25


 春なのに初夏のように暑い日だった。

 窓を開けていると校舎の陰になった中庭から冷たい風が吹きこんできて気持ちが良かった。

『宮田、何してるの』

 窓際の自分の席に座り、開いた窓から外を見ているとそう声を掛けられた。振り返れば同じクラスの名取佑真が立っていた。少し前に初めて話をしてから、よく喋るようになった。

『んー別に…、風が気持ちよくて』

 午後の授業がもうすぐ始まる。教室は昼休み特有の騒がしさで溢れていた。人の動く気配、話し声、女子たちの他愛のない笑い声…

『ほんとだ。ここ気持ちいいな』

『だろ、結構特等席』

 一週間くらい前に席替えをした。冬は窓際の一番後ろの席になり、名取はもう冬の斜め前の席ではない。

『いいね』

 机の上に置いていたノートが風でぱらぱらと捲れる。

 窓枠に頭を預けていた冬の顔のすぐ傍に名取は腕をついて下を見下ろした。

 間近にある気配。

 その体温に図らずも囲い込まれるようにされて、心臓がどきりとする。

 なんだろうこれ。

 名取からは甘い香りがした。

『宮田の髪って、…日に当たると色素無くなるね』

 冬の髪を名取はそっと摘まんだ。

 見上げると美しい笑顔がこちらを見ていた。



 人を殴ったのは初めてだった。

 鈍い感触。

 忙しない息遣い。

 激昂にくらくらする。

 自分がこんなにも感情を表に出せる人間だったなんて、冬は知らなかった。

 少なくとも今までは。

 指先が小刻みに震えている。

「……、た…」

 こめかみを押さえて名取は俯いていた。

 体をきつく拘束していた腕の力は緩み、冬はそこから逃れるように後退った。持っていた分厚いファイルホルダーが固い音を立てて床に落ちる。衝撃で挟んでいた書類が一気に外れ、紙が散乱した。

「おれは、おまえが好きだった…っ」

 肩が燃えるように熱い。押さえると濡れた感触がして、血が出ているのだと分かった。

「ほんとに、どうしようもないくらい好きだったんだ…!」

 靴の底で紙を踏む乾いた音がした。くしゃりと握りつぶすようなそれは、何かに似ている。

「だから、だからもう、我慢出来なくて…、出来なくて」

 あのときの気持ちを思い出しただけで息が詰まる。

 不用意に口にした告白。

「なんで…、っ、なんであんなこと言ったんだよ! 罰とかそんな、そんなんじゃなくて、そうじゃなくて…」

 初めから駄目なことは分かっていた。

 親友を──同じ男を好きだと自覚したときから全部分かっていたのだ。

 でもどこかで期待している自分もいた。

 もしかしたらと。

 でもそんな都合のいい考えはあのひと言で打ち砕かれた。

 胸を氷の刃で抉り取られたような痛み。心臓の奥深くに空いた穴はずっと、ずっと消えないでいるのに。

 けれど、今名取の言っていることが本当なら、あのとき自分たちは…

「おまえもそうだったんなら、そう言えばよかっただろ…! おれのこと好きだったなら──」

「──何言ってるのミヤ」

 俯いたまま、ふふ、と名取は笑った。

「僕がミヤを好き?」

「──」

「好きとか嫌いとかそんなのは何もない」

「な…」

「ただミヤは僕のものっていうだけだ」

 名取は顔を上げた。

 いつも笑っている彼の、その綺麗な顔からは笑顔が消えていた。

「…!」

 まずい、と思った瞬間にはもう距離を詰められていた。

 振り上げられた手で頬を強く打たれた。パン、と甲高い音に焼けつくような痛み、衝撃にくらりと眩暈がして、冬は机に倒れた。

「っ──」

「僕のものなのに、他の男を好きになるとかありえないよね?」

 机に突っ伏した冬の上半身を返し、名取は同じ頬をもう一度叩いた。

 奥歯を噛みしめて耐える。天井の蛍光灯の明かり、逆光の中の名取の顔は目を見開いていて、怒りも何もないような表情だった。

 怖い。こわい。

 誰か。

 誰か、

「ミヤは僕のものでしょ? ずっとそうだったのに」

「ゆ…っ、…!」

 同じ場所を何度も平手で殴られる。

 くらくらとする視界。

 見回りはまだ?

 いつもならもうとっくに…

 誰か、誰でもいい。

 だれか。

「ふ…」

 胸を抑えつける名取の手がぴくりとした。

「それ、あいつの名前?」

 しまった、と首を振った。

 知らず零れ出ていた。

 名取はスマホを取り出し、冬の写真を撮った。

「やめ…っ」

「ほらじっとして? 僕がつけた痕あいつに見せるから」

「い、やだっ、ゆう…やめろ!」

 肩をむき出しにされスマホをかざす。

 連続するシャッター音に冬は激しく抗うが、強く抑えつけられて思うように身動きが出来ない。

「っ佑真…!」

「これであいつもミヤに興味失くすだろうなあ」

「──」

「ね?」

 にっこりと笑う名取が滲んでぼやけていく。泣くんじゃない、と歯を食いしばって冬は名取を睨みつけた。

「もうキスなんかしてもらえないよ」

「…っ!」

 散々打たれてじんじんと痺れている頬を名取はそっと手のひらで撫でた。ぴくりと体が震えると、彼はくすりと笑った。

「ミヤはこれからもずっと僕のものだ」

 手のひらは腫れた頬と同じくらい熱かった。

 うっとりとした視線には、愛情などはなく、ただ物を見るような平坦な感情しか見いだせない。

 好きでも嫌いでもないと言った、名取の言葉の意味がようやく分かる。

 それはもう物を見る目だ。

 人を慈しむそれじゃない。

 所有物が自分の思い通りに動かないときのような──それと同じだった。

「おれは、おまえのものじゃない…!」

「なんで? 僕のだよ。だって僕を好きなんだから」

 そうじゃない。

 そうじゃないのに、伝わらない。

「…おまえなんか嫌いだ」

 笑顔で止まった名取に、冬はもう一度叫んだ。

「おまえなんか大嫌いだ!」

 痛みが頬に走った。なぎ払われるようにして、冬は床に倒れこんだ。目の前は自分の机だ。飲みかけの紙コップ、這いずって立ち上がりかけると、肩を掴まれ振り向かされる。

「そんなの許さないよ」

 そこには名取の顔があった。

「僕のものなのに、僕から離れようなんて許さない。そんな──」

(──あ)

 初めてだった。

 初めて、名取のそんな顔を見た。

 歪んだ顔。

 怒りで歪み、いつも笑っていた美しさはどこにもない。

 けれど。

 振りあがった拳がスローモーションで落ちてくる。

 誰かの足音、誰かの声、冬は手を伸ばし、紙コップを掴んで名取の顔目掛けて投げつけた。

「ッ!」

 名取がひるむ。

 茶色い液体がそこら中に飛び散った。

 緩んだ拘束から冬は逃げ出した。

 無我夢中でオフィスを出る。

 暗い廊下、誰の気配もない。

 追いかけてくる誰かの声は耳の中で遮断され、ただひたすら廊下を走った。

「冬!」

 滲んだ暗闇の中で蹲る。

 大塚の声が聞こえたような気がしたが、そんなはずはないと思った。


***


 エレベーターを降りると、フロアの明かりは落ちていた。

「最近節電とか言って、定時退勤の日は使ってるところ以外は消灯されるんですよ。こっちです」

 かけていたスマホを耳から外し、建部は言った。

「やっぱり繋がらないな」

「建部さんも今日はもう帰られたんじゃ?」

「ああ、部下のミスの修正の確認をしに…、うちデータを持ち出せないもんで、家では出来なくて。それに先方から再度──」

 そこまで言って建部は言葉を切った。

 大塚を見やり、し、と人差し指を唇に当てる。

 耳を澄ますその仕草に大塚も倣った。

 音がする。

 人気のないフロアの奥。

 何かの音。

 とぎれとぎれに聞こえる声は…

「あ、ちょっと…!」

 走り出した大塚に建部の慌てた声が追いかけてくる。

 あの声は冬だ。

 そしてもうひとり。

 音のする方に向かうとドアから明かりが漏れていた。

「冬!」

 押し開けて中に飛び込むと、名取の背が目に入った。

 その腕で机に抑えつけられているのは冬だ。

「おい! おまえ──何してるんだ!」

 大塚の声に名取が振り向く。

 駆け寄ろうとしたとき冬が名取に何かを掛けた。

 コーヒーの匂いがあたりに漂う。

 名取を引き剥がすよりも先に冬が逃げ出した。

 気がついていないのか、そのままオフィスを出て行ってしまう。

「待て、冬…ふゆ!」

 どこに行くんだ。

 床に抑えつけた名取が大塚の腕の下でくすくすと笑い出した。

「なんであんた、ここにいるんだよ」

「おまえこそ」

「すごいタイミングだ…あはははっ」

 そして丁度いいと言って、あたりを探ると落ちていたスマホを大塚に差し出した。

「なあ、これ見なよ」

「──」

 そこには冬が映っていた。

 そむけた頬が真っ赤に腫れあがっている。

 そしてシャツははだけ、むき出しの肩には血が滲んでいた。

 激しい嚙み痕に大塚は顔を顰めた。くく、と名取が喉の奥で嫌な笑い声を上げた。

「ミヤに僕の痕をつけてやった」

「おまえ…!」

 肌を噛み破られる痛みとはどれほどのものだっただろう。

「僕のものに手を出しやがって! あれは僕のだ! 僕だけの──」

「黙れ!」

「僕のものなんだ!」

 歪んだ笑いに怒りが湧きあがった。その横顔を思いきり殴りつけたいのを大塚は必死に我慢した。胸ぐらを掴み上げた腕がぶるぶると振るえる。

「何がだ! 冬はおまえのものじゃねえ! 誰のものでも──人を物のように扱うな! あいつはおまえの玩具じゃねえんだぞ!」

 名取が一瞬息を呑んだ。

「てめえは最低だよ」

「うわ、ちょっとこれは──」

 建部の驚いた声が聞こえ、大塚は名取からスマホを奪った。名取を勢いよく引き起こし、建部に押し付けた。

「暴行だ、警察を呼んでください」

 奪ったスマホを建部に渡す。

 画面を見て建部はぎょっと目を丸くしたが何も言わずに頷いた。

 大塚はそれを見てオフィスを出た。

 出て行く大塚を見送ってから、建部は名取を椅子に座らせた。

 抵抗もせずに椅子に大人しく座った名取に、建部ははあ、と深く息を吐いた。

「で、なぜ名取さんがここに?」

 名取は答えなかった。

「説明もなしですか」

「……」

「覚悟しろよ、この代償は高くつくぞ」

 まさかこんなセリフを二度も言うとは思わなかった。

 建部はもう一度ため息を吐くと、自分のスマホを取り出して電話を掛けた。


***


 大塚は暗い廊下の先を進んだ。

 どこもかしこも明かりが落ちている。廊下の真ん中にある非常灯が唯一の明かりだ。

「冬?」

 きっと大塚に気づいていない。

 混乱し、怯えていた。そんなとき、逃げるとしたらどこだろう。

 暗がりにまぎれ、身を隠すのなら?

 耳を澄まして気配を辿る。後ろでは建部の声がかすかに聞こえていた。

 廊下の先に何かがある。

 大きな鉢植えの陰。

「……」

 とりあえず身を潜める場所…

 ゆっくりと大塚は歩いた。



 来る。

 近づいて来る足音に冬は身を縮めた。隠れるところなんかどこにもなくて、暗闇にまぎれるしかない。

 浅く繰り返す息。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 おれが──好きになりさえしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。

「…う…」

 何度もぶたれた頬が痛い。口の中が切れていて、血の味がする。

 あの手に殴られた。

『ほら、またふらついてるよ?』

 体幹が弱いのか、重いものを上手く持てない冬をいつも名取は支えてくれた。

 貸して、と言って持ってくれる手が優しくて好きだった。

 好きだった…

 恋愛とは別に友人としても名取を好きで、名取も自分を友達だと思ってくれていると信じていた。

 でも全部違っていた。

 名取が冬に向けていた視線は、全部──

「…冬?」

「──」

 ここにいるはずのない人の声がする。

 そんなはずない。

 冬は身を固くしてさらに体を小さくした。

 昔母親から隠れるために、よくこうしていたとなぜか思い出した。

 あの頃は体が小さかったからどこにでも隠れられた。

 でも、もう無理だ。

「冬」

 びくりと体が震えた。

 でも、違う。この声は名取じゃない。

 名取じゃ…

「冬、…見つけた」

 はっきりと聞こえたその声に今度こそ冬は顔を上げた。

「え…」

 大塚がそこにいた。

 冬を見下ろしている。

「よかった。大丈夫か?」

「な、んで…」

 こんなところにこの人がいるのだろう。

 ああ、と大塚は笑った。

「色々あったんだ」

 そう言ってゆっくりと腰を下ろす。大塚の手が腫れた頬に触れた。ずきずきと痛いそこにひんやりとした大塚の手は気持ちが良くて、張り詰めていた気が緩んでいく。そっと撫でられると、我慢していた涙がぽろりと落ちた。

 大塚が困ったように目尻を下げて微笑んだ。冬の頬を両手で包み込む。

「いつも…、見つけるたびに目が真っ赤だな」

「…え?」

 何のことだろう?

 ぼんやりと視線を合わせると、大塚が柔らかく唇を重ねてきた。

 そうして建部が探しに来るまで、強い力で抱き竦めたまま、大塚は冬を離さなかった。


***


 いつも、見つけるたびに冬は泣いている気がする。

 その赤い目はまるで兎のようだと大塚は思った。

 重ねた唇から愛が溢れていく。

 どうやって伝えよう?

「…ん…」

 でも今はまだ。

 抱き締めた腕の中の温もりに心の底から安堵していた。指先が震えていることに気づかれたくなくて、強く抱いた。かすかな血の匂いに泣きそうになる。

 大塚は建部の声が聞こえてくるまで冬を離すことが出来なかった。


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