5





 ぱたぱたと近づいてくる足音。

 嫌な音だ。

「先生」

「……」

「せんせ」

 嫌な呼び名だ。

 返事をしないでいると、また先生と言われた。

「せーんせい」

 おかしな節をつけて呼ぶ声に大塚はゆっくりと振り向いた。

「おーつかせんせー」

「…その呼び方やめてくれないですかね」

 愛嬌のある顔がきょとんとした。

「え、いいじゃないですか」

「よくないね」

「どうしてー? 立派な先生じゃないですかあ、ほらー」

 どこからどうみても、と上から下までを指差されて心底嫌な顔をした。

「白衣着てたら誰でもそうでしょうが」

「その白衣最高」

「俺のじゃないですがね」

「田野口先生よりよっぽどお似合いですよーぴったり」

「それ減給ものでしょう」

「そんなことしたらぶん殴りますよ」

 怖え。

 長く勤めているとこういうふうになるのか。

「そりゃ大変だ…」

 大塚は机の上にあった煙草を手に取り、火をつけようとして内心で舌打ちをした。まがりなりにもここは医療施設だ。

 煙草を吸ったら最後、天井から水が降ってくる。

 ここは外に出るのが早い。

 小言からも逃げられる。

 よし、一石二鳥だ。

「どこ行くんですか」

 立とうとした瞬間、鋭い声に背中を刺された。

 大塚はデスクに手をついた格好でぴたりと動きを止めた。

「ちょっとそこまで」

「また煙草」

「さーあ…」

「煙草でしょ」

 とぼけるとじとりとした視線を背に感じた。だが今に始まったことではない。大塚は背筋を伸ばした。

 軽く伸びをする。

「ま、患者もいないし」

「またそんなこと言って」

「まあまあ」

 ポケットに煙草とライターを入れ、彼女の横を通り部屋の出入り口に向かう。そこにドアはなく、薄いカーテンが垂れ下がっているだけだ。それも常時開け放たれているのでプライベートも何もない。

 よくこんなところにあいつはいるな。

 わざと首を傾げて彼女は言った。

「今患者さん来たらどうしますー?」

「待たせときましょう」

「ちょっと!」

「五分くらい待てますよ」

「先生!」

「すぐ戻ってきますって」

上目に睨むそれににこりと愛想笑いを返しておく。大塚はひらひらと手を振って、作業部屋と呼ばれているそこを出た。廊下奥の突き当りの非常口までゆっくりと歩く。窓の外は暗い。

 夜なのだ。

 鍵を差し込んでドアノブを回し、軋む非常口を開けた。鍵を抜いてポケットに放り込む。非常口に鍵を掛けたら、本当の非常時にはどうしたらいいのか。

「…やれやれ」

 久しぶりに嗅ぐ病院の独特な匂い。

 ビルの上の階から続く階段の踊り場で、手すりに寄りかかって大塚は煙草に火をつけた。若いころからのヘビースモーカーが災いして電子煙草では物足りなく、未だに紙でしか満足出来ない。

「……──」

 肺を煙で満たし、惜しむように吐き出していく。夜の暗さに白い煙は昇り、やがて溶けていく。

 奥まったビルの狭間、谷間のように建つビルとビルの隙間から、大通りの明かりが見える。その明るさのぎりぎり届く場所より奥は、また違った明るさに満ちていた。夜の街特有の、ネオンの光。

 路地を歩く人のざわめきが聞こえてくる。

「おっと…」

 手すりに手首がぶつかり固い音がした。見れば腕時計を嵌めたままだ。今夜はまだ誰も訪れていないから気がつかなかった。

 煙草を口に咥え時計を外す。針は二十時を指していた。

 二十時か。

 まだ二十時。

 夜は長い。

 これから0時までここにいなければならない。

「…ほんとに来るのかよ」

 もともとここにいるはずだった友人の田野口は、夜には驚くほどたくさんの人が来ると言っていた。平日の昼間に行くことのできない人達が明かりに吸い寄せられる虫のように、光を求めて来るのだと。

 虫ねえ…

 その言い方はどうなのかと大塚は思った。確かに自分も昼間は働いている。朝早くに出て夜遅くに帰り、どこか具合が悪くても忙しいと見て見ぬふりをしてやり過ごすのが常だ。そして大抵はそれでどうにか治まってしまう。でも、もしも真夜中に、具合が悪化してしまったら…

 幸か不幸か自分は医療を学んだが──好きか嫌いかは別として──、知識がなかったなら、やはり誰かに助けて欲しいと願うだろう。

 藁にもすがる思いでやってくる人達を虫に例えるのはいかがなものか。

 田野口は悪い奴ではないが良い奴とも言い難い。

 良くも悪くも医者なのだ。

 ドロップアウトしてしまった自分が異端なだけだ。

ひやりとした風が吹き、大塚の髪を乱す。手すりに肘をついて下を覗き見れば、建物の間の路地を行き交う人の頭が見える。

「──、…ん?」

 大塚は目を細めた。よく見ようと胸ポケットから眼鏡を出して掛ける。

 何だ?

 向かいの建物の陰に誰かがいる。

 ビルの出入り口の明かりに、ぼんやりと浮かび上がる人影。

 よく見ればスーツを着ているのが分かった。男。

 酔っぱらいか?

 いや、まだそんな時間でもない。

 通行人が気づいて振り返り、立ち止まる。大丈夫か、と問いかける声がして、しかし返事はなかった。通行人は首を傾げつつ去っていく。大塚はそれをじっと見ていた。

 通行人が行ってしまった後、男は顔を上げた。ゆっくりとした動きで壁に手をついて立ち上がろうとしたが、またその場に座り込んでしまった。

 これは。

「──」

 大塚は煙草を足元に捨て、ぎゅっ、と内履きの底で踏みつぶした。非常口を開け、そこから大声で叫ぶ。

「松本さん、ちょっと下降りますよ」

「ええ?」

 小さな受付から彼女は身を乗り出して声を上げた。

「下って、ちょっとどこ行くんですかあ!」

「下、下」

「はあ?!」

「すぐ戻りますって」

 殴ろうとでもしたのか右手を振り上げた松本ににこりと愛想笑いを返すと、大塚は非常階段を駆け下りた。

 三階から地上に降り、道幅の狭い路地を大股で横切る。大塚を見て道行く人がぎょっとした顔をする。

 だが大塚は構わなかった。

「おい、ちょっと…」

 大きな声を掛けると男の肩がぴくりと動いた。

 男は両手で顔を覆っていた。細身の体、若そうだ。

 大塚は彼の前にしゃがみ、道路に膝をついた。顔を覗き込む。

「大丈夫か? 具合が悪い?」

 出来るだけ近づいた。

 酒の匂いはしない。

 小さなうめき声がした。

「痛いのか? どこが?」

 顔を手で押さえたまま、のろのろと彼は顔を上げた。指の隙間から固く瞑った瞼が見える。

 頬?

 喧嘩?

誰かに殴られたのか?

「………、…は、が」

「ん?」

「……は」

 ぎゅっ、と固く閉じていた目が開いた。

 痛みに潤んだ瞳は暗がりでも分かるほど赤い。

 その目からぽろりと涙が落ちた。

 ──あ

 大塚は息を呑んだ。

「歯が、痛くて…」

 一瞬、何を言われたかわからなかった。

「は?」

「歯が、急に…」

「歯?」

「は…」

 はい、と言ったのか歯と言ったのか、小さくつぶやいた彼はまたうめき声を上げると顔を覆って下を向いてしまった。

 大塚はじっと彼を見つめる。

 …ああ

「とにかく、おいで」

「…え?」

 二の腕を掴んで立ち上がらせた。彼の傍にあった鞄を持ち、ゆっくりと歩くように促す。

「今日は俺がいてよかったな」

「え、…どこ、行くんですか」

「そこ」

 大塚は彼の腕を引きながら目の前のビルを顎で示した。

「ここの三階で夜間診療所をやってる」

 道を横切りビルの入り口に回った。さすがに非常階段は昇れないだろう。

 正面玄関の自動ドアをくぐる。目の前のエレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。先に入れようと彼の背を支えそっと押す。

「……あ」

 下を向いていた彼が何かに気づいたように立ち止まった。

「…、スリッパ…?」

 彼の視線は大塚の足に落ちていた。

 裸足の指先が見える、いわゆる便所スリッパというやつだ。

 なんだかおかしくなって大塚はくすりと笑った。

 そうだ。

 間違いない。

 明るいエレベーターの中で確信した。

 まさかまた会うなんて。

 こんなところで。

「これ楽でね」

 エレベーターの扉が閉まる。

 そういえばこれで煙草を踏みつけたんだった。

 まあいいか、と大塚は三階のボタンを押し、スリッパの底をリノリウムの床に擦り付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る