春告鳥は君のため舞う ー 8
「っと、あっ」
けれど、父さんがビールのグラスを倒した声はきこえた。
「あらら、浩史さんったら珍しく酔っちゃってるんじゃない?」
「はは……ごめんごめん。照幸、悪いけど台拭きを取ってきてくれないかな」
「わかった」
手をついて俺は、立ち上がろうとした。立ち上がろうと、した。
下半身に電撃が走る。
「はうぁっ」
「ど、どうしたのテル!?」
「足が、足が……筋肉痛です」
腰が砕ける、という経験を十九年生きてきて、初めて味わったかもしれない。
「仕方ないわね、私がとって来るわ」
「やだ春菜ちゃん、私が行くわよ」
「いーのいーの。勝手知ったる三山家の皆さんにもてなされてばかりじゃ、私の流儀に反するわ。これくらいならお任せあれよ」
俺の代わりに春菜が台所へ引っ込んでいった。
「春菜ちゃん、良い子に育ってるなあ」
「ビールをこぼした父さんが言える事か」
「代わりに行かせた照幸が言える事かしら」
父子共々、面目ない。
「けど本当。今のところは合格ね」
「合格って、何のことだい?」
母さんは肩をすくめながら非常に悪い顔でささやいた。
「あなたのお嫁さん」
飲んでたお茶を噴き出した。
「気が利くし、所作もしっかりしてるし、それに美人だし」
「…………」
「どう、昔は二人ともずっと一緒だったし、お似合いだと思わない?」
「たしかに。今日は二人で一緒に散歩してきたんだろう? 青春してきたかい」
「照幸のことだからきっと凄いわよ。まだ夏でもないのにアバンチュールね。よっ、この女ったらし!」
ねぇよ、酔っ払いども。母よ、あなたは一体おいくつですか。父さんも父さんで楽しそうに口元を緩めている。
「照幸的にはどうなの、ねえ、春菜ちゃんのこと。可愛いと思わない?」
「足が痛い」
「え、あぁ、うん」
渾身の渋面で言ったから、この色惚け夫婦の馬鹿話は瞬く間に鎮火した。今の時代で香る悪習につきあってられっか、田舎者め。
そこにタイミングよく春菜が顔を出してきた。
「お待たせ。ごめんごめん、台拭きどこにあるのか聞いてなかったから探すのに手間取っちゃった、えへへ」
父さんと母さんのお礼にいちいち丁寧な返事をしながら、手際よく円卓を拭き上げていく。春菜の細い指が台拭き越しに円卓をなでるたび、アルコールの苦い匂いがたちのぼって俺の鼻をついた。
「ありがとな、春菜」
「なぁに、お安い御用よ」
と言いながらも、自分の手についた酒の匂いが気になるらしい。座りなおしてからは、手をどことなくせわしげにそわそわ動かしている気がした。
「それにしても足が痛くなるほど歩くって、どこまで行ってきたのよ」
母さんが言った。
「大したところには行ってない。単に町内を一周。田圃を突っ切って丘の公園まで登ってから、川沿いの桜並木までぐるっと大回りしてきただけ」
「おやおや、結構それは歩いたんだね」
ええ、とても疲れましたとも。
「そうだ、ねえテル。あの神社のこと聞いてみたら?」
「あれか」
あの水道水が通っている古びた神社のことか。すっかり忘れていたが、春菜はそんなに気になっていたのか。
その前にと、俺は両親に昼間の大冒険譚を一通り語(る春菜に適当な補足説明を入れ)って、そして神社について聞いてみた。
「うーん、あの丘の神社かあ……僕も詳しくは知らないなあ。少なくとも僕が子供の時からあそこにあったよ」
「浩史さんが知らないなら私もおんなじ。地主(じぬしの)神(かみ)っていうのは分かるんだけど」
「そっかぁ」
二人の言葉を聞いて春菜は肩をおとした。
「なーんか気になるのよね。あのお社……」
「歴史が、か?」
「そう、それもだし、あと……神様の名前とか」
「神様の名前」
「アメノホヒノミコトっていう神様を祀ったお堂が来る途中にあったじゃない?」
アメノホヒノミコト……? あぁ、バス停から我が家への道中にある小さなアレか。俺自身、あそこの神様を認知したのは恥ずかしながら今日が初めてだ。
春菜に無理やり解説看板を読まされたので、おぼろげながら覚えている。
「この町を見守っている神様なんだから、こっちも神様の名前くらい知っておかなくちゃ何だかかわいそうに思うの」
「かわいそうとな」
「うぅん、語弊があるかな……けど、守られてばかりじゃ悪いって気がする」
ほお。これまた面白い考えを聞かせてくれる。
守られてばかりじゃ悪い、か。神様に対してそんなふうに思うなんて俺には考えつきもしない発想だ。義理堅いやつなんだな。
そうだ――と、父さんが口を開いた。
「それなら今度、おばあちゃんに聞いてみなよ。ずっとこの町の歴史を見てきた生き証人だから知ってると思うよ」
祖母の妙子おばあちゃんか。たしかに妙子おばあちゃんなら何でも教えてくれそうだ。我が祖母は現在、高齢者福祉施設で生活している。
電車の窓から見えた、あの老人ホームだ。
「それがいい、今度お見舞いに行ったときに聞いてみよう。それでいいだろ、春菜」
「うん、うん! 私も妙子おばあちゃんに会いに行く!」
祖母と春菜の仲も両親と同じくであり、もはや説明不要だろう。昔はよく祖母に手遊びとかを習いに来ていたものだ。これで神社問題は解決に向かう事であろう。いいヒントをくれた父に感謝を。
「どうも、だんだん」
「あらっ、博多弁ね」
覚えた単語はすぐに使っていけば、頭に定着して忘れにくくなる。受験生の必須スキルだ。
「だんだん」
母さんも復唱し、「言ってみると確かにかわいい響きね」などと笑う。
「だんだん」
父さんもほろ酔いの悦に浸りながら繰り返しては、ご機嫌にほほ笑む。
「…………」
「どうした春菜」
春菜がなぜか何もしゃべらなくなった。ただ微笑を浮かべて卓上に置いた手同士をやさしく重ねている。
「いいね、家族って」
と聞こえた気がしたが、父さんと母さんがバックで博多弁トークで盛り上がり始めていたため、想像でそう言ったものだと推測した。
東京に帰って来てから一人暮らしをしているのだ、感傷を覚えてしまうその気持ちは察せぬわけでもない。寂しい思いをするのは当然のことだろう。我が家は昔と変わらず春菜を家族のように思いやっている。機会があれば、積極的に招くようにしてやるか。
「まあ、しかしあれねえ。照幸が入学した先に春菜ちゃんもいたって、すごい偶然よね」
「そうよね、テルはどうして芸学大に?」
俺だけでなく両親にも聞いているのだろう。芸学大は、東京芸術学院大学の略称だ。黙っていてもおしゃべり好きの母さんが話してくれそうだが、自分の事なのでやはり己の口から言うのが道理だろう。
「芝居が好きだったから。以上」
「……それだけ?」
「これ以上に単純明快な理由説明があるか」
「照幸は高校じゃ演劇部の部長をやってたんだよな」
父さんが言葉を挿した。春菜が父さんと俺を交互に向いて驚いた顔を見せる。
「えっ、ヒロシおじちゃん本当! テル、そうなの?」
白菜を口に運びながら答える。
「部員は俺一人だったがな」
二年前まで、俺は高校の青春を芝居にささげてきた。しかし田舎の無名学校に通っていたため生徒数自体が多くなく、華やぎに憧れを持たない者ばかりが在籍していたから文化系の部は少なかった。
まあ、たった一人の演劇部なぞ、全国を探せばいくらでもあると思う。大した実績を遺すことなく役目を終える部長も、少なくないだろう。
「でも、どうしてお芝居を好きになったの?」
薄い唇がまたもこちらを向いている。芝居を好きになった理由か、それは至極単純な経験がきっかけに過ぎないのだが、言うにはやや勇気が必要だと思われる。なぜなら過去の俺は今の俺と違うのだから。
「いずれ話す」
「えぇ、そんなあ」
「ごちそうさまでした」
「テル片づけるの早っ!」
自分の食器を運ぶ後ろで春菜がいろいろと派手に騒いでるみたいだが、気にせず台所のシンクへと向かう。自分の過去に興味を持たれても今の自分ではどうしようもないし、それに……語るまでもない記憶は思い出すまでもない。
皿を洗い終えて居間に戻ると、三人も食事は終えているものの、まだ談笑に花を咲かせていた。三人なのに場が騒がしく思えるのは、テレビがつけられているせいだろう。
「おぉ、テル。おかえりなさい」
「やぁやぁ、どもども」
アルコールでほろ酔い気分の父さんはいつもより上機嫌なご様子だ。母さんと結婚するくらいだからこの恵比寿さまのような顔の男性もまた、根が明るい性分を持っている。
さっき座っていた所に着席しなおし、テレビに目を遣ってみる。それは歌番組のようで、きらびやかな照明の下、一人の男性が歌を披露していた。
「この歌手、最近よく出てくるなぁ」
「知ってるの父さん?」
そもそも俺はテレビをあまり見ないから、知らないのも当然だ。舞台事情に明るくなかった父さんと同じように、俺もテレビに映る芸能界に疎いというのは仕方のないことだ。
「僕が三十歳すぎたくらいかな、当時の歌番組に彗星のごとく現れ大ヒットした人だよ。多分父さんと同い年くらいかな」
「ほーん」
「あんまり興味ない?」
無くもない。歌は確かにうまいから聞き入っているだけだ。それに、実にいい顔で歌っている。歌うことがそれだけ好きなのだろうが、まあここまで上り詰めてくるのだから嫌でやってるはずがないか。
詩的な歌詞もきらいじゃない。頬杖をつきながらぼけぇっと聞き流していたら、母さんが突然手を打った。
「そうだ!」
びくっと肩を上げた春菜の方にその視線は向けられていた。
「な、なに!?」
「春菜ちゃんの歌も聴いてみたいな~?」
俺の顎が頬杖からずり落ちた。
「ちょ、ちょっと何を言い出すのよマイちゃん!」
「だって折角来てるんだし、成長ぶりも見ておきたいわよね。ねぇ浩史さん?」
「そうだねえ、僕も春菜ちゃんが歌ってるとこ見てみたいなあ」
目を真ん丸に見開いてパチパチまばたきをする春菜は本当に驚いているようだ。
「……恥ずかしいな」
場の流れを自分で作ってでないと歌えない女優さんはためらっている。さっきも自らを追い込んで歌わざるを得ない気持ちを作り上げていた。まったくの不意打ちで面食らっている今、それをもう一度やれと言われているのだ。
充分聞かせるに値する歌唱力なのに、そこはどんと自信を持って欲しい。
と、言われたとしても俺ならそれでも無理だと断る。アドリブがきかないのはこいつも同じらしい。心中をお察し申し上げる。
「ほぉう、俺にさんざん言っといて自分はそれか?」
だが、煽らないとは言ってない。今日一日連れまわされた分のお代は、この最高に馬鹿にした顔で支払おう。受け取れ。
「なんですと!」
素直な春菜に俺の煽りはてきめんした。
「いいわ、マイちゃん、ヒロシおじちゃんに聞かせてあげるわ。私の歌!」
「おぉ~」
「いよっ、待ってました!」
父さんは拍手して、母さんは場違い気味な掛け声を入れる。俺もテレビの電源をこっそり切ってからそれとないエールを送る。やんややんや。
咳払い。
「えぇ~、私、朝倉春菜が皆様の耳にお入れしますは、ミュージカル・マイフェアレディより『踊り明かそう』でございます」
ほう。
「照幸、どういう歌なんだい?」
父さんが聞いてきた。
「コンプレックスを克服した主人公が、堪え切れぬ喜びを高らかに歌い上げるハッピーソング」
世界的に有名で、マイフェアレディの代名詞とすら呼べる名曲だ。新しい世界を知った心の踊躍ゆやくはラストで最高潮を迎え、思いっきり歌い上げるのはさぞかし気持ちよかろう。
春菜は昼間と同じように両手を合わせて十字を切る。閉じた目が再び開かれた時、その大きな瞳に迷いはなかった。これぞ「本物」の目だ。
その瞳は、雄弁に叫んでいた。「私の歌を聞け」と。
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