春告鳥は君のため舞う ー 1
長々と続く桜道。風はあたたかな匂いを運び、空には花が舞っている。春霞がたなびく山々の残雪は解け、麓の草木に潤いを与える。
この町にも春が来た。
最近の変わったことと言えば、世情に大きな変化はない。私的な事でも良いのなら、大学に入学できた。それぐらいしか話題はないが、まあ俺にもようやく春が来たとでも言っておこう。
駅前ですれ違う人達はすっかりファッションの流行にのっかって、パステルカラーのスカートだとか、シックな色のジャケットだとか、まさに春の通行人然とした恰好で街を明るく彩っている。
大学もまた似たような感じだ。キャンパスは今日もカラフルに賑わっている。広場を往来する学生達の足取りは軽い。
そこにひとり、彼女はいた。
彼女は雑踏のなかで桜を眺めている。立ち姿には気品があり、その線は細い。手元に本を開いたまま桜に見惚れる彼女は絵になっていた。
風が吹く。あちこちで木々がざわめきだしたとき、俺と彼女の視線は、重なり合った。その目は猫のように大きく、俺をとらえたまま二、三度まぶたを瞬かせた。
彼女の手元で、本にしおりが挟まれる。
その人は軽く息を吸うと、ありえないくらいの声量でブチ切れた。
「おっそぉぉぉぉぉぉおおい! レディーをどれだけ待たせんのよ! ほけっ!」
木々から小鳥が飛んで逃げた。
開口一番、春の安閑は突き破られた。揺れる栗毛、赤らむ頬。
早速ですが頭頂部に平手打ちをいただきました。痛い。すごく痛い。
「レディーが出合い頭に
「うるさいっ! 待たせる方が悪いったい!」
「あぁ、悪かった。しかし、待たせたと言っても数分程度で……」
「数分じゃない、二十五分よ! 正確には二十五分二十五秒!」
「おー、ニコニコで揃ってる。だからお前もニコニコォ~って」
「なるかっ!」
再び頬がふくらんだ。整った眉がしかめ面に迫力を添え、ぐいぐい俺に迫って来る。身長差に大差が無いゆえ鼻先で凄まれると、流石にのけぞるしかない。
……が、一分前とギャップがありすぎて恐いというよりは、なんか面白い。待たせた身分で言える事ではないけども。
「それに」──追撃しようとする口をあわてて手で制した。
「ストップ。声のボリュームを落とせ」
「声ぇ?」
俺の目のやり場に沿って、彼女の目が左右に動く。視界に映っているのは、さっきまで上品だった顔立ち(超ドアップ)と、奇異の目全開なザ・春の通行人たち。
俺と目が合ったとたんに顔をそらされるのは割とクるものがあった。たぶん、この自称レディーにも同じ光景が見えただろう。衆人環視の中で何やってんだか。
彼女の膨らんでいた頬は急速にしぼんでいき、替わって気まずそうな表情をその顔に浮かべてきた。俺は近すぎる顔から一歩引いて、
「状況把握、オーケー?」
「……オーケー」
彼女の親指が弱々しく立つのに苦笑した。彼女は姿勢をしゃんと直して、咳ばらいをひとつ。
「まあ、いいわ。友達に捕まってたんでしょ? テルの事だから」
本を手提げに収めながらそう言うと、そのまま表情を緩めた。
「まさにその通りだが、いやでも待たせたのは本当にすまなかった、春菜」
春菜に頭を下げて、手刀を切る。返って来たのはさっぱりした声色。
「いいわよ、テルがそれだけ頑張ってる証拠じゃない? 入学早々、たよられる友達ができるなんて」
「こちらこそ、新参者の友人事情に理解ある先輩がいてくださって、ありがたき幸せですよ」
「ちょっと、先輩はやめてよ。そういうのはナシって言ったじゃない」
春菜は口をちょっと尖らせた。俺は一年生だが、春菜は二年生だ。
そういえば、と彼女は唇を動かした。
「テルの入学金、半額免除になったんだって? すごいじゃない、この大学って結構レベル高いのに」
入学試験の成績上位者に遇される特別措置のことだ。ここ、東京芸術学院大学は毎年の合格者で、上位二割に入る得点をした者に限り、学費の減額または免除をする特待制度を設けている。
俺はそれでまあまあ点数が取れたので、ありがたく制度の恩恵をあやかれることになった。
「一浪した末に取ったものだし、そんなに偉いことじゃないさ。せいぜい努力が報われてハッピーくらいに思ってる。それより、春菜は何を読んでたんだ?」
「あぁ、これね。シェイクスピアの『マクベス』」
「マクベス? 四大悲劇のアレだろ、読んだことなかったのか」
「ううん」
春菜はかぶりを振って言った。
「日本語版だったらどこの出版社のも読み終えてる。だから今度は英語版に挑戦してるの。この前レポートにまとめた、『スタニスラフスキーの演劇論』と併せて読めばなかなか楽しめるわ」
「お、おおう。これまた賢そうな趣味をお持ちで……」
春菜は成績が優秀だ。噂では学内でも図抜けたものらしい。一年遅れで入った俺とは、そもそもの賢さが違う。
この春菜という女学生は俺の古い友人の一人で、小学生のころ福岡へ引っ越していった幼馴染だ。まさか八年が経った今、大学で再び出会えようとは思いもしていなかった。
再会したのは入学オリエンテーションの日。個別学部案内なるマンツーマンの相談会に参加した際、俺の対応として現れたチューターが春菜だった。
「それで、テルの用事ってなんなの?」
「あ、そうだった」
話の流れで忘れかけていたが、春菜は俺と約束していたからここで二十五分二十五秒も待ち続けていたのだ。そのことについては心から申し訳なく思っているが、既に折檻はいただいているのでもう罪は償われたはずだ。話を続ける。
「母さんが、今夜はうちにご飯食べに来たらどうだって。父さんも春菜に会いたがってるみたいだし」
「えっ、ヒロシおじちゃんとマイちゃんが?」
前者が父の名で、もう一方は母の呼び名だ。俺が肯定のうなずきをすると、春菜の目にさらなる輝きが宿った。
「やったぁ! じゃあ、遠慮なくご厄介になろうかな」
「なんだかんだで、まだ地元に帰ってないんだろ?」
「本当そうよ、ずっと帰りたかったんだ。わぁ、久しぶりだなテルの家。八年ぶり? どう、二人とも元気にしとぉ?」
春菜はうっきうきしている。しかし俺は、聞きなれぬ語尾に思わず首をかしげた。
「ん、どうかしたの」
「し、シトー? ……それは何語だ」
「えっ」
ちょっとの間が空くと、春菜は赤面しながら「あ、やば」と漏らしたが、すぐに開き直ってつっけんどんな態度をとった。
「博多弁よ、博多弁。向こうでの暮らしが長かったから、そりゃ身に付くに決まってるでしょ」
「ふーん」
「……笑いたいなら笑いなさいよ」
「いや、べつに。なんか可愛いなーって」
語尾のあがる小粋な語調が耳にこしょばくって、萌える。と言うか否かの瞬間にわき腹を衝撃がほとばしった。鈍痛はあばらから喉元へ駆け上がり、嗚咽となってこぼれ出た。
エルボーをくらったのだと理解するには、少々時間を要した。
「からかわないの! さ、早く行こ!」
「オ、オホっ、オフホっ……」
颯爽と歩き出す背中に何か言ってやりたかったが、俺の口から出たのはせいぜい間抜けたうめき声くらいだった。五分にも満たぬやり取りで二発の打撃を喰らってしまった。
……手が出るの早すぎだろ。この春菜と名乗る女は、俺の記憶に残る人物と別物であるまいか。
だが、そうだったら、入学説明の日に俺の名を見て驚くはずがないし、俺の父母を知るはずもない。それに……俺の名をこう呼ぶ人は他にいない。
「テル! 何やってんの、はやくはやく」
振り返って手招きする春菜に、俺はすごすご後を追うばかりであった。考えても間違いない、あいつは春菜。俺の幼馴染の一人である。昔は突けば折れてしまいそうな少女だったのに、なんという変貌ぶりだろうか。
現実逃避に並木へ目を遣る。あぁ……桜の花がきれいだな。
「あと、遅れたんだから罰として何かおごってよね?」
それすら許さぬと言わんばかりに、現実へ引き戻すこの強気な一言。
「だが断る」
とはとても言えなかった。こいつ、福岡でどんな生活していたんだ。
余談だが彼女の肘はナイスな部位に入ったらしく、俺のわき腹は駅に着くまでうずいていた。
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