を灯していた。なんらかの炎色反応だと思ったが、もしかするとその炎色反応を起こした物質は違法な薬物だったのかも知れない。一体どんな薬物なのかは皆目見当も付かないが、しかしその煙を吸った所為で幻覚を見ていると考える方が、異世界転移したと考えるよりも遥かに自然で合理的だ。
化け物の存在も、危険な薬を使い過ぎた結果だと考えれば……異世界のモンスターよりは遥かに現実的な……説明が付く。煙をちょっと吸うだけでこんなおぞましい幻覚を見るのだから、相当な劇物であろう。中毒になれば皮膚がぼこぼこ膨らむぐらい起こりそうなものだ。
だとすれば、やるべき行動は一つだ。山を一刻も早く降りて、病院に駆け込む。どんな薬物が使われたのか、どんな治療が必要なのか、そもそも治療出来るのか……何一つ確かな事は言えないが、山の中をうろうろ歩くよりはマシな筈だと由美は思う。
「(と、兎に角山から下りないと……)」
不幸中の幸いと言うべきか、今、由美の視界はとてもよく見える。夜中である筈なのに、まるで昼間のように景色はクリアだ。
何も知らなければこの異常事態にも恐怖しただろうが、薬物の可能性を思えば納得も行く。例えば覚醒剤を使用すると瞳孔が大きく開き、眩しさを感じやすくなるという話を由美は聞いた覚えがあった。それと同じような事が起きているのだろう。
薬物に汚染されたと思うと気持ち的に辛いが、お陰で森の中が見通せる。これなら崖で足を踏み外したり、木の根に躓いて転ぶ心配はない。
由美は早速、下山のため歩き出す事にした。
……唯一懸念があるとすれば、自分が何処にいるか分からないので、何処に向かえば良いかさっぱり分からない事だが。
「(うう……スマホがあれば、警察か消防に電話出来たかもなんだけど)」
不用意に山を歩き回る事が如何に危険かは承知しているつもりだ。しかし助けを呼べない以上、自分でなんとかするしかない。
幸いにして、この山は深く濃密な原生林という訳ではない。八十年前まで人が住んでいた山であり、少なからず外とも交流があった地域である。同じ場所をぐるぐると回らない限り、真っ直ぐ進めば存外早く森の外に出られる。山のすぐ傍に住宅地がある事は、住宅地から山に入った由美の記憶が保証する。
兎に角、何処かに向かって歩いて行こう。真っ直ぐに。出来れば、元来た道は戻らないようにしながら。
……辺りを見回しているうちに、どっちから来たか分からなくなってしまったが。
「……こっち、だよね」
感覚的に、こちらに行くべきだ、という気持ちになった方へと由美は歩み出す。
景色は未だハッキリと、明るく見えるため歩くのに支障はない。樹木の根っこなどの凹凸も軽々と乗り越え、快調に進む事が出来た。これなら順調に町まで行けると、少し気持ちが明るくなる。
しかし異変は、目に見える景色だけでは留まらなくなってきた。
着ている服が突如として、どろどろと溶け始めたのである。
「ひっ!? なん、なんなのこれ!?」
変な薬液を浴びたなら兎も角、どうして服がいきなり溶けるのか。困惑しながら、だけど裸になるのが嫌で無意識に両腕で身体を抱き締める。足も止まり、その場に座り込んでしまう。
だが、落ち着いて考えればこれもやはり幻覚だと思えた。
普通の森である筈の景色が歪み、不気味に見えるぐらいだ。服がどろどろと溶けたように見える事も起きるかも知れない。そう、冷静に考えればこれもまた幻覚の一種であり、慌てるような出来事は何一つ起きていないと分かる。
他にも、森から色々な『声』が聞こえてきた。
多くは呻き声のようなものだった。時折赤ん坊の泣き声のようなものも聞こえてきて、中には歌のようなものも耳に届いた。風で揺れる木々の葉擦れの音はなく、代わりとばかりに虫が蠢くような音が頭上から聞こえてくる。どれも心を震え上がらせるようなものばかりだが、幻聴の類と思えば恐怖心も薄れるというもの。ゲームや映画で流れる不気味な音楽を無理やり聞かされていると思えば、気分は悪いが耐えるのは難しくない。
慣れてしまえばどの現象も恐れるほどのものではない。全て薬物の影響だと説明出来るのだから。
――――或いは、説明出来てしまう、という方が正しいのだろうか?
「ち、違う違う違う違う違う。これは薬の所為だから、病院に行ったら治る、治る、治る治る治る治る……」
ふと脳裏を過ぎった疑問。それを否定するように由美はぶつぶつと呟く。
薬物による幻覚・幻聴。それが一番現状を説明出来るのは間違いない。少なくとも自分が異世界に転移したと考えるよりは遥かに。
だが、考えてみれば薬物による幻覚というのは、あまりにも『万能』の説明ではないか?
見えたもの、聞こえたもの全てが幻だ。そう言ってしまえば、あらゆる出来事が簡単に説明出来てしまう。それこそ路上で出会った全裸の変質者も、上司の嫌味な小言も、テレビで流れた大好きな有名人の失言さえも……全部幻で片付ける事が出来る。
しかしそれがやっぱり現実であると、認識するのは何故か? 自分は危ない薬なんてやっていないという主観的な認識しかないではないか。だからこそ統合失調症などの精神病を患った時、幻覚を現実と思い込み、自分は病気ではないと主張する。
脳で世界を認識している以上、人間は幻覚と現実を主観的に区別する能力を持たない。それは言い換えれば、幻覚を現実と思い込むように、現実を幻覚と思い込む事も可能だと言えてしまう。
自分の見ている景色は、本当に、偽物なのだろうか? もしも本当だとしたら、この先に進んだところで……
不安が次々と浮かんでくる。そんな訳がない、これが現実の筈がない……頭の中で繰り返し叫べども、それが突き付けられた現実を否定している滑稽な人間のように思えて、どんどん不安が強くなっていく。
心が、自分の考えに耐えられなくなる。
抑えきれない衝動が胸の奥から吹き出し、それを吐き出さずにいられなくなった由美は大きく口を開け――――
叫び出そうとした瞬間、目に入り込んだ『眩しさ』に怯んだ。
「きゃあっ!?」
反射的に思いっきり叫んでしまい、そして叫んだ自分の声に驚いて、由美は尻餅を撞く。
慌てて顔を上げたところ、木々の隙間から眩しい光が挿し込んでいた。
一体何の光だ、と悩んだのは一瞬。冷静に考えれば一つしかない。夜の自然界、尚且つ地上に存在する光に、眩しいと思うほど強烈な光を発するものなどいない。これは人工的な明かりの筈だ。
無我夢中に歩いているうちに、ようやく山の麓まで辿り着けたのかも知れない。しかしもしかすると、あの肉塊の怪物(のような薬物中毒者と思しき人物)が灯した松明という可能性もある。
どちらか分からない以上、警戒するに越した事はない。立ち上がった由美は近くの木に身を隠しながら、その光の正体を見ようとゆっくり顔を出す。
――――由美は最悪を覚悟していた。
勿論助かりたいが、希望が何もせずに現実となるほど世の中は甘くない。社会人である由美はその事を嫌というほど分かっている。そして物事というのは最悪を想定しても、その『最悪の想定』を軽々と乗り越えてくる時もあるのだ。
由美が悲鳴を上げなかったのは、想像以上の最悪と直面して頭が真っ白になったから。
光の傍にいる、無数の肉塊の怪物を目にするという形で。
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