WILD CHAIN
maria159357
第1話鉄槌
WILD CHAIN
鉄槌
生は全ての人間を水平化するが、死は傑出した人をあらわにする。 バーナード・ショ―
此処は、とある世界。ある時代のある場所で起こった出来事。
今日もまた、罪を償うべき罪人へ、『神』ではなく、『人』からの鉄槌が下される。
「よって、被告を第三地獄行に処す。」
人間の皮を被った悪魔が、地上で罪を犯す。
その罪を裁くのが、此処、『無天神裁判所』である。ここで最高裁判官を担っているのは、『紅蓮』という裁判長。赤茶色で長めの髪を、後ろで一つに縛っていて、目は若干死んでいるようにも見える。
紅蓮が法廷を後にして、一番落ち着く部屋へと向かう。
裁判所の一角、誰も行かないような薄暗い廊下を抜けると、そこには真新しい部屋がある。
裁判所自体は古くから建っているが、三年に一度、大掛かりな修復が行われるため、それほど古びた様子は無い。
ノックもせずに躊躇なくドアを開ければ、コーヒーの少し苦い匂いが鼻を掠めて行く。
「お、紅蓮。お疲れお疲れ。何か飲むか?」
ドアを開けて目の前、大きめのソファに座ってコーヒーを飲んでいる男がいる。
黒髪の頭にターバンを巻き、右目には眼帯をしていてピアスもしている。シックな黒のシャツを着ていて、足を組みながら堂々としている。
「寝る。一時間経ったら起こせ。」
「はいよ。」
ソファのある部屋の奥には紅蓮の寝室があり、そこに一直線に向かうと倒れる様にして寝てしまった。
「ただいまー・・・。あれ、紅蓮寝てる?」
そこにもう一人、この部屋の住人である男が現れた。黄土色で、ワックスか何かで立たせたような髪型をしていて、ヘアピンをつけている。
「ああ。そういや渋沢、雑誌買ってきたか?」
「もー。分かんないから自分で買えよな、隼人。」
ターバンを巻いた眼帯男は『隼人』といい、黄土色の髪の男は『渋沢』というようだ。
渋沢が隼人に雑誌を手渡し、適当にペラペラとめくり始める。
自分用にコーラを用意して、コップに注ぐ渋沢が、隼人に質問する。
「なあ。『無天神』ってさ、どういう意味なんだ?天神って神様?神様がいないってことか?」
雑誌の何に興味があるのかわからない速さで読み進めていく隼人が、一旦手を止めて渋沢の方をみてため息をつく。
そしてまた雑誌に目を戻して、マッハで雑誌を読み始める。
「『天神』ってのは、文字通りだ。『天にいる神様』ってことだ。『無天神』ってのは、単に裁いてんのは人間だって言ってるだけのことだ。」
渋沢はコーラを飲みながら、おつまみのサキイカを口へと運ぶ。
「此処で働く俺がいうのもなんだけど、神様って何なんだ?」
またもや渋沢が聞けば、雑誌を読み終えた隼人が、テーブルの上に雑誌を放って欠伸をする。隼人が座っているソファの後ろには、山のように積まれた本があることから、徹夜で専門書を読
み漁っていたようだ。
本を読む速さは異常としかいいようがないが、それを指摘してもいいことはない。ソレのお陰で、渋沢も紅蓮も助かっている部分がある。というか、実際助かっている。
「知るか。まあ、神ってやつが人間の形してるってのは分かるがな。」
「なんで?」
隼人はコーヒーを一口、そのあと、ソファにごろんと寝そべりながら説明を始める。
「ちったァ、自分で調べろ。旧約聖書によると、『エロヒム』ってやつが生物をつくるとき、最後に自分に似せた男と女をつくった、って書いてある。ってことは、人間の姿形に似てるって事だろ?」
なんだかんだ言いながらも教えてあげる隼人の説明に、サキイカを幸せそうに頬張って、『ああ。』とだけ返事をした渋沢。
「まあ、俺は聖書を信じてるわけじゃねえ。進化論と平等に参考にしてはいるが。」
そう言うと、隼人は寝入ってしまった。
渋沢は部屋で一人サキイカを食べながらコーラを飲み、ちらっと隼人のうしろの本の山を眺める。
特に読みたいと思うわけではない。いや、どちらかというと読みたくは無い。
隼人は読むのが速いから、苦には感じないのかもしれないが、これだけ高く積まれた本を読めと言われても、到底その気にはなれないだろう。
アダムとイブの話しなら知ってはいるが、土塊に息吹を吹きかけたくらいで、本当に生命体が出来上がるものだろうかと、理系の渋沢は考えていた。物語としては、夢があって面白いと思う。
だが、渋沢からしてみれば、進化論の方が説得力がある。
そんな神の息吹だとかいう、未知の力で生命が生まれるなんて、摩訶不思議だった。
まあ、人によって考えなんて色々だろうと割り切ってはいるが、自分の信じているものや、崇拝しているものが真実だという価値観を押し付けられるのは、心地良いものではない。
一人でサキイカを食べるのも暇になってきて、寝ているであろう隼人の顔に落書きをしようとマッキ―ペンを持ってきて隼人に近づく。
バレないように細心の注意を払って、少しずつ少しずつ近づいて行く。
隼人の目の前まで無事に来る事が出来て、マッキ―ペンの蓋を取る。そのままそーっと顔まで持って行ったところで、思いっきり腹を蹴られた。
「いっ・・・・・・。痛い・・・。声が出ないくらい痛い。」
「出てるから大丈夫だな。渋沢よぉ・・・。俺の顔に落書きしようとしたな?」
紅蓮もそうだが、隼人も怒らせると怖い。それゆえ、頭の中で危険信号も出ていた。
しかし、危険信号はいまや警報を鳴らしてランプが点滅している。『早く逃げろ』と言っている。
「こんにゃろ。」
身体を起こした隼人が、渋沢の手からマッキ―ペンを奪い取って、渋沢の顔に報復と言わんばかりに落書きしていく。その早業に、渋沢はただ抵抗も出来ずにいた。
「ま、このへんで勘弁してやるよ。」
そう言われて、急いで洗面所まで行って鏡で確認する。そこに写っていたのは、とある猫型ロボットと思われる髭や顔の輪郭などだった。
「なんでチョイスがコレなんだよ!なんか微妙過ぎて反応に困んだろ!」
「別に反応しなくてもいいだろ。最近上手くなってきたから試しに書いてみただけだ。それに、他のキャラクターは分かんなくても、それだったら紅蓮も分かんじゃねえか?」
隼人は、自分の部屋からまた大量の本を持ってきて、ソファに座って読みだした。渋沢が用意したサキイカを口に咥えながら、ものすごいスピードで読み続ける。
その面白い光景を、なんとか残したいと思った渋沢は、携帯のムービーで隼人を撮り始める。その途端に隼人からのサキイカ投げという反撃にあい、あっけなく幕を閉じることとなった。
暇で暇でしょうがない渋沢が時計に目をやると、自分が帰ってきてから一時間が過ぎようとしているところだった。
紅蓮は寝ているし、隼人は本を読んでいる。このままぼーっとしていたら、脳味噌が腐ってしまいそうだと思った。
「やっと一時間か・・・。俺は一体今日何をしていたんだろうか・・・。」
何気なくぽつりと言った独り言だったが、ソレを聞くや否や、隼人が本を床にドサッと落とした。
すごい音がした。相当重い本だったんだろう。
「どうしたの~?」
渋沢がごろごろと寝そべりながら隼人に声をかけると、隼人はソファから勢いよく立ちあがって、かと思えばまた座った。
そのとき、紅蓮が寝室から出てきた。寝惚けた顔をしながらも、隼人に文句を言いたげにしていた。
「一時間したら起こせって言っただろ・・・。」
「悪ィ。」
あっさりとした謝罪で済ませれば、また本を読み始めてしまった。
「気づいて起こしに行こうと思ったんだけどよ、紅蓮の体内時計を信じてみたよ、俺は。」
ケロッとした声で説明はしているが、紅蓮の方を見るわけでもなく、心の底から謝っているわけでもないような隼人。
どうやら、先程一度立ち上がった時は、起こしに行かなければ行けないという焦る気持ちもあったようだ。
「何が体内時計だ。まあいい。渋沢、コーヒー頼む。」
仕事を任された渋沢は、嬉しそうに返事をすると即コーヒーをいれた。
紅蓮はコーヒーやカフェオレをよく飲む。コーヒーにも砂糖は入れないがミルクを少しばかり入れる。
一方で隼人はブラックしか飲まない。甘いものが嫌いとかそういうことではなく、単にコーヒーにミルクとか砂糖を入れると馬鹿にされそうという先入観からだ。
馬鹿にされたことがあるわけではないのだが、そういうイメージを常に持っているだけだ。
渋沢がコーヒーを紅蓮の前に差し出す。その目の前で本を読み耽っている隼人が、欠伸をしながら紅蓮に文句を言った。
「紅蓮。そろそろ新しい本買ってくれよ。もう読み飽きた。」
「読むのが速すぎる。もう少しじっくり読め。大体、何で一応お前にも仕事任せてんのに、一日で四十冊五十冊の本を読めるんだ。しかも法律の本やら参考書やら物理学に数学・・・しまいには聖書まであるのに・・・。」
頭が痛いような仕草をしながら、コーヒーを口に運ぶ紅蓮に対して、隼人はサキイカをくるくると回し、そのままパクリと食べた。
渋沢は一人でコーラを飲みながらその会話を聞いている。
「それはしょうがねえよ。小さいころからそうだ。そもそも、検察でも弁護士でも、ましてや裁判官でも裁判長でもない俺が、何で法律の本を読まされたのかが分かんねえ。」
テーブルの上に袋ごと置いてあるサキイカに手を伸ばし、また口に運びながら文句を言う隼人の前に、紅蓮は紙袋をドンと置いた。
隼人は目をパチクリさせてソレを睨みつけ、渋沢の方に紙袋を移動させた。
紅蓮がまたソレを隼人の前に持ってきて、コーヒーを優雅に飲んだ。
「なんだこれは。」
「本だ。」
「ホンダ?」
「本だ。」
「トヨタ?」
「本だ。」
「ミツビシ?」
「本だ。」
「ニッサ「いい加減にしろ。」・・・ちっ。」
隼人が早々と本を読み終えるのを予測していた紅蓮は、前もって本を大量に買っておいたようだ。新しいものは勿論、数十年も前に出ていて、今は絶版になっていそうな本まで様々なものが用意されていた。
ちらっと紙袋の中を見てみれば、最初に目に飛び込んできたのはフランツ・カフカの『審判』だった。
和訳のものではなく、英語が並んでいる本であった。英語のものの方が手に入りにくい気もしたが、それを可能にしているのが紅蓮の権力なのか、はたまた本屋のコネでもあるのか・・・?
―本屋のコネって何だ?
自分で自分の考えていることに疑問を持ちながら、隼人は紙袋に手を入れて、その下にある本を覗いてみた。
『歴史を知れば明日が見える』と書いてる怪しい本だったが、そんなこと口が裂けても言えない。たった今『新しい本をくれ』と言ってしまった隼人は、大人しく本を読み始めた。
「あ、そうだ紅蓮。次の裁判の資料が、今日の夜に届くってさ。いつもの『輪廻郵便』で届けに来るって。」
思い出したように渋沢が紅蓮に伝えると、紅蓮はコーヒーを飲んでいた手を一度止めて、ソファに寝転びながらサキイカを咥えて本を読んでいる隼人に言う。
「・・・だそうだ。」
「ふ~ん・・・。」
適当な返事をし、聞こえたのか分からないほど本に集中している隼人に向かって、紅蓮が渋沢を見て、顎をクイッと動かして合図をすれば、ソファの肘かけに足を組んで乗せている隼人の足を持って、渋沢が勢いよく引っ張った。
そのせいで、反対側の肘かけに乗せていた頭が、見事にカクンと落ちた隼人を見て、紅蓮が満足そうに不敵な笑みを浮かべた。
渋沢はとにかくすぐに謝ったが、本人の意思でやったことではない事くらい隼人にも分かっているため、怒ることはなかった。
そのままの姿勢で本を読もうとするが、頭の位置が悪いのか、腕が疲れるのか、すぐに元の位置まで身体を移動させると、また読みだした。
「意外と地味で陰湿ないじめをするんだな。しかも陰の指導者。」
厭味をたっぷり込めて言ってはみたが、紅蓮は隼人がソファの家でもそもそ動いているほんの数秒の間に、寝入ってしまっていた。
それに気付いた隼人は盛大なため息をつき、二冊目の本を取り出して表紙をめくった。
歴史の事が記されているその本は、通常の表舞台の歴史は勿論、裏歴史の事も多く書かれている。歴史大好き人間や、評論家たちが喉から手が出るほど欲しい本であると同時に、確かめようのない歴史に対する罵倒であるという人も出てくるであろう内容がわんさか載っている。
隼人は歴史がそれほど好きではない。
それは『過去』の事象であることと、自分の目では確認できないことであるということ。それから、とくに興味が無いという事が挙げられた。
過去や歴史といった、時間的に流れていない空間の出来事に関して、隼人は紅蓮や渋沢よりも冷静沈着に判断する。
だから、歴史の本を読んだところで自分には全くの無関係と考えている。
―コンコン・・・
「はい?」
突然、ドアをノックされ、渋沢がソファから立ち上がってサキイカを咥えながら出てみる。
ドアの前に立っていたのは『輪廻郵便』の仕事服を着た男の人で、A4が入る大きさの封筒を差し出してきた。
「紅蓮裁判長宛てです。サインお願いします。」
そう言われ、渋沢は適当にサインして封筒を受け取る。
通常、こういった重要書類を郵便などといった危ない手段で受け渡しすることは無いのだが、此処では郵便は郵便でも『輪廻郵便』という、特殊な郵便でならOKとされている。
その理由は、被告が人間ではなく、『悪魔』がとり憑いた人間や、人間の皮を被った『悪魔』といった、人間以外の者を裁くこの『無天神裁判所』においては、情報が漏れても支障は少ない事と、他の者が見ても分からないような暗号で資料を作成しているためである。
『輪廻郵便』が扱うのは、そういった通常以外の郵便なのである。
郵便局の人間がもし、封筒の中身を見ようものなら、即裁判所行き。有罪判決は免れない。
そういう厳しいところでもあるため、絶大な信頼の元、重要書類を任されるのだ。
「あ。例の書類だ。隼人、書類が届いたよ。事務の仕事して。」
読んでいた歴史の本を、もう読み終えた隼人は、ソファから身体を起こして資料に目を向ける。分厚いその封筒を渋沢から受け取ると、中身を確認する。
まとめられている書類をペラペラと捲ると、同封されていた写真を手に取る。それを睨むようにして眺めてしばらくすると、眼帯を外して写真を見る。
その目は赤く、しかも蠢いているように見える。
きっと隼人の事を知らない人間が見れば、気味悪いことこの上ないのだろうけど、見慣れている渋沢や紅蓮にしてみれば、いつもの光景でしかなった。それに、隼人のこの能力があるおかげで、人間か人間以外の生物かを区別出来るのだ。
隼人は右目に悪魔を飼っている。
その悪魔が、隼人の目を通して悪魔を識別し共鳴することで、隼人にも感じ取れるのだ。自分の目を通して、飼っている悪魔の考えていることや話していることが分かる。
それは決して役に立つことばかりではない。眼帯をしていること自体が受け入れられにくく、外すと赤い目を持っていることで、隼人を疎外する者がほとんどだ。
隼人自身は疎外されることを怨んではいないし、気にしてもいない。
人間は、自分とは違う、異質な者と会うと、必ずそういった行動に出る。そうすることで、仲間をどんどん増やしていくのだ。
隼人が集中しているときに話しかけるとロクな事が無いのを知っているため、渋沢は静まり返った部屋の中で、隼人が読み終えた資料に目を通す。
暗号は読めるものの、隼人ほど早く読んで整理出来る人間はそうはいない。
渋沢は人差し指を顎に置いて、しばし頭を抱えながら読み進めていく。その間も隼人は真剣に写真と睨めっこしている。
「ああ・・・・・・・。」
ため息なのか分からないような深い息をつくと、隼人は写真をテーブルの上に放って、右目に眼帯を付けた。どうやら悪魔かどうかの確認が終わったようだ。
「お疲れさん。どうだった?」
右目を使うと相当疲れるようで、隼人はグテッとソファに倒れこんだ。
腕で顔を覆うようにすると、走ってきたばかりの人みたく呼吸が荒くなっている。額にも若干の汗をかいていて、渋沢はタオルを持ってきて隼人に渡した。
「・・・サンキュ。」
隼人が落ち着くまで待つことにした渋沢だが、紅蓮がヌクッと起きてきた。
テーブルの上の資料と写真、そして疲れ切った隼人を見て、今の状況を理解した紅蓮は、自分も資料を手にとって眺める。
呼吸を整えた隼人が身体を起こすと、タオルを口に当てながら話し出した。
「はァ・・・。ああ・・・なんだ。アレだな。そいつは契約して悪魔になり下がった人間だ。」
まだ汗ばんでいる額をタオルで拭い、気持ち悪そうに説明する隼人だが、肩を上下に動かして呼吸をしていて、まだ苦しそうだ。
「契約?」
紅蓮が隼人に聞けば、背もたれに全身をあずける様に力を抜き、タオルを顔の上にかける。
「悪魔の皮を被った恋人に唆されて、いざとなったら悪魔に自分の身体を売る契約をさせられたんだ。その結果、皮を持って行かれた・・・。」
まるでその光景を見たかのように、吐き気に襲われている隼人の顔色は青白く、言い終わると洗面所に行ってしまった。
残された紅蓮と渋沢は、資料と写真を眺めながらコーヒーとコーラを飲んだ。
紅蓮は隼人からの情報をもとに資料を確認しているのだろう。
一枚一枚、一字一字を丁寧に読んでいる。裁判長として当然といえば当然なのだが、優秀な紅蓮は、裁判に駆り出されることが多く、とにかく多忙なのだ。
渋沢も忙しい部類には入るのだが、紅蓮ほどではない。
下級裁判所で働いている渋沢は、仕事量としては多いが、その代わり簡単に片付くものが多いのも確かだ。
裁判なんて金がかかるだけだと分かっているためか、第一審で終わるケースがほとんどだった。
まれに控訴する人もいるが、最高裁判所ほど長引いたことはほとんどない。
「・・・コーヒー新しいの炒れてこようか?」
自分に出来ることは無いと考えた渋沢が、紅蓮の手にある空のコーヒーカップを見て聞いた。紅蓮も中身がないことに気付いて、頷いた。
コーヒーを炒れるついでに隼人の様子も見てこようと思った渋沢だが、洗面所で下を向いて、未だ気分悪そうにしている隼人に、かける言葉は見つからなかった。
コーヒーを炒れて、部屋に戻って紅蓮の前に置く。
「隼人、大丈夫かな。相当気持ち悪いんだろうね。」
いつも右目を使うと、なかなか洗面所から戻ってこないが、紅蓮は特に心配してはいないようだった。
「右目は、使う時だけじゃ無くて、常に悪魔が活動してるからな。時には隼人の神経にまで語りかけることもある。」
大変だな・・・と、人事のようにも思うが、右目を使っているとき以外は特に痛そうには見えなかった渋沢は、代われるもんなら代わってやりたいという、母親のような気持ちにもなった。
「ああ~。ダリィ。」
見るからに血色の悪い顔で洗面所から戻ってきた隼人は、そのまま寝室に向かって寝てしまった。
まだ右目が痛むのか、眼帯を押さえつける様にしてフラフラとした足取りではあったが、ちゃんとベッドに行けたのを見て、渋沢はひとまず安心した。
「そういえば、南監獄の支部長が、今度紅蓮と話ししたいって言ってた。」
「・・・南監獄の支部長?」
言葉に違和感を感じた紅蓮だったが、渋沢は気にとめることなく話し続けた。
紅蓮が判決を下した悪魔は、必ず監獄に連れていかれる。悪魔の数は膨大なため、監獄が一つでは抑えきれないのだ。
監獄は東西南北に存在していて、その中心に最高裁判所はある。それぞれの監獄にはすでに数百もの悪魔が収容されている。
悪魔は例え有罪になったとしても死なないため、悪魔払いをしてもらうのだ。
その方法も十人十色なのだが、隼人も悪魔払いが出来る。それは右目のおかげでもあり、せいでもある。
隼人は悪魔払いなどという仕事はしないのだが、たまに右目と共鳴してしまった悪魔が、自ら教会に懺悔に行ったりと、奇妙な行動を取ることがある。
指示するわけでもないが、右目の悪魔が、隼人の身体を通して言い付けるようだ。
それも気に食わない隼人は、出来るだけ自分でコントロール出来る様にとしている。
そもそも、悪魔なんてものは地獄行きが普通なのだ。何層にも重なった地獄を、罪の重さによって深い層へと連れて行かれるのだ。
もっとも、そんな地獄は見たことがないため、信じることも出来ない渋沢なのだが。
紅蓮もそういうのは信じないタイプに見えるが、裁判長が信じていなかったら、一体どうなんだという話だ。
「先月南監獄に送った悪魔いただろ?そのとき悪魔が暴れて逃げ出しそうになった時、紅蓮が十字架塗りこんで大人しくなったろ。それの御礼したいとか・・・。」
十字架は吸血鬼の弱点でもあるが、悪魔も好きではない。そのため、裁判所関係者は皆一様に十字架のものを身につけている。それは勿論、紅蓮も渋沢も隼人もだ。
紅蓮は大きめの十字架をあしらったネックレスをしている。これは紅蓮個人の趣味ではなく、目立つようにしろと言われて、裁判所から渡されたもののようだ。紅蓮は嫌がっているのを何度も聞いたことがある。
渋沢は長時間にわたる仕事の時につけるヘアバンドに十字架が描かれているし、隼人は左耳につけてるピアスに十字架がついている。
ちなみに、本当はイヤリングなのだが、本人はピアスだと言い張る為、ピアスという表現を使う事にする。
アンバランスでアシンメトリーが好きな隼人は、左耳にはその十字架のピアスが一つしてあるのだが、右耳には二つのピアスがついている。一つは黒のスタッドピアス(とみせかけたイヤリング)と、もう一つはシルバーのフープピアス(とみせかけたイヤリング)をしている。
使っていない片方ずつのピアスはどうしているのかと、以前渋沢が聞いてみたところ、『失くした時用にしまってある』とのことだった。
「そうか。まあ、予定が合えば・・・だな。」
そう言いながら、資料を捲った紅蓮。まだ起きてこない隼人。暇な渋沢。
どのくらい経った頃だろうか・・・。
紅蓮がまだ資料を眺めていて、渋沢が暇そうにサキイカを食べながらテレビを見ていると、寝室から物音がした。
「腹減った・・・。」
今度は目では無くお腹を押さえながら出てきた隼人。
紅蓮はちらっと見ると、渋沢に『作ってやれ』とだけ言うと、また資料に目を戻した。
渋沢がため息をつきながら台所へ向かうと、隼人はフラフラと歩きながら、ソファに抱きつくようにしてダイブした。そのまましばらく動かなかったので、寝たのかと思えば、顔だけ横を向けてサキイカを恨めしそうに見ていた。
「紅蓮は?何か食う?」
「ああ。頼む。」
渋沢はフライパンを用意して、何を作ろうかと悩んでいる。冷蔵庫に自体、ほとんど食料が入っていない。
普段から外で食べることの方が多いため、あまり買い込まないようにしているのだ。
紅蓮をはじめ、渋沢も隼人もみんな忙しい上に調理なんて出来ないので、冷蔵庫の中は空に近い状態を保っていて、おつまみのお菓子類が沢山あるだけだ。
しかし、『体力』をつけるためにはやはり、規則正しい食生活が大切であるために、渋沢は料理の本を用意してある。
あまり出かけない隼人が料理の勉強をしてくれると一番いいのだが、本を読んでいると時間の感覚が無くなってしまう隼人に頼むと、朝食を頼んでも夕方に出てくることがある。
とりあえず、卵がある。あとは牛乳とチーズとヨーグルト、そして米はある。
米は昨日のうちにといでおいた。
いつもは、お腹が空いたと言われてからとぐために、どうしてもご飯の時間が遅くなってしまっていたのだ。遅くなると、隼人が若干機嫌悪くなって面倒なので、渋沢は米をといでから仕事に行くようにしている。
―リゾット?おかゆ?
オカズも無い為、大したものは出来ないことは予想出来たが、それにしても酷い・・・。
隼人に買い出しを頼んでおくべきだったか、と考えている時間がもったいないと、渋沢はご飯をフライパンにのせて炒めることにした。
―腹に入れば一緒だ・・。
そう自分に言い聞かせて、適当にチーズを混ぜて香ばしい匂いを漂わせる。卵も入れて、なんとか形上、中途半端なものが出来た。
「はい。材料無かったから勘弁してね。」
言うが早いか、隼人がスプーンを手にとって食べ始める。チーズが入っているのが気に入ったのか、それともお腹に食料が入ってきたことに満足しているのか、とにかく嬉しそうに食べていた。
「隼人さ、明日買い出し行ってきてよ。もう何も無いよ。」
呆れる様に言うと、隼人が口をもぐもぐさせながら何か言う。それを解読する術は持っていなかった渋沢だが、紅蓮が通訳してくれた。
「明日は暇だから本読んでる・・・だと。」
「・・・意味が分かんねえ。暇なら買ってこいよ。」
隼人の頭をビシッと叩くと、渋沢は自分の皿にのっているご飯を口へと運ぶ。
渋沢が二口目に入ろうとしたときには、もうすでに食べ終わっていた隼人に、紅蓮は資料を渡した。渡した、というよりは投げつけた。
資料がテーブルの上を飛んだと思えば隼人の顔面に直撃した。
「投げんな。汚れたら困るの紅蓮だろ?」
文句を言いながらも、一度見て大体の内容は頭に入っている隼人に、紅蓮は有無を言わさない鋭い目つきで言い付けた。
「唆した方の悪魔が今どうなってるか、調べろ。もし地獄に行ってんなら、そこでの動きを探れ。行って無いなら、何処で何してるか調べてこい。いいな。」
「・・・拒否権ある?」
「無い。」
「だよな。」
さっきので疲労している隼人は、これからもっと疲れることするのかと思うだけで、頭が痛くなった。しかも、事務などの仕事では無くて、一種の肉体労働だ。
精神的なもののはずなのに、身体にもダメージを受けるという、厄介な力を持っているが故の宿命なのか。
隼人は腹をくくっているし、割り切ってはいるが、やはり尋常でないその痛みや吐き気に襲われるのは嫌だし、慣れない。
「てかさ、なんで隼人は裁判官の仕事しないんだ?」
「あ?」
「いや、だって成績良かったんだろ?」
渋沢がご飯を食べながら隼人に聞くと、本人はぽかんとした顔で渋沢を見た。
紅蓮も渋沢も司法試験を受けて合格しているから、今の仕事に就いている。
裁判官、検察官、弁護士等になるための大切な国家資格だが、それは隼人も受けている。そして、合格している。
ただ合格したのではない。隼人は、頭脳や分析力も含めて、五百年に一人生まれるか生まれないかの逸材とまで言われていた。学校も首席で卒業し、司法試験も完璧で模範解答よりも模範解答のようだったという。
そんな隼人が裁判官にも検察官にも弁護士にもならなかった理由は、『正義』なんて信じてはいないから。
自分の右目に関してもそうだが、軽々しく口にする言葉では無いと考えているのだ。
言葉だけが浮いていて、確かなものではなくなっている現実を、隼人は受け入れることは出来ない。
『正義』とは、人によって違うものだ。
一人一人が信じているものや崇拝しているもの、見てきた景色も育ってきた環境も価値観も何もかも違う。それなのに、一つの言葉でそれらを全てまとめてしまうのには違和感を持っている。
「・・・俺はいいんだよ。今みたいに本に囲まれてる方が楽しいんだよ。」
「え。それって、もやしっこじゃん。」
「うるせぇ。」
隼人はまた本を取り出して読み始める。
このままでは、世界中にある本を制覇してしまうのではないかと思うくらいのハイペースだ。
「隼人には今以上に知識を蓄えてもらって、俺達の助けになってもらう。資料を読んだだけで、バラバラのピースを八割九割はめられるんだ。残りをプラスした知識ではめられれば、俺達の仕事だって時間短縮出来るだろ。」
紅蓮の説明がよく分からなかった渋沢だが、曖昧に返事をし、ご飯を食べ続ける。
―翌日 早朝
「じゃあ隼人。昨日言ったこと、ちゃんとやっておけよ。」
「あいあいさー・・・。」
やる気の無い返事をして、仕事場に向かう紅蓮と渋沢を、隼人は見送る。
まあ、仕事場と言ってもこの部屋から十五分もあれば着くような近場にあるのだが。
部屋に残された隼人は、コピーした資料を持って行こうとも思ったが、かさばるものは出来るだけ持ち歩きたくない主義なため、頭に叩きこんで、部屋に置いておくことにした。
悪魔を地獄へ送ったかどうかなんて、紅蓮の方が詳しいとは思った隼人だが、紅蓮が知らないということは、きっと違う裁判長が判決を下したんだろう。
紅蓮だって全部の裁判に係わっているわけではないし、人員の余裕も無い為、自分が係わったものでさえも覚えているか不明である。
とりあえず、倉庫へと向かって資料を見ることにした。
一応関係者ということで、思ったよりも簡単に案内してもらえた。
整理整頓されてはいるものの、埃かぶっている資料を掻き分けながら、目的の資料だけを探す。
高級マンションよりも広く取られたその部屋には、百ほどの棚が並んでおり、その中の手前の方、ドアから九列目の上から三列目の棚に、その資料はあった。背表紙に書かれている日付も名前も一致している。
それをその場でペラペラと捲っている姿は、周りから見れば、流し読んでいるだけのように見える光景なのだが、隼人はそれを一字一句記憶しているのだ。
ものの十分ほどで読み終えた隼人は、棚へ戻して、倉庫を出ていく。
そこに書かれていた内容を確認するために、地獄の門番に会いに行く。
―地獄の門番、裁判で地獄行きになった悪魔と最後に接触する者。それと同時に、悪魔を直接地獄へと叩き落とす役割を担っている者。強気責任感と忠誠心、仕事の的確さと口の堅さが求められる仕事ではある。
「よ。」
地獄の門番に、軽い口調で挨拶をする隼人に対して、門番の男は隼人を少しも見ることなく立っている。
隼人はしばらく門番を見ていたが、全く反応を示さないので、顔の前で手をブンブンと振ってみたり、顔をつねってみたり、髪の毛を抜いてみたりしたが、微動だにしない。
あまりにつまらないので、隼人はくるりと方向を変えて、諦めて帰ろうとした。
「!!!いっ・・・。」
隼人の背中に激痛が走る。
両膝を地面について、後ろの存在を確認するが、ソレは知らん顔をしたまま、先程いた位置で無表情のままだった。
「・・・相変わらずだな。『聖』。」
人の背中を思いっきり蹴ったとは思えないほど涼しい顔をしているその男に、隼人はとにかく話を続ける。
「今紅蓮が担当してる裁判でよ、悪魔と契約した女がいんだよ。だが、その前に、男が悪魔に喰われててさ。その男を喰った悪魔が地獄に行ったか調べてんだけどよ。知らねえか?」
門番なのだから、きっと知っているだろう。
だが、こいつは馬鹿がつくほど『正義』ってやつに忠誠心を預けている。それを知っていて、隼人は聞いているのだ。
何も喋らない門番の前に、胡坐をかいて座りだした隼人。曲げた膝に肘をつけて頬付けをつきながら、何か得策は無いかと考える。
「・・・。ああ。お前も知らねえのか。覚えてねえのか。まあ、しょうがねえよな。いつも学年成績が俺より下だったような奴だもんな。俺が門番してたら、嫌でも頭にこびりついてんだろうな・・・。」
嘲笑うように言うと、微かに眉がピクッと動いたような気がした。
もともと門番の『聖』とは顔見知りというか、同じ学年であった。
同じクラスにもなったことはないし、喧嘩するほどの仲でもない。トップ争いさえもしたことが無い。それは、いつも隼人がズバ抜けた成績だったからであって、もしかしたら『聖』は争っていたのかも知れない。
が、毎回成績は二位だった。それも、かなりの差をつけられて。
この男だって、隼人がいなければとても優秀だと言われたことだろうに、隼人という存在がいたことによって、その才能も存在も目立つことが無かった。
隼人が挑発していることも分かっているのに、相手が隼人というだけで、平常心が保てなくなってしまう。
「一回しか言わない。」
口をそれほど動かさずに、唐突に話し出す。
隼人は、『やっとか』という顔をして、立ち上がって伸びをした。
「充分だ。」
一度だけ隼人の方を見て、またすぐに前を見据えた聖という門番。
本来、何があっても口外してはならないのだが、隼人が係わっているということは、紅蓮も係わっているという事だ。
紅蓮は裁判長として、聖から見ても尊敬できる人物であり、紅蓮が隼人や渋沢と言う裁判官を信頼していることも知っている。紅蓮が調べているという事は、何か裏があるのかもしれない。
『正義』を掲げている聖からしてみれば、形だけ保たれる『正義』に意味は無いのだ。
それが不正であるなら、自分の上司だろうと首を差し出す。それが聖にとっての『正義』だ。
「その悪魔は地獄に行ったはずだった。でも、数週間前に見回りしたらいなくなってた。」
「いなく・・・?脱走されたのか?」
「それはない。前の時にも言ったように、ここのドアは内側からは絶対に開かない仕組みになってるし、外側からあけるとしたら、裁判長とか俺達門番の上司じゃないと、簡単には入れない。」
「・・・ってことは、・・うんうん。そうか。サンキュ。」
聖からもっと聞こうかと思ったが、これ以上聞いたら、聖の立場が危ないかもしれないと考えて、あとは他の奴から聞くことにし、隼人はその場を後にする。
裁判所の中、といっても自分の部屋のようなもので、何処に行けば誰に会えるというのは大体知っているため、隼人は次に会う人物のもとへと向かっている。
紅蓮と同じ裁判長でありながら、正義とは程遠く、人間味も無いような男。
「松田裁判長。」
隼人が男の名を呼べば、嫌そうな顔を隼人に向けてくる。
一見、紳士的にも見える松田は、紅蓮同様に首から十字架のネックレスをつけている。これが無ければ、裁判中に悪魔が身体を蝕むためだ。
「貴様か。何か用か。」
突き放す様に言いながら、隼人に背を向けて歩き出した。隼人はその後ろをついて行って、松田の様子を見る。
「悪魔が逃げ出したこと・・・知ってますよね?」
世間話から入る様な真似はせずに、一気に核心へと話を進める隼人は、その瞬間に松田の肩が僅かに動いたのを見逃さなかった。眼帯が疼く。正確には、眼帯の中身が疼く。
「そうらしいな。まったく、門番は何をしているんだ。」
「松田裁判長、その悪魔の裁判行っているとき、ちゃんとソレ、してました?」
松田の隣に並んで、顎でクイッとネックレスを示せば、松田は不機嫌そうに隼人を見て鼻で笑ってきた。
「当たり前だろう。悪魔にとり憑かれたなら、私は今こうして平常心を保てないと思うのだがね?」
勝ち誇ったように放った言葉を聞くと、隼人はしばらく松田を観察し、その後大人しく帰って行く。
―右目が疼く。
右目に住んでいる悪魔が疼いている。仲間に会ったと喜んでいるのが分かる。同志を見つけたと歓喜の声をあげている。興奮しているのか、どんどん右目が熱くなっているような気がする。
―気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
―ズキズキする。眼球に、べっとりと何かが張り付いているような感覚がある。
―自分の中に飼っている悪魔は、悪魔の存在や経歴など全てを隼人に知らせることを条件に、未だ地獄に送られていないだけだ。
―もしも悪魔が裏切れば、隼人はすぐに目の中の悪魔を地獄へと突き落とすことが出来る。だが、下手をすれば片目を失うかもしれない。
―・・・どうしてこんな目を受け入れてしまったんだろうか。
隼人は足早に部屋に戻ることにし、自分の目で見たもの、読んだもの、耳で聞いたこと、感じたことを頭の中で整理することにした。
定位置のソファに座ってみるが、落ち着かない。立ち上がって台所へ行って水を飲むが、思うように胃へと届いてくれない。貧血とも違う、クラクラとした感覚になり、足の力が入らなくなる。
コップを持ちながら、うなだれる様に腰を曲げて、流し台の上に顔を置く。体中がビリビリと、痺れたまま隼人を嘲笑っている。
その時、鍵を開けてドアが開いた。
「あ?お前何してんだ?」
「あ、隼人じゃん。また気分悪いの?」
紅蓮と渋沢が戻ってきた。裁判では無く、打ち合わせのようなものだったようだ。
ドアを開けた瞬間に、今にも倒れそうな顔色の隼人がいたため、渋沢は急いで濡れタオルを用意してきてくれた。
それを隼人に渡すと、タオルを受け取った隼人は、ソファに座っている紅蓮の前のソファに座って、荒い息を整えながら、説明を始める。
「悪魔は地獄から逃げだしてた。しかも、その脱走に松田裁判長が係わってるかもしれねえ。」
『松田』という単語を耳にすると、紅蓮は眉をピクッと上げて、また元に戻した。
それに気付いた隼人と渋沢だが、元から仲が良くない二人のため、気にすることはなかった。
「悪魔が脱走した日、地獄の門まで行ったのは、当時門番だった『稲守』と裁判長の『松田』 だけだった。これはビデオでも確認した。だが、悪魔の裁判をしていたときに、十字架を付けていなかったらしい。松田と会った時に右目が疼いたし、おそらく松田は悪魔に喰われてる。」
松田は十字架など信じていなく、しなくても悪魔に喰われることは無いと実験でもしようとしていたのだろう。それを悪魔は見逃さず、松田を喰った。
隼人がそこまで言うと、紅蓮は話を続けようとする隼人を制止して、隼人の推測に対して疑問を投げかけた。
「ちょっと待て。悪魔に喰われたのに、どうして発狂しない?」
隼人は別として、通常、悪魔に喰われたものは発狂する。皮から始まり、内臓などの臓器を全て焼かれて喰われる。その時に狂ったように暴れ出すというのだ。
松田はその症状は見られない。至って普通であり、悪魔に喰われているとは思えない。
「大人の悪魔だからだ。」
隼人の一言に、紅蓮と渋沢は頭を捻る。
悪魔は悪魔であって、大人だろうが子供だろうが同じだろうと思ったのだ。それに、悪魔に大人や子供と言う分類があったことも初耳だった。
「地獄に行ったのはその子供の悪魔で、松田に憑いたのは大人の悪魔だ。子供の悪魔はまだ未熟だから、人の身体を喰う時に発狂させちまう。だが、一方で大人の悪魔は喰い方が違う。ただ貪るんじゃなくて、最初は操るだけだ。他の奴が見ても気付かないように、いつも通りの生活をするんだが、それが進行していくと・・・ある日突然抜け殻になるってわけだ。」
隼人の右目は間違えようがないため、それは本当なんだろうと思った紅蓮たちは、ふと隼人の右目の悪魔のことを聞いてみる。
「お前の右目は大人の悪魔なのか?」
聞いてはいけないような気もしたが、隼人自身は気にしていないことだし、気になるのだから聞いた方がすっきりするだろうと考えた紅蓮。
渋沢はそれに対して、少しだけ動揺していたが、ケロッと答えた隼人に安堵する。
「大人もいるし子供もいる。俺の身体は異端だからな。ま、だからこうして此処に居座れんだけどな。」
本来、司法試験に合格したとはいえ、裁判官にも検察官にも弁護士にもならなかった隼人は『部外者』に含まれてしまう。紅蓮や渋沢と一緒に暮らすことなど出来ない立ち位置にいるのだ。
だが、隼人の目が在るのと無いのとでは、悪魔たちの暴れ具合も違うし、仕事の進みが速いのも確かだ。
悪魔が悪魔を呼んで、次々に人間と契約をさせて身体を喰い尽くすために、日に日に増えていくだけの仕事が追いつかないのも事実。それゆえに、隼人の力を有効活用しようとした紅蓮が引き取ったのだ。
隼人がいることで、悪魔を鎮静化することも可能となっている。
右目にいる悪魔の方が階級が上なのか、そもそも悪魔に階級など存在しているのか、それは分からない。
しかし、右目にいる悪魔たちは決して隼人に逆らう事は出来ない。そういう契約を、隼人の何代前かの先祖がさせたという。そこは、紅蓮も分からない。
右目を使うと、隼人は体調を悪くするが、以前聞いたところによると、右目の神経を通って、全身にまで悪魔の興奮が伝わるからだそうだ。
人間の興奮と悪魔の興奮の波長は合わないため、隼人の身体は耐えきれずに、その反動、あるいは副作用として吐き気などに襲われるという。
「つまり、松田にとり憑いた親悪魔が、人間唆した子供悪魔を助けたってだけの話か?」
「ま、単刀直入に言いすぎだけどな。」
何にせよ、松田裁判長が身体を完全に喰われる前に、紅蓮たちは、松田の身体から悪魔を出さなければいけない。そうしなければ、松田は死ぬも同然なのだから。
あまり個人的には好きではない人間だが、そうも言っていられなくなってしまった。
気は進まないものの、隼人も気分を悪くしながら情報を集めてくれたのだから、一日でも早く行動に移そうと考えた紅蓮。
ソファから立ち上がって、何処かへ向かおうとした紅蓮に、渋沢が問う。
「何処行くんだ?裁判の日程、明日に変えてもらうつもりか?」
松田本人の失態から起こった出来事とは言え、裁判所全体としても早くカタをつけたいだろうし、裁判長が悪魔にとり憑かれていたなんて世間に口外出来るわけも無い。
それを見越した上で、紅蓮は交渉に向かおうとしていた。
自分たちの体裁を守るために、きっと日程くらい何とでもしてくれるだろう。
だが、隠すつもりも無かった。身内のしたことは、善悪に係わらず公表すべきだというのが、紅蓮の考えだったからだ。
今回の場合、単純に松田の身体から悪魔を出して、子供と共に地獄に送ればいいだけの話だ。
「俺も行った方がいいんじゃねえか?松田に憑いてること確認できるの、俺だけだろ。」
「え、じゃあ俺も行く。」
「連れションじゃねえぞ。」
隼人と渋沢もついていくことになった。
此処の裁判所の頂点に立つ人物の部屋まで来る。
紅蓮をはじめ、隼人も渋沢もスーツを着ている。最初普段着で向かおうとした三人だが、紅蓮はともかく、渋沢と隼人の格好は、目上の人に会うのにはどうかという格好だったため、三人揃って着替えることにした。
着慣れないスーツの襟元部分が気になっている隼人と、動きが硬くなっている渋沢と、普段通りの紅蓮。
紅蓮がノックをして部屋に入る。その後を隼人と渋沢も入って行く。
部屋に入ると、目の前にはドでかいテーブルと椅子。そこに座っている人物は、こちらを向くことなく、逆側の窓側を見ている。
十人ほどの召使なのか、ボディガードなのか、体格のいい男から細身の男までがいる。
紅蓮が話し出そうとしたとき、椅子に座っている男から声をかけてきた。
「裁判を明日にする。何故かは・・・分かっているね?」
「・・・はい。松田裁判長のことですね。」
男の問いかけに対して、紅蓮が堂々とした態度で話し続ける。
「そのことなんだが・・・。他言無用で頼むよ。世間がその事実を知れば、私たちの信頼は脆く崩れていく。それだけは避けなければいけない。勿論、報酬は倍出す。」
男がそう言うと、脇にいた男のうちの一人が、紅蓮に封筒を差し出してきた。その中身は見なくてもわかっている。札束だ。
口封じであることも理解していた。
「申し訳ありませんが、私はこのことを公表します。それこそ、私たちの信頼だと考えます。」
「・・・優等生なんだね、君は。」
声のトーンが低くなったような気がする。隼人も渋沢もそれを感じ取った瞬間、周りにいた男たちが、紅蓮に向かって襲いかかってきた。
しかし、それらの拳が紅蓮に当たることはなかった。
というよりも、近づくことも出来なかった。
「うちの大事な裁判長に、手ぇ出してもらっちゃァ、困るんだよなぁ・・・?」
その理由は、隼人と渋沢が男たちの手を制止していたから。
あきらかに、周りにいる男に比べると、二人してひ弱そうに見えるが、そこから発せられた覇気というか、殺気というか、とにかくビリビリとした空気によって、男たちは後ずさりした。
「・・・というわけです。失礼しました。」
平然とその場を後にする紅蓮に続いて、渋沢もペコリと頭だけ下げると部屋を出ていった。
「右目の調子はどうかね。」
二人に続いて部屋を出ようとしていた隼人の背中に向かって、男が聞いてきた。
ギィ・・・という椅子を回す音が聞こえたが、隼人は振り返ること無く答えた。
「まぁまぁ・・・。」
部屋を出ながら、ネクタイを緩めて息苦しかったことからの解放感に、隼人も渋沢も安心している。そんな中、紅蓮だけはネクタイをしたまま自室に戻るため、足を速める。
「よろしかったのですか?松田裁判長のことが知られれば・・・。」
「いい。というよりも、無理だ。隠し通せない。あいつらが黙っているわけないだろう。」
「今夜、部屋に忍び込んで口を・・・」
「止めておけ。お前が生きて帰ってこれるか分からんぞ。まあ、責任もきちんと取ってもらう。」
男たちは、未だ納得出来ないように、互いの顔を見合わせていた。ただ一人、椅子に座っている男だけを除いて。
「退屈な日常を、楽しませてくれるかな?」
部屋に戻ると、隼人は即座に上着を脱いで、ネクタイと一緒にソファにかけ、自分はため息をつきながら腰を下ろす。
渋沢は上着のボタンを外してネクタイを緩め、台所に行ってコップに水を汲む。それに便乗しようと、隼人が渋沢に水を持ってくるようにと頼む。
同様に、紅蓮もネクタイを緩めて、ソファにゆっくりと腰を下ろす。緊張したわけではなく、自分のいる場所がしようとしていることに、がっくりしたという感じだ。
期待していたわけでもないが、金で自分を動かそうとした、その行動が受け入れ難いものだったのだ。
「はい。紅蓮も。」
渋沢が、隼人の分を持ってくるついでに、紅蓮の分も水を汲んできてくれた。それを口に含み、鼻で深呼吸をする。
「この裁判が終わったら、此処から追い出されるかもしれない・・・。」
小さめの声だったが、確かに隼人と渋沢には届いた紅蓮の声。
此処から追い出されても死ぬわけではない。だが、生活していくためには、やはり住む場所というのは大切であって、それを失うかもしれない。
「俺は気にしねえよ。」
言葉に詰まっている紅蓮に応えたのは、隼人だった。背もたれに両肘をかけて、足を組み、天井を仰ぐ姿勢だったが、次の瞬間には紅蓮の方をしっかりと向いて話す。
「お前が俺達のことで前に進めねぇってんなら、んなこと気にすんな。自分の事くらい自分で守るし、此処以外に行く場所なんて、どうせ無ぇんだ。やることやって、結果どうであっても、お前についていくからよ。」
真っ直ぐな眼差しで、迷いのある紅蓮を諭す。渋沢も紅蓮を見て頷く。
―・・・こういう奴らだった。
思い出したようにフッと、口元を微かに弧にして笑う紅蓮に、隼人が次の話題を投げかける。
「で、明日は勝算あんのか?」
悪魔は隼人には見えても、他の人には見えない。見えるようにするには、隼人に体力を使ってもらう必要がある。
それに、同じ職場の人間を法廷に立たせることにもなる。まあ、自業自得なので、特に同情も何もしていないのだが。
紅蓮たちが煙たがられていることも知っていた。
「さあな。」
水を一口飲んで、テーブルに戻す。ため息をつきながら足を組んで、しばらくぼんやりとしていた紅蓮だが、急に立ち上がって自室へと向かう。
キョトンとした顔の隼人と渋沢を他所に、紅蓮は自分の部屋で資料をもう一度見直す。
その行動は、頭が仕事モードに突入したことを示していた。
スーツのままであることも忘れて、パソコンも開いて資料と身比べて、違っているところが無いかを確認している。
仕事モードといっても、いつもそのスイッチを切っているわけではない。逆にいつも入っている。
息抜きを上手く出来ないのが紅蓮であり、息抜きを上手く利用できるのが渋沢。
休んでいると思っても、頭の中では裁判のことばかりを考えてしまっている紅蓮は、自分のペースを保てる隼人を羨ましがっているらしい。
「隼人、明日裁判見に行くんだろ?」
紅蓮が部屋に入ってから、山積みの本を読みだした隼人に、暇だった渋沢が聞いた。
隼人はまたもや難しそうな分厚い本を読んでいる。
返事が返ってこないので、本に集中しているのだろうと思った渋沢は、ソファにかけてある隼人のネクタイと上着、自分のネクタイと上着をクローゼットにしまいに行く。
―ちょっとしか着てないし、クリーニングはいいかな。
防虫剤を眺めながらウンウン唸っていた渋沢は、滅多に着ないスーツを睨みつけるように見つめながら考えていた。
結局、皆のスーツにシワがついているので、アイロンで誤魔化すことにした。
隼人がいる部屋に戻ると、未だ本を読んでいる隼人がいる。
先程とは違った体勢になっていて、ソファと平行に身体を寝そべらせている。本を顔の上に持ってきていて、本の表紙が見える。
そこには、『世界の格言~生死編~』と書かれていた。
いつものようにパラパラと速く読んではいるものの、気に入った言葉があったのか、行っては戻り、行っては戻りを繰り返している。
渋沢は台所に向かって、カップ麺を用意する。
―今日も買い出し忘れたな・・・。
本当なら、裁判に向けて気合いの入る料理を食べたかった。三人とも、普段から乱れた食生活を送っているので、裁判の間だけでもまともな食事を食べたいと感じていた。
出せば出した分、残さずに食べる三人の食欲からしてみると、カップ麺では物足りないのだ。
物足りないというよりは、素直に『足りない』。
「・・・なんかイイ格言でもあったの?」
お湯を沸かせ、カップ麺の用意を着々と進める渋沢は、あまりに暇なので隼人に話しかけた。まだ沸騰するまでに時間のかかるであろうポットを横目に、頬杖をついて隼人の方を見る。す
ると、隼人は目をキラキラ輝かせて、『よくぞ聞いてくれた!』と言わんばかりにニヤリと笑った。
「聞きたいか?」
何故かもったいつける隼人に、渋沢は面倒臭そうに『別にイイ』と答えると、『まぁ、聞けって』と言いながら、隼人は渋沢のいる台所まで足を運んできた。
隼人がこんなに本を読んで目を輝かせるなんて、今までに二、三回くらいしかなかった。
一度目は、最初に紅蓮に渡された『広辞苑』という本だ。つまり、辞書なのだが、その本の分厚いこと分厚いこと・・・。
そうして広辞苑を渡されたかというと、隼人の日本語が怪しいとかそういう理由ではなく、単に暇を持て余している隼人に何か読ませようと思ったが、広辞苑と六法全書しか無かったのだ。
六法全書は、隼人も読んだであろうし、辞書でも読ませようと考えたのだ。
辞書なんて手にして楽しそうにするなんて、そんな人あまりないだろうが、隼人はテレビも見ずにずっと辞書を読んでいた。流し読むようにパッと捲っていたはずなのに、頭には入っているようだ。
頭には入っている正しい言葉の意味や使い方を、自分の口から言葉として発するという行為は苦手なままである。
二度目は、初めて供述調書を読んだ時。
裁判に関する資料を勝手に読んでいた隼人を、紅蓮は最初怒ろうとしたのだが、素早く読んで頭の中で整理して、矛盾点を探し出すのが上手かった。
隼人にしてみれば、供述調書も本などの書物の一つなのだろうが、紅蓮や渋沢ですら見逃してしまいそうな些細な事を、すぐに見つけて、今まで詰め込んできた知識をフルに回転させて問題解決に導く。
隼人本人は、供述調書のことを、写真付きの絵本くらいにしか思っていないと思う。
三度目は、渋沢は暇つぶしに買ってきた雑誌を取り上げて読んだ時。
特に読みたいことが載っているわけでもなかったのだが、難しそうなナンバープレートが載っていることと、男性用の心理テストが載っていた為、興味本位で買ってみたのだ。
心理テストがやりたいなんて女々しいと思ったが、まあ、興味があったから仕方が無いとする。
渋沢が帰って、本をテーブルの上に出し、一度水を飲みに台所に行っている間に、隼人がソレをソファで寛ぎながら読んでいた。
『超難関!』と書かれていたはずのナンバープレートには、全部のマスに数字が入っていて、ぺラッと捲ったページには、『心理テスト』と書かれていた。
止めようとしたがもう遅く、ペンで直接雑誌に書きこんでいく隼人を見ながら、ただうなだれていた。
心理テストなど信じないような隼人だが、『参考にくらいはする』と言っていた。
「幾つかあるんだけどよ、幾つ言えばいい?」
それでもイイ質問してきた、と思いながらも、隼人は言いたくてしょうがないようで、うずうずしているのが分かる。
「いくつでもいいよ。どうせ全部言うんでしょ。」
半分呆れながら、カップ麺にお湯を入れる渋沢に、隼人は本を閉じてニヤッと笑いながら、台所からソファのある部屋を歩き回る。
しかも、舞台に立っているかのように、両手を天井に広げる様にしながら。
「ロマン・ロランはこう言ったんだ。『もっとも偉大な人々は、人に知られることなく死んでいった。人々が知るブッダやキリストは、第二流の英雄なのだ』!」
―ロマン・ロランって誰?
渋沢が隼人に問いかけようとしたが、渋沢の声を遮るようにして、隼人が続ける。
「クレッチマンはこう言ったんだ。『お前の人生が戯れにすぎなかったのなら、死はお前にとって真剣事であろう。だが、お前が真剣に生きたのなら、死はお前にとって一つの戯れであろう』!」
―クレッチマンって誰?
なおも楽しそうに両手をあげながら、部屋を回り、ソファにドサッと座りこんだ隼人。
「ナポレオンはこう言ったんだ。『生きている兵士の方が、死んだ皇帝よりずっと価値がある。』!」
―ああ。ナポレオンなら知ってる。本当は馬じゃなくて、ロバに乗ってた奴・・・。
ソファに座りながら、今度は足を組んで、左ひじを背もたれにかけ、右手を斜め上の方向に差し出した。
「レーントン・ワイルダーはこう言ったんだ。『死者に対する最高の手向けは、悲しみでは無く感謝だ。』!」
―だから、誰?
「中島敦はこう言ったんだ。『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。』!」
―ああ。聞いたことある。
「ソロモンはこう言ったんだ。『賢者は聞き、愚者は語る。』!」
―ソロモンね・・・。てか、いつまで続くんだろう。
渋沢は、きっと三分経ったであろうカップ麺の蓋をあけて、カップ麺の『激辛!カレー味』を口に運んでいく。
熱かったため、息を吹きかけながらゆっくり食べることにした。
その間も、隼人は楽しそうに格言とやらを並べていく。よくもまあ、人物の名前まで覚えてるもんだな、と渋沢は感心している。
「スタンダールはこう言ったんだ。『退屈は全てを奪う。自殺する勇気さえも。』!」
隼人が興奮しながらソファから立ち上がり、何故かガッツポーズをして、それで終わりかと思ったら、まだ続くようだった。
渋沢がカップ麺を食べながら呆れていると、どこかの部屋のドアが勢いよく開いた。
どこの部屋かなんて、考えなくてもわかるのだが・・・。
紅蓮が部屋から出てきて、隼人の近くまで行くと無言で頭を叩いた。その光景を見て、思わず口から麺が出そうになったが、渋沢は何とか堪えた。
隼人は今までの明るい顔から、ブスッとした顔に変わり、紅蓮を睨むがそんなもの効かない。
紅蓮は、頭の中で明日の為に整理をしていたのに、隣の部屋から、いきなり格言を大声で並べられてのだから、いつ怒ってもおかしくはないと感じていた。
とりあえず紅蓮のドス黒いオーラを感じ取った隼人は、反抗的な態度を一変、土下座をして謝った。
ため息をついて、今まで着ていたスーツを脱いでソファに投げ捨てる紅蓮が、渋沢がカップ麺を食べていることに気付いて、自分も食べようと準備を始める。
しばらく黙っていた隼人だが、二人がカップ麺を食べているのを見て自分もお腹が空いたらしく、カップ麺を用意する。
カップ麺の入っている箱の隣に、お菓子の缶があることに気付き、おやつとしてテーブルに並べる。
紅蓮に睨まれた気がしたが、気にしない。
カップ麺だけじゃ足りないことは三人とも分かっていたし、栄養面を考えたとしても、今はどうにも出来ない。とにかく、お腹を満たすことに専念しなければいけない。
「明日、俺も法廷行くから、なんかあったら立ってもいいぜ。」
隼人が紅蓮に対してかけた言葉は、悪魔を見せる為に法廷に立ってもイイという内容。“なんかあったら”といっても、それを想定ではなく、断定として言っている。
通常、悪魔が係わる事件などの時には、被告が発狂するために悪魔がいると判断出来るのだが、今回のように悪魔が大人(悪魔に大人や子供がいたことは初耳だが)の場合はそうはいかないだろう。
『目に見える』悪魔が確認できない以上、悪魔を地獄へ堕とすことは不可能だ。それをしなければいけない今の状況では、隼人に頼るか方法は無い。
「迷ってる場合じゃァねぇだろ?子供悪魔も親と一緒に松田喰う心算だぞ。松田の家族が契約交わす前に止めねぇと。」
「分かってる・・・。」
「分かってねぇよ。」
迷いを払拭しきれていない紅蓮に、隼人は少し苛立ったように腹から声を出す。組んでいた足を下ろし、テーブルに肘をつき、手に持ったままの箸の先を紅蓮に向ける。
口の中には僅かに麺がはいっていて、多少の聞き取りにくさはあるものの、強い口調で発せられたその声は、確かに紅蓮にも渋沢にも届いた。
カップ麺を食べ終えた紅蓮は、箸を置いて隼人を睨む。
渋沢はどうしていいのか分からずに、二人を交互に見ながらとにかく麺をすすっている。
「隼人。お前の身体だって悪魔を飼ってる影響が無いわけじゃないことくらい知ってる。体質的に隼人の家系は免疫がついてるだけであって、右目の侵食だって進んでる。それに、悪魔を俺達にも見える様にするためにしても、肉体と精神にかかる負担はデカイ。お前が興味本位で法廷に来ることくらいなら許すが、それ以外のことは俺が許可しない。」
「なんで善良な一般市民が協力するって言ってんのに、拒否されなくちゃいけねぇんだよ。」
「大人しく本でも読んでろ。」
そう言うと、紅蓮は台所から出ていき、自分の部屋に戻ろうとした。渋沢は食べ終えたカップ麺を片づけに入るが、ムッとした隼人のオーラを背中に感じる。
紅蓮が隼人や渋沢の事を心配しているのは分かっているし、隼人も何かしたいというもどかしさを抱えているのも分かっている。
紅蓮が部屋のドアノブに手を掛けた時、隼人が鼻で笑いながら独り言のように呟いた。
「ハッ・・・。松田が悪魔に喰われることなんかどうでもいいが、このままだと、負け戦に行くようなもんだな。しかも武器も持たないで。」
挑発なのか、それとも正直な感情をぶつけたのか、それは分からないが、その言葉によって紅蓮の肩が微かに動いたことは分かった。
隼人もそれを確認すると、椅子から立ち上がってソファに向かうと、ドサッと座って本を読みだした。
ドアノブに手を掛けたままの紅蓮の背中に、さらに言葉をぶつける。
「いくら負け戦でもよぉ・・・、武器くらい持って行けよ。戦にもなりゃしねぇ。」
ドアノブにかけていた手を下ろして、隼人の座っているソファの正面にあるソファに紅蓮は腰掛ける。
片づけを終えた渋沢も、コの字型になるようにソファに座る。
隼人は片手に本を持って、片手は背もたれにかけて足を組んでいる。
紅蓮は足を広げて座り、それぞれの膝の上に肘を置いて、両指を絡めるようにして握っている。
重苦しい空気の中、渋沢はとりあえず大人しく座っていた。
「寿命が縮むかもしれないぞ。」
隼人とも渋沢とも目を合わせることなく、テーブルを見つめながら発した言葉は、とても弱弱しかった。
「俺は長生きする心算は無ぇ。寿命が縮むなら、好都合だ。」
本を捲りながら言葉を返す隼人に一旦視線を送り、目を閉じて、またテーブルに戻すと、深いため息をつく。
平然としながら本を読んでいる隼人は、本当に長生きなど考えていないようだ。そもそも、長生きしたところで、やりたいことも何もないのだろう。
格言に目覚めてしまったような男だ。
生きることには関心がないようで、その人にとって、本当に長生きがいいものなのかなど分からないのだ。長生きしたいと思うのは、生まれたことに関して、元を取りたいと考える人間の厭らしい部分なのかもしれない。
―人間、死ぬときは死ぬのが良い。
確か、『白隠』とか言う人の言葉である。生まれることと死ぬことは、自分ではどうしようもない問題なのだ。
この言葉を座右の銘にでもしているのかと思いたくなるような隼人の発言に、渋沢は苦笑いをした。
「俺、紅蓮がそんなに俺のこと心配してるなんて、初めて知ったよ。」
隼人の言葉に、渋沢だけでなく紅蓮も目を丸くさせて驚く。というより、気持ち悪がっている。紅蓮の額に青筋が見えたのは、今は見なかったことにしよう。
隼人が本を読みながら馬鹿にしたように笑っていたが、紅蓮の様子に気づくと、みるみるうちに顔を引き攣らせる。
今にも悪魔を地獄に堕とすときの言葉を口にしそうな紅蓮の覇気を感じ取り、隼人は組んでいた足を下ろし、両膝を曲げてソファに乗せる。
「ハ・・・ハハハ。じょ、冗談だ紅蓮。落ち着け。そんな気持ち悪いこと、本当に思っているわけないいだろ?」
精一杯、誠心誠意、全身全霊で紅蓮を宥めようとする隼人だが、紅蓮からの殺気は消えない。ソファの上に避難したところで、何の避難にもならない。
渋沢は、紅蓮のオーラに気付いて、さっさと自室へと逃げ込んでいった。
無言の圧力がふりかかってから数分後、紅蓮はため息をついてのんびりとソファに全身を預けた。
―?な、なんか知らないけど、助かった・・・。
心の中で安堵のため息をついた隼人。
いち早く自室に避難していた渋沢も部屋に戻ってきて、ソファに座りなおして、いつの間に用意したのか緑茶をすすっている。
「無理させるかもしれねぇ・・・。」
部屋に響いた言葉は、罵声とか怒声ではなく、謝罪と不安を抱いたものだった。その言葉は、天井に吸い込まれていった。
「ま、もし死んだら、骨くらい拾ってくれりゃあいいからよ。」
隼人は、ソファに乗せていた両足を床に置き、再び足を組んで本を読みだした。
「間違っても、お前は死ぬんじゃねえぞ。」
おちゃらけて言ったかと思えば、今度は至極真面目な顔を紅蓮に向ける。
渋沢も、こんな真剣な隼人を見たのは久しぶり・・・というのか初めてであった。
読んでいた本を閉じて、ソファの開いてるペースに置き、腕組をする。眼帯をしているはずの右目からも強い視線を感じる。
「別に俺達は仲良しごっこで此処にいるわけじゃねぇはずだ。自分が出来ることをして、少しでも多くの悪魔を地獄に送るって言う目的を持って此処にいる。自分の能力を最大限に引き出せる場所として選んだ。もしもこの中の誰かがいなくなったとしても、すべきことを全うすべきなんだ。」
隼人の言葉を遮って、渋沢が話した。
「なら、隼人こそ死ぬべきじゃ無いだろ。」
渋沢の回答に、紅蓮も同意のようで、身体を貫きそうな視線を向ける。
「言ったろ。俺は“異端”なんだ。“異常”なんだ。此処に残ったとして、何が出来る?誰も俺に近づきやしねぇ。利用されても、まあいいが、利用されても真実が隠されるんじゃァ、意味が無ぇだろ。お前なら包み隠さず全部、言ってくれるって思ってっから此処にいんだ。信頼関係が無けりゃ、今お前らと一緒にはいねぇよ。それに・・・」
ふと俯きながら、さっきまでの威勢を失くした隼人に、紅蓮と渋沢は疑問を持つ。
「まだ心残りがあるからな・・・。」
何やら、真剣な悩みごとでもあるのだろうと思い、隼人を慰めようとした渋沢だったが、そんな気持ちを知ってか知らずか、隼人は組んでいた腕を解き、顔を手で覆うように隠す。
「この間の運勢で、来月は金運も健康運も恋愛運も最高だったのに・・・それを経験しないで死ぬなんて・・・。あまりに心残りで・・・・。」
果てしなくどうでもいい理由で、紅蓮はソファから立ち上がって、隼人の頭をガンッと叩く。
その勢いで、隼人は顔面からテーブルにぶつかった。
「い・・・・・・・・ってえぇぇえぇ!!」
叩かれた頭ではなく、ぶつかった鼻を押さえて隼人は叫ぶ。
頭につけているターバンもズレてしまっているが、何よりも鼻が赤くなっている。サンタのソリを引くトナカイみたいに。
隼人の頭を叩くと、紅蓮は満足したように自室へと戻っていく。
自信喪失をした、抜け殻のようだったその背中は、生き生きとしているように見えたのは、隼人と渋沢の見間違いなのかもしれない。
叩かれた頭を摩りながら、隼人は本を手にとって、読みかけのページを開く。しおりなどは使っていないことから、何ページまで読んだのかを覚えているのだろう。
そんな事に感心しながら、渋沢は一人またのんびりと緑茶をすする。
紅蓮が部屋に戻ってからかれこれ四時間が経とうとしていたころ、明日に備えて早めに寝た方がいいと考えた渋沢が、紅蓮の部屋をノックする。
さっきの本から、もう六冊目に入っている隼人も半分寝ている状態になっている。
「紅蓮。もう今日は寝た方がいいんじゃない?」
ドアを開けて、中にいる紅蓮に声をかけてみる。
紅蓮は集中して資料を読んでいたが、渋沢の声に振り返り、時計に目をやり時間を確認する。
「俺はまだ確認することがある。それよりも、隼人を何とかしろ。」
そう言いながら、紅蓮がソファで今にも熟睡しようとしている隼人に視線を送ると、渋沢もその視線の先にいる隼人に気付いた。
もうすでに本をソファに置いていて、ターバンを首まで下ろしてだらんとしている。
このままでは風邪をひいてしまうかもしれないし、隼人は明日、誰よりも体力を使うかもしれない。右目を使うとなれば当然だ。
紅蓮が心配しているのは、きっと後者の方だろうと感じた渋沢は、紅蓮の部屋を出て隼人のもとへと足を向ける。
「隼人。寝るなら自分の部屋で寝な。あ、お風呂は?明日朝入る?」
渋沢の問いかけに対して、何か答えたのは分かったが、寝惚けた隼人の言葉は全く聞き取ることが出来ない。
渋沢がどうしようかと考えていると、隼人は寝ぼけながらもソファから立ちあがって、自室へと歩き始めた。大丈夫かと見ていると、無事に到着してベッドにダイブした。
スーツのままだったことに気付いたが、完全に寝入っている隼人を起こしてまで脱がすこともないと思い、諦めて明日の朝洗濯することにした。
隼人が読んでいた本を持って隼人の部屋に入り、隙間のない本棚に被せる様に置いておく。
普段から互いの部屋を行き来することはあるが、こうして改めて隼人の部屋を見ると、所狭しと本が並べられている。
基本的に質素で殺風景な部屋だ。本棚意外にあるものは、ベッドとクローゼットくらいなものだ。生活必需品さえもまともに揃っていないように感じる。
紅蓮も同じように殺風景ではあるが、ベッドとクローゼット、自分用のテーブルとその上にある資料の山。パソコンもあるし、隼人ほどではないが本も何十冊かはある。
渋沢の部屋も紅蓮と似たような感じだ。違う点といえば、資料の量くらいだ。あきらかに紅蓮の方が多い。
隼人が寝てから数時間後、渋沢はお風呂に入って寝る準備をしていた。
お風呂から出て、しばらくは一人でテレビを見ながらサキイカを肴にしてコーラを飲んでいた。
紅蓮はまだ部屋にこもっている。
チャンネルを変えても、面白い番組がやっていないため、渋沢は諦めていつもより少し早いが、寝ることにした。
紅蓮の部屋から漏れている微かな灯りを見て、一応声をかけておこうと、部屋に入る。
「俺も先に寝るから。風呂は沸かせば入れるよ。」
「わかった。」
資料と睨めっこ中の紅蓮の耳に、本当にちゃんと届いたのかと思ったが、まあ、何を言っても無駄だろうと知っている渋沢は、部屋に戻って寝ることにした。
―翌日 午前四時
誰よりも早く寝た隼人がベッドからのそりと起きて、シャワーを浴びる為にお風呂に向かう。
着たまま寝てしまって、少しシワのついたスーツを脱いで、ターバンもピアスも眼帯も外す。
蛇口をひねればお湯が出てきて、勢いよく頭をかき乱す。
頭から首筋、お腹、足の指先までを伝っていくお湯を肌に感じながら、両手を壁について目を閉じ、深呼吸をする。
目を閉じれば耳を犯すように話しかけてくる悪魔の声。小さい頃は耳障りで、恐ろしくもあった。
それが当たり前だと思っていたから、悪魔の話をするとみんなが離れていった。
こんな右目の存在を受け入れる人は少なく、いたとしても、右目を解剖しようと企んでいる奴や、被検体にしようと目論んでいる奴らばかりだった。
全身に流れるお湯が、まるで身体の中を駆け巡る血液のようで、自分の心臓音の指揮に合わせて動いているようだ。
目をそっと開けて足下を見ると、なんだか自分が死んでいるような錯覚を覚える。
髪から滴り落ちる水滴も虚しく排水溝へと吸い込まれていく。抗う術も無く、ただ流れていく。
―悪魔の子だ。
耳鳴りがする。
隼人の右目が悪魔を飼い始めたのは、生まれてすぐの夜。
何代にも渡って受け継がれていたはずの右目は、なぜか隼人には受け継がれていなかった。
あの右目を受け継いでこそ『千石家』という証であったのだ。
ソレを受け継いでいなかった隼人は、親戚一同から『忌子』として嫌われるだろう。
母はそのままでいいと言ったが、心配した父の方は何としても右目を受け継がせようとした。
そして、その日の夜、隼人の右目は移植された。
生まれて間もない自分の子に傷を付けるなど、信じがたい話ではあるが、それほどまでに隼人は右目を受け継がなければならないという使命を持っているのだ。
隼人の右目はその日から赤く染まっていて、右目の痛みから、朝な夕な泣き続けていた。
移植のせいで拒絶反応を起こしているのだ。
齢十になった頃、自分の右目の事を聞かされた隼人だが、特に気にはしていなかった。
世間から見ると『異端』であり、『千石家』から見ると『当然』であった。
そんな板挟み状態のまま成長し、右目の痛みにも鈍感になってきた。
―お前は“忌子”だ。
そんな声は聞くことは無かった。
―お前は“異端”だ。
代わりにそんな声を浴びる日々が続く。
その右目を有効に使う為に、代々裁判長や裁判官をしていた隼人の家系は、自然の流れで隼人を法学の道へと進めた。
もとからなのか、努力をしたのか、それは分からないが、いつも成績はトップだった。
右目に眼帯をつけていることで赤い目は隠せたが、眼帯をしている時点で、『赤い右目を持っています』と言っているようなものだった。
いつも一人で窓の外を眺めていた隼人に、聖や紅蓮、渋沢と言った、所謂『物好き』な奴らが集まってきた。
ある者は、毎回試験の勝負を挑んできた。
ある者は、分からないところを聞きに来た。
ある者は、ただ暇で遊びに来ていた。
悪い気はしなかった。むしろ、感情もなかった日常を、非日常という形にしてくれた。
それでも、右目からの悪魔の囁きは消えない。
―どうしてお前が俺達を飼っている?
―脳からお前を喰い尽くしてやろうか。
―俺達の契約相手はお前じゃ無いはずだ。
―お前は右目を受け継ぐことが出来なかった、『咎者』だ。
―死ね。死ね。死ね。
―失明させることだって出来るんだぞ。
―俺達の言う事を聞け。
―ここから解放しろ。
悪魔との契約は、半永久的なものだ。それは誰にも破ることは出来ない。
もしも、悪魔の囁きに惑わされて、悪魔を解放しようものなら、持ち主も悪魔と共に地獄へと堕とされる。
遠い親戚から移植された隼人の右目の悪魔は、契約したのは隼人ではないことを知っていた。
契約は半永久的。
隼人は悪魔からの囁きを聞こえないふりをしてきたが、脳へと直接語りかけてくるその声達は、隼人にとって雑音、あるいはBGMのひとつでしかなかった。
悪魔との契約について知ろうと思っても、聞く相手がいなかった。
だから、自力で勉強した。
本だって何冊、何十冊、何百冊と読んだし、出来る検査は全て受けて、ソレを頭の中に叩きこんだ。
そして、悪魔との会話も段々と出来るようになった。
―お前は契約外の人間だ。
―解放しろ。解放しろ。
―喰ってやる。まずはお前の脳味噌から喰ってやる。
そんな悪魔たちの声にも反論できるようになった。
契約したものから受け継いだ場合も、受け継いだ者を『契約した者』としていること。
よって、受け継いだ隼人も契約した人物として扱われ、悪魔たちは隼人の身体を喰い荒すことは出来ないという事。
隼人は移植によって拒絶反応を起こすが、それは『運命』という言葉で納得するしかない。
そういう言葉は信じたくないし、そういう言葉で片付けたくなんか無いというのが、隼人の本心ではあった。
―運命?笑わせるな。神とやらが、お前に背負わせた『産まれてきた罰』だ。
―生きていく為にしがみ付く。死ぬ為に縋り付く。
右目を通して、隼人に話しかけてくる悪魔の言葉を振り払うように、隼人は頭をブンブンと振り回した。
降りかかるお湯が四方八方に飛び散っていく。
―俺はなんで今こんなこと考えてんだ。
今日は裁判がある。それに集中しなくちゃいけないのも分かってる。
自分がやらないと、悪魔を裁くことは出来ないし、何よりも紅蓮と渋沢の居場所を奪うようなことは出来無い。
壁についていた手を頭に移動させて、ワシワシとかく。
蛇口を捻ってお湯を止め、顔をあげれば額にくっついた髪の毛が視界に入る。
バスマットに足を置いてタオルで身体を拭いていく。頭にタオルを被せて腰にもタオルを巻き、ピアスとターバンを持って部屋へと向かう。
まだ二人は起きていない為、一人でいつものソファに座って足を組む。テレビをつけると、音量が少し大きかったので、リモコンで音量を下げて流す。
流れているニュースを聞きながら、髪の毛をタオルでガシガシと拭き、大体拭き終わったところで、ピアスを付ける。
そのタオルを首にかけたまま、ターバンを握りしめながらニュースを見る。
《四日前、行方不明で捜索されていた二児の女の子が、無事に保護されました・・・》
《今朝、生後五か月の赤ちゃんを窒息死させたとして、母親が重要参考人として・・・》
《昨日のスポーツです。フィギュアスケートの世界選手権の結果・・・》
《えー・・・先程入ってきた情報です。政治資金を横領した疑いで、現職の・・・》
《みんなー!今日も元気にお外で遊ぼうねー!じゃあ、まずは体操だ!》
「・・・くっしゅん。」
腰にタオル一枚つけているだけの格好で、一時間近くもテレビを見ていた隼人がくしゃみをした。
「早く乾かせ。風邪ひいたら元も子もないぞ。」
いつの間にいたのか、部屋から出てきた紅蓮に言われ、隼人は手を軽く上げて挨拶をする。
動く気配の無い隼人に、紅蓮はドライヤーを渡して髪の毛を乾かす様に促す。ドライヤーを受け取ってさっさと乾かし、頭にターバンを巻く。
タオル姿の隼人に服を着るように言い付けると、眠たそうに瞼を動かしながら頷くが、そのまま寝入ってしまいそうな勢いだった。
それを阻止すべく、紅蓮が頭を叩いて起こし、隼人はしぶしぶ部屋に戻って着替え始める。
いつもの黒のシャツを羽織ってカーゴパンツかと思いきや作業用のズボンを履いている。ラフで動きやすい格好が好きな隼人だが、法廷に行くというのに、なんともラフ過ぎる。
「おい。お前、今日法廷に来るって言ってたよな・・・?」
「あ?ああ。言ったけど?」
「その格好で行くのか。」
しばしの沈黙・・・。
「ダメか?」
「・・・まあ、俺個人的には気にはしないが、他の連中はどうだかな。」
はて、と考えたように首を捻りながら自分の格好を確認する隼人。だが、それほど気にならないようで、ソファに腰を下ろした。
「俺が正装して行った方が、変じゃね?違和感ありまくりだろ。」
着替える心算の全くない隼人に、もう何も言うまいと、紅蓮は静かにソファに座った。
時刻は午前五時半。
裁判の準備もある為、早めに出かける必要がある。
紅蓮は時間を確認すると、裁判用の服装に着替えるなどの身支度を整える。
十字架のネックレスも忘れずにつけて、髪を一つに縛り、法廷に向かう準備をする。
「あ?もう行くのか?」
「ああ。色々と準備があるんだ。十時から見られるけど、もう少し早めに来いよ。」
さっさと出かけて行ってしまった紅蓮を見送ると、隼人は部屋に戻って本を一冊取り出して、ソファに座りなおした。
本を読みだすと時間の感覚が無くなるという自覚があるようで、タイマーをセットしてから本を読み始める。もっとも、タイマーが聞こえるかは定かではない。
渋沢を起こすかどうか考えたが、今日は渋沢も紅蓮の裁判を見に行くと言っていたから、自分が行くときに声をかければいいだろう、くらいに思っていた。
コーヒーを用意し、表紙をめくる。
目次を飛ばし、いつものペースでペラペラと捲っていく。読んでいる間は、笑うでもなく泣くでもなく、ただ淡々と読む。
興味が無いわけではないのだろうが、隼人からしてみると、参考書や歴史もの、伝記などといったものはあまり好まない。何年経っても、内容がガラッと変わるわけではないからだ。
参考書はこれからどんどん変わっていくだろうから、今読んだことを全面的に信用できない。
歴史ものは、今生きている人間は誰も自分の目でソレを見ていないのだから、百%事実だ、真実だと言えないと考えている。
伝記は、初めて読むのは楽しいが、やはり同じ人物に対しては、同じ内容しか書かれていない。
ノンフィクションは参考になるし、知識として頭に詰め込むならば、最良だ。
しかし、隼人はフィクションの物語が大好きだ。本の中で、自分に似た性格の人物が出てくると、その生き方を真面目に見習ったり、自然と知恵を学んでいたり、人の心理を読み解くのに中々イイ方法である。
隼人が今読んでいる本は伝記ものであったが、小さいころに読んだことのある『グスコ―ブドリの伝記』であった。
懐かしさを感じながらも、内容を覚えている隼人は、ものの数分で読み終えてしまった。
本を戻す為に部屋に向かおうとしたとき、渋沢が自室から欠伸をしながら出てきた。
「おお。起きたのか。紅蓮はもう出てったぞ。」
一旦部屋に戻り、本を数冊手にして、再びソファに座って読む姿勢に入る隼人。
渋沢は半分目を閉じたまま、トイレに行き、戻ってきたと思ったら台所に行って水を飲み、ソファに来て二度寝に入ろうとする。
「今日紅蓮の裁判行くんだろ?寝坊してもしらねーよ。」
「・・・起こして・・・。」
「ヤだよ。自力で起きてみろ。お前なら出来るはずだ。やってみろ。」
そう言い終わる前に二度寝に突入してしまった渋沢を見て、隼人はため息をつき、本に目を戻す。
「おはようございます。」
紅蓮が裁判の準備をする為に法廷に向かうが、挨拶を返してくれる奴もいれば、返さずに白い目で見る奴もいる。
待合室で資料を何度も確認する。
コーヒーを運んできた女性が、紅蓮を見て僅かに頬を染めていたことは、本人以外だれも知らないだろう。
「なぜ、私まで法廷に呼ばれたのかね?紅蓮裁判長?」
厭味ったらしい、ねちねちとした喋り方をしながら歩いてきた松田裁判長をちらっと見て、すぐに資料に目を向ける。
松田は紅蓮の座っている椅子の前にある椅子に座り、下から見上げる様に紅蓮を見る。
十字架のネックレスを身につけていることを確認し、紅蓮は松田の厭味を聞き流しながら適当に相槌をうっている。
―相変わらず、昔の事を根に持つ奴だな・・・。
心の中ではそんな事を思いながらも、決して口には出さない。相手にするだけ時間の無駄だと分かっているからだろう。
松田が、お茶出しをしている女性に叫ぶように声をかけるが、女性は無視をする。
裁判長としての才能も平等性も人間性も冷静さも兼ねそろえているが、身内から嫌われている紅蓮に対して、金で簡単に判決を覆すような松田は、身内からは良い様に利用され、嫌われはしないまでも好かれてもいない。
―ここに隼人がいたら、悪魔が見えるのか・・・?
悪魔が見えない紅蓮にとって、悪魔が見えるということには興味があった。
隼人のような右目を持つことを、羨ましくも思っている。自分の目で悪魔が確認できれば、悪魔という存在を形で認識することが出来る。
最初は、悪魔なんてものを肯定していなかった。
隼人に会って、右目を見た瞬間、一種の興奮のようなものを覚えた。ゾクッと背中を何かが巡って、全身の血がざわついた。
恐怖なんて無かった。どうして自分の目は赤くないのかと考えたこともある。
時計の針を見る。
午前七時五十分・・・。
ジリリリリリリリリリリッ
「!!うっせ・・・。」
タイマーをセットしていたことを忘れていた隼人は、いきなり心臓をビクつかせた音の鳴るところまで手を伸ばし、バシッと止める。
座っているソファの開いてるスペースに本を置くと、目の前でぐっすり寝ている渋沢のもとへと向かい、蹴飛ばした。
「なんでさっきの目覚ましで起きねえんだよ。」
身体をのっそりと動かしながらやっと起きた渋沢に、顎で時計を指して現時刻を知らせる。
「マジ!?着替えてくる!」
目を真ん丸くさせると、一目散に部屋に駆け込んで、だいたい三十秒で着替えてきた。
歯磨きをして髪を梳かし、顔を洗って玄関に向かって走る。
隼人はすでに上着を着て外で待っていて、朝飯であろうパンと飲み物が入った袋を投げて渡す。
袋の中には、パンが五個とカフェオレが入っていた。それを口に押し込むようにして食べながら、法廷へと足を運ぶ。
十字架のついたヘアバンドを首にかけながら、渋沢は朝飯について文句を言う。
「これじゃ足りねえよ。」
「ならもっと早く起きて、弁当十個でも買ってくれば良かっただろ。」
俺と紅蓮なんかオニギリ三個だけだぞ、と付け足す様に渋沢に言っているうちに、法廷の前についてしまった。
扉の前には思っていたよりも人が並んでいて、隼人と渋沢は前から九人目と十人目に並んだ。
ほとんどがゴシップ好きの記者であり、一般人はいないように見える。スーツ姿の記者たちからすると、普段着の隼人たちの方が不思議に思ったかもしれない。
扉が開いて、始まるまでしばらく待つことになり、渋沢と隼人は後ろの方の席に二人並ぶように座った。
弁護士や検察と思われる人が入ってきて、椅子に座って資料を広げる。それほど厚くは無い資料を眺めると、退屈そうに欠伸をしている。
今回の裁判で重要なのは、松田を操った悪魔の存在をどう証明するかだ。
『悪魔に喰われると発狂する』という今までの非常識のような常識を覆すことが出来なければ、『裁判長の被害妄想』という事で終わってしまう。
時間になるまで、トイレに立つ記者もいれば扉を出て上司か誰かと電話をしている記者もいる。すぐに記事に出来る様にとメモ用紙を出しながらも、小型のボイスレコーダーを準備しようと
している者までいた。
「おにーさん。録音はダ―メ。」
そう言って、和やかにレコーダーを没収する隼人を見て、記者が興奮したように見つめる。
「ターバン・・・ピアス・・・そして眼帯!間違いない!君、もしかして・・」
記者が叫んでる途中で、隼人が回りから見えないように、腹へと拳を入れる。気絶した記者をそのまま椅子に座らせて、自分の席まで戻る。
「わーお・・・。大胆、且つ過激だね。」
その様子を見ていながらも止めなかった渋沢は、気絶した記者を憐れむように見つめた。
椅子の背のたれに肘を掛けて、足を組みながら暇そうに法廷を眺める隼人の目に映ったのは、正面から現れた紅蓮だった。
―やっとか・・・。
態度の悪い隼人がすぐ目についた紅蓮が睨むと、隼人はやれやれといった具合にして、組んだ足と掛けていた肘を下ろして、前を向いて座る。
長々とした弁護士や検察の話を目を瞑って聞き流していると、やっと松田が出てきた。
不機嫌そうに紅蓮を見上げながらも、ニヤニヤと笑う。首には紅蓮とおなじ十字型のネックレスをつけているが、あまり似合ってはいない。
《隼人、渋沢。出てこい。》
急に名前を呼ばれて驚いたのは、渋沢だけではない。隼人もまさか呼ばれるとは思っていなかったため、ぽかんとしていた。
《早くしろ。》
急かされるように紅蓮に言われ、渋沢は慌てて席を立ち松田の隣まで足早に向かう。
一方で、隼人の方は特に気にするようでもなく、のそりと席を立つとこれまたのんびりと渋沢の後を追っていく。
隼人を見ると、記者たちは勿論、弁護士や検察官までもがビクッと身体を震わせる。それを横目で見て、堂々と前に出ていく。
「紅蓮裁判長。どういう心算ですか?」
ざわつく法廷を他所に、紅蓮は淡々と話し続ける。
「隼人、始めてくれ。渋沢は手伝え。」
「あ~いよ。」
「お・・・おう。」
隼人が上着を脱いで並べてあった椅子にかけ、眼帯を外して右目を晒すと、皆一斉に息を飲む。
松田の前に立って右目を向ければ、共鳴の雄たけびが隼人の耳に聴こえてくる。
―キハハハハ!!!!!仲間だぁ!
―こいつ、子供を抱えてるぞぉ??
―この喰われてる男、そろそろ肺を喰われそうだなぁ。
脳に語りかけてくる悪魔の声を聞きながら、隼人はほんの少しの間でいいから、他の奴に見えるようにするための準備を始める。
―うるせぇぞ。今から少しだけ力貸せ。
自分から悪魔に話かけ、意識を集中させる。
渋沢は部屋の明かりを消して、隅のほうに留まる。
隼人の様子を心配しながらも、これから起こることは自分にも分からないという恐怖もある。
それは紅蓮も同じだった。
今までの裁判では、隼人の言う子供の悪魔しか分かっていなかったため、隼人を呼び寄せて悪魔を見える様にするなど、考えた事も無かった。
渋沢同様に、心配や多少の恐怖もあったのかもしれない。
―キヒヒヒヒ・・・。いいぜ。愉しませてくれよな。
悪魔の囁きと共に、隼人の心臓が、身体全部の臓器が・・・『軋んだ』。
そして、脳内に響く不協和音に耐えながらも、隼人の右目が不気味な光を灯し始めた。
「なっ・・・なんだぁ!!?」
目の前にいる松田が後ずさろうとしたが、金縛りにあってるように、身体に重しがついたように全く動かない。
脳に命令は届いてるはずなのに、なぜか身体は拒否している。
「お前に見せてやるよ・・・。」
暗闇の中、ボウッと光るその赤い光から聞こえてくる隼人の声。
「本当の、『地獄』ってやつを・・・。」
その瞬間・・・
暗闇だった法廷が、血の海のように真っ赤に染まっていく。
それは決して人の血などでは無く、隼人の目から発せられた光なのだが、その光に呑まれていく感覚が不思議だった。
弁護士も検察官も、紅蓮の他の裁判官も腰をぬかしていて、記者たちもあの世を見ているような表情を浮かべていた。
紅蓮は平然としているように見えるが、若干瞳孔が開いていた。
渋沢も隅で立ちつくしながら、目を見開いて口をあんぐりと開けて眺めている。
その赤い光の海に呑まれたかと思うと、黒い影が幾つも漂っているのを感じ、何かと思って辺りを見渡すと、それは見たこと無い物体だった。
それが悪魔だと気付くのに、そう時間はかからなかったが、魚のように浮かび上がっている数々の黒い物体が、松田の身体に手のようなものを突っ込むと、松田の身体の中から、大小二体の黒い物が出てきた。
―これが、悪魔。
冷静に見ていた紅蓮がそう理解するが、他の奴らはそれどころではなかった。
悪魔が抜けていったことで力が抜けた松田は、その場に倒れこんでしまったし、記者の中には気絶している者や呆然としているものもいる。
弁護士や検察官は、多少驚いてはいたが、見ているものが魔法やインチキではない事を確かめる様に、しっかりと見ていた。
隼人の悪魔が、松田に憑いていた悪魔を捕まえているうちに、紅蓮は判決を下す。
「親悪魔第七地獄行、その子悪魔第四地獄行に処す。また、松田裁判長については十字架不所持における個人過失によって被った害である為、後日、改めて裁判を行う。以上。」
反論する暇も無く、隼人の悪魔が捕まえていた親子悪魔は地獄へと堕ちていき、部屋を赤く染めていた光も、悪魔ごと隼人の右目に収まった。
―時間にしておよそ五分。
たった五分間の出来事だったのだが、それにしては内容が濃すぎた。
渋沢はハッとなって部屋の明かりをつけると、隼人はもう眼帯をした後だった。
椅子にかけていた上着を持って、紅蓮の方を見るわけでもなく、渋沢に声をかけるでもなく、法廷からさっさと出て行ってしまった。
―気持ち悪ィ・・・。
―骨が軋んで、悲鳴を上げてる。
―血液は今ままでよりも元気になって、体中を駆け巡ってる。頭に血が上るようだ。
―心臓が痛い。内臓が痛い。脳味噌から吐き気を覚える。
法廷から足早に立ち去った隼人が向かったのは、紅蓮たちと生活をしている部屋ではなく、近くにある男子トイレだった。
右目からは高らかな笑い声が聞こえてきて、隼人を蝕んでいく。
貧血に似た症状に襲われながらも、隼人は意識をしっかりと保っていなければいけない立場にあった。
移植した右目の拒絶反応に耐えながら、右目と共存、共生するためには、自分を失うことは何があっても避けなければいけない。
荒い息遣いが虚しく響く中、また悪魔が話しかけてくる。
―どうした小僧?やはりお前じゃ俺達を飼えないか・・・。
―キハハハハ!!!!こいつ、へばってやんの!
―喰っちまおう!喰っちまおう!俺、脳味噌喰いてぇッ!!
悪魔が隼人に反逆するなど、在り得ない。
そういう契約なのだから、契約を破った時点で悪魔は地獄への道が有無言わさずに開く。
神経の中を、直接悪魔が通っているかのような気持ち悪さを感じながら、口角を上げて笑う。
―お前らごときに、俺が喰われるかよ・・・。
今の自分に体力が残っていないことは、隼人が一番良く分かっている。
スポーツは好きだし、体力は同年代の奴らと比べると、抜きんでている隼人であっても、こればかりはどうすることも出来ない。
―ああ・・・。吐きそう・・・。
青白い顔で手洗い場に顔を向けていると、頭の上に何か被さってきた。
それが何かを確認するように触ると、少し厚みのある布であり、手触りも良く、タオルだと判断出来た。
次に確認したのは、それを持ってきて隼人に渡してきた人物だ。
「随分と顔色悪いな。」
紅蓮と似ている声のトーンではあったが、紅蓮のものとは違った。
「聖・・・。」
地獄の門番である聖だった。
今日は非番で、法律の勉強でもし直そうと思ったらしいが、此処の法廷で紅蓮の裁判がある事を思い出して見に来たらしい。
今しがた到着した為、裁判自体を傍聴することは出来なかったようだが。
隼人は渡されたタオルを濡らすと、口元にあてて荒荒しく呼吸を続ける。その隼人の様子を見て、聖は黙ってトイレから立ち去ろうとした。
「聖・・・。」
隼人に名前を呼ばれて、一旦立ち止まる。
まだ整っていない呼吸を無理に整えようとしてるのが分かったが、あえて本人に向かって言うようなことはしない。
「あんがとな。」
振り向いては見たものの、収まらない吐き気に襲われたままの隼人を助けてやれる術もないと知っている聖は、軽く返事を返して帰っていく。
眼帯をしていているからといって、左目だけで生活しているわけではない。眼帯をつけている右目も見えてはいるのだ。
隼人の右目を隠すための眼帯だが、右目に棲む悪魔の影響で、マジックミラーのようになっている。あちらからは見えなくても、隼人からは見えているのだ。
―胃が・・・。気持ち悪ィ・・・。
トイレで、呼吸が整うまで待っていたら、いつの間にか夕方になっていた。
―どんだけ俺はトイレにいたんだ・・・
タオルを手にして上着を羽織り、紅蓮たちが待つであろう部屋にのんびりと歩いていく。
「お~。今帰ったぞ~。」
親父みたいな台詞をいいながら部屋に入ると、不機嫌な顔をした渋沢と、特になんの感情も持っていない顔の紅蓮が座っていた。
渋沢が紅蓮に対して怒るなんてこと無いだろうし、そもそも紅蓮は優雅にコーヒーを飲んでいる。
二人が喧嘩をしている確率は非常に低かった。
「どうした?」
ドアのカギをかけて、上着を自分の部屋に置いてくるとソファにいつもの調子で座る。
「・・・。」
何も答えない渋沢を不審に思って片眉を上げる隼人は、紅蓮の方を見て同じ質問をする。
紅蓮は説明するのが面倒だと言わんばかりにため息をつき、隼人が法廷から去っていった後の状況を説明する。
「俺の裁判のやり方は、強引だったんじゃないかっていう批判が出たんだ。一応判決は通ったんだが、悪魔を一般市民にまで見せる必要があったのかとか・・・。」
紅蓮に説明されると、納得したような顔を見せる隼人。
―なるほどね。それで渋沢が不機嫌なのか・・・。
渋沢は、とにかく紅蓮を尊敬している。最高裁判所の裁判長だからとかそういう理由だけじゃなくて、渋沢には無い冷静さとか分析力とか、その他諸々、全部を尊敬している。
今回、紅蓮が批判された事を快くはおもっていないだろうし、それに対して何も言い返さない紅蓮にも、多少の苛立ちを持っているんだろう。
それを理解した隼人は、ため息をついて天井を見る。
「それと、隼人。お前の中にいた悪魔を、松田を陥れる為にワザと使ったんじゃないかっていうことも言ってたぞ。」
「松田を?陥れる?んなアホな。」
馬鹿馬鹿しいと思い、肩を上下に動かして笑ってみせるが、その間も渋沢の表情は険しくなっていくばかり。
「まあ、悪魔は悪魔。区別はつかないからな。」
「そーだな。」
その時、勢いよく渋沢が立ち上がって、紅蓮と隼人の二人を見下す様にして睨んだ。
「なんで・・・なんで紅蓮も隼人も言わねえんだよ!俺達は、悪魔から助けただけだろ?なのに、なんで誹謗中傷されなきゃいけねえんだよ!行き過ぎかもしれねえけど、それだって間違っちゃいなかったはずだ!隼人だって、文字通り身を削ってくれたのに・・・。」
最後の方は声が小さくなってしまった渋沢の言葉だが、紅蓮と隼人はしっかりと聞きとった。
言い終わると、渋沢は脱力しながらソファに腰を下ろす。まだ表情は晴れていなく、悔しさがこみ上げている。
「まあ、今は様子を見るしかねえよ、渋沢。確かに俺達はハズレを引かされたかもしれねえけど、結果的に最悪の事態を避けられたんだから、いいじゃねえか。」
まだ納得はしていないようだが、小さく頷いた。
「渋沢もまだガキだな。」
自分の部屋で熟睡している渋沢を確認すると、隼人は台所から缶ビールを取り出してグラスを二つ持ってソファに座る。
一つは紅蓮の前に置いて、もう一つは自分の前に置く。缶ビールを開けて半分ずつよそる。
「まだ若いからな。しょうがないだろ。」
風呂上がりの二人。紅蓮は首からタオルをかけて部屋着の状態。顔は多少赤みが出ているが、気にせずに飲み始める。
「若さか・・・。怖いねぇ・・・。若気の至りってやつだな。」
ククク・・・と喉を鳴らせて笑う隼人は、タオルを腰に巻いただけの格好。
背もたれに肘をかけて豪快に飲むと、急に真面目な顔をして紅蓮に話しかける。
「・・・にしても、これからどーなるんだかね。」
三分の一ほど残っているビールの入ったグラスを、ゆらゆらと動かす。
「さあな。でも、処分とかいう話は出ていないから、そこは平気だろう。・・・これから何も無いといいんだがな・・・。」
空になったグラスを眺めながら紅蓮が呟くと、隼人もため息で返した。
その後十分くらいで自室へ入っていった紅蓮。
ソファに座ったまま一人でボーっと天井を見ていた隼人は、自分の頭の中を反芻する悪魔の声を聞いていた。
―人間ごときが俺達を飼うなんて、無理なんだよ。
―死ね。死ね。死ね。
―キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!!!!
―殺せ。喰え。貪れ。奪え。
―お前も早死にするんだよ!自分で分かってるんだろう?
まるで、イヤホンをして音楽を聴いている感覚で、隼人はその耳障りな音楽を聴いているだけにすぎなかった。
海馬に焼きつくほどの記憶として残されているそれらの声は、隼人に苛立ちや不愉快さをもたらすわけではなく、現実嫌いな隼人を非現実の空間に誘う居心地のいいものにもなりつつあった。
―そうだ。俺にはお前らを飼う力も資格もない。
―だから、この右目を持って生まれて来なかったんだ。
―俺はこんな目、いらなかった。
悪魔が騒ぐせいで痛む右目に触れれば、眼帯越しに感じる温度。
―この右目は生きてる。
そう実感すると、グラスを片して缶を捨て、自室に戻って着替え、ピアスとターバンを外すとベッドに入る。
部屋は暗いまま、しばらくの間仰向けに寝転がって天井を見つめる。目が慣れてきて、だんだん暗闇の中でも周りが見える様になる。
あまり眠くならないので、本でも読もうかとも考えたが、ごろごろとしているうちに自然と目を瞑り、瞑っていると眠気に襲われた。
―深夜一時四十三分、就寝。
―歪んだ愛情を受けた。
―それは身体に植えつけられた一粒の種だったはずだ。
―いつしか時代を超えて遺伝子という形で受け継がれてきた。
―たったひとつの過ちによって、その遺伝子は消滅することとなった。
―蝕まれていく身体。崩壊していく精神。
ああ。私の子。私とあなたの子。ねえ、あなた?この子の名前はね、私決めてあるの。
“隼人”ってつけようと思ってるの。
え?どうしてか?・・・隼って、とても勇敢な鳥でしょ?勇敢で賢くて、風にのって空高く飛んでいくように生きてほしいの。
赤い目なんて持っていなくてもいいわ。その方が、この子にとっては幸せかもしれない。
あなた、隼人を何処へ連れていくの?
―止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて。
小さな温もりを奪われた両腕は、私の涙で冷たくなっていくだけ。
泣き叫ぶ我が子を助けることも出来ないこの私を、何故神は生かしているのだろう。
由緒正しい血筋を引いてきた私の夫。隼人の父親。
何百年もの間純血を守ってきた家系に嫁いだ私は、そんな血筋など引いているわけも無いのだけれど、なんとか結婚をすることが出来た。
跡取りのいなかった『千石家』にとって、唯一生まれた男児である隼人は貴重な存在となった。
―私の子よ。
―私の子よ。
―隼人は大事な私の子・・・。
ゆっくりと目を開けると、窓から覗く太陽の光が、丁度目の部分に重なっていた。
―眩しい・・・。
身体を捻って光が目に重ならないようにする。
鳴りだそうとしている目覚ましを止めて、掛け布団を頭の上まで被せれば、息苦しさを感じるため、鼻までは布団から出すことにする。
―またあの夢か。
ドアの向こう側からは、リズミカルな食材を切る音やコーヒーメーカーが動いている音が聞こえてくる。
二度寝に入って少しすると、良い香りが鼻をくすぐる。
ぎゅるるるるるるる・・・・
お腹の虫がなったところで、隼人はベッドから身体を起こして欠伸をする。ピアスをつけてターバンを手に持ち、洗面所に向かう。
「あ、隼人おはよう。ご飯もう出来てるから。」
「ん~・・・」
半分寝ている状態で洗面所に向かって、顔を洗って歯を磨き、髪の毛を梳かしてターバンをつける。
椅子に座ってテーブルに並んでる朝食を眺める。
トーストしたパン二枚にベーコンエッグ、ヨーグルトにブラックコーヒーだったのだが、不満そうな顔をしている隼人に、渋沢が声をかける。
「え。どうかした?」
「・・・ご飯とみそ汁かと思った。」
好き嫌いなど無い隼人だが、最近は忙しくて軽食ばかりだった為、パンは見飽きていたというか、食べ飽きていたというか・・・。
「文句言ってないで食え。渋沢が今朝買い出しに行ってくれたんだ。」
「渋沢の忠誠心は犬並だな。いただきまーす。」
コーヒーを一口含んでから、パンを食べ始める。
朝食を食べ終えていた紅蓮はコーヒー、渋沢はコーラをこれぞれ飲んでいる。
「今日は紅蓮も渋沢も仕事か?」
ベーコンを口に頬張りながら隼人が二人に聞くと、紅蓮がコーヒーカップをテーブルの上に置いて腕組をして口を開く。
「ああ。昨日の今日だが、仕事は溜まっていく一方だからな。」
「俺も。まあ、今日は事務的な仕事だけどね。」
「へー。お前らも大変だな。」
「うわ。すっげ他人事っぽい。」
「当たり前だろ。渋沢。お前の事務的仕事と言う名の裁判長兼雑用としての資料整理は、手伝わねえからな。」
「人の心読まないで!スケベ!」
「・・・。お前、そういうキャラだっけ?キャラ替え?」
隼人と渋沢でほとんど会話をしている脇では、紅蓮が自分の分の食器を片づけている。
二人のやりとりを適当に聞き流しながら自室へと入り、仕事に行く為の準備をし、すでにドアノブに手を掛けていた。
二人が紅蓮の出勤に気付いた時には、もう紅蓮が出かけていったあとだった。
「あ~。行っちまった。・・・それにしても、毎日毎日忙しそうだな~。」
渋沢との茶番を終わりにして、コーヒーを飲みながら、淡々と仕事をこなしていく紅蓮への感想を述べる。
「今度は殺人らしいよ。それも悪魔関係なしの人間のね。まあ、悪魔に子供と大人がいることが分かった今、もう一回調べ直すようかもしれないね。」
渋沢も仕事に行く為の準備を始める。自分の食器と隼人の食器を重ねてシンクまで運び、洗う。
一人優雅にコーヒーを飲んでいる隼人は、台所を出てソファに座る。
一旦コーヒーをテーブルに置くと、自分の部屋に戻って本を何冊か持ってきて、再びソファに座り直す。
「じゃ、隼人。行ってくるから。昼飯は適当に食べてて。」
「お~。」
ドアが閉まり、部屋の中一人でコーヒーを飲みながら本を読む。
寝転がったり、足を組んだり、鼻歌を歌ったりして、寛ぐ。ただ寛ぐ。
―同時刻 某所
薄暗く肌寒い部屋の中。
アスファルトで囲まれたその部屋の中には、僅かに蠢く肉体。
黒い影が床一面に広がっていて、耳を澄ませれば途絶え途絶えの呼吸が聞こえてくる。
鎖が絡みついた重い鉄製の扉の方から、靴音が響くが、肉体はその音から逃れる術など、体力など、もはや持っていない。
一歩一歩、確実に近づいてくる死の足音。
不思議とその音は耳に懐くように響いていて、恐怖はいつしか消え去っていた。
「Bye・・・・・・。」
意識が零になるまで、柔らかな声が部屋の中でコダマしていた。
「始末したのか。」
アスファルトに囲まれた部屋に入ってきた一人の男が話しかける。
「はい。」
透き通った声の持ち主は、何の感情も持たない人形のような制止した表情で答える。
男は、倒れている肉体の塊に近づいて脈を確認する。
「ん。死亡を確認した。それにしても、ストーカーされたくらいで人殺しとは・・・。随分と恐ろしいお嬢ちゃんだねぇ・・・。」
「ストーカー、犯罪。不愉快。恐怖。殺害、当然。自己防衛本能。」
「過剰防衛って言葉を知っているか?此処にだって人目に触れないようにワザとおびき寄せたんだろう?そんな手の込んだ事までして、正当防衛が成立するかは甚だ疑問だ。」
口の軽そうな男に比べて、お嬢ちゃんと呼ばれた女の方は淡々と単語を並べているだけのようだ。
それが本当の話し方なのかはわからない。
「女性、弱者。男性、野蛮。弱者、守る、警察、仕事。」
「・・・もっとスラスラとは話せないのか?お嬢ちゃんは日本人だろう?それとも、日本人とどこか外国人のハーフなのかな?」
男が煙草を吸おうと煙草の箱を出して一本を口に咥える。
そして火をつけようとしてライターを出した途端、女の口調が一変した。
「おい、親父。レディの前で煙草なんざ吸ってんじゃねーよ。くっせえもん吸う心算なら、此処から出て吸えっつーんだよ。」
男は目をパチクリとさせて、ライターをしまうと、火のついていない煙草を咥えたまま楽しそうに腹を抱えて笑いだす。
「お~、怖い怖い。わーったよ。お嬢ちゃんの前で煙草は吸わねえよ。肝に銘じておく。それにしても、よくストーカーに気付いたな。」
「尾行、下手。失笑。嘲笑。」
「まったく・・・。俺の可愛い娘を尾行するなんて、良い度胸してやがる。」
男が死んでいる肉塊を蹴飛ばしながら、立ち尽くしている女の肩を引き寄せる。
「怖かっただろう。梓愛加。」
女は力なく男に寄りかかりながら、先程とは別人のように、はらはらと涙を流し始める。
「おっ・・・お父・・・さ・・・。」
男は女の震える身体を強く抱きしめながら、血を流している肉塊を冷たく見つめる。その瞳には憎しみや後悔ではなく、哀れみが濁っていた。
男の携帯が鳴り、女から離れて電話をする男。その背中を見つめ、くるりと方向を変えて肉塊の方へと歩み寄る。
アスファルトに転がる肉塊を見下しながら、女は何の表情も浮かべずに笑う。
この梓愛加という女は、決して三重人格とかそういうものではない。
ただ、会う人によって性格を変える生活を繰り返しているうちに、本当の自分の性格がどれなのかが分からなくなってしまったのだ。
もう面倒になってしまった梓愛加は、その三つの性格を回し回しで使っている。
―愛人の子。愛人の子。愛人の子。
ただ、それだけのことで、赤の他人からも白い目で見られて、親戚からも厄介者扱いされて、挙句の果てに母親は母親で別の男と駆け落ち。
―くだらない。くだらない。くだらない。
電話を終えた男が女に近寄って、女が正当防衛と言い張って嬲り殺した男遺体の処理についてを説明される。
良くは理解できなかった。
男の職業は知っているが、だからといって上手く目の前の死体を処分出来るとは思えなかったぃし、悪魔のせいにするとか、しないとか。
「心配するな。梓愛加のことは、俺が守ってやるからな。」
頷くだけの返事をする。
―嘘だ。私を助けたいわけではない。自分の過去の過ちを隠すために、私のした全ての間違いを、闇に葬って、恩着せがましく恩人のフリをするんだ。
―捕まってもいいのに。
―死刑宣告だって怖くないのに。
―どうしてだろう。うずうずする。
―他人が自分の身代りになって『殺人者』として死刑を受けた時の表情が・・・。
―『病み付きになってる』・・・。
女は、男に言われて部屋を出ていく。
振り返ることなく、ただ、これから起こるであろう誰かも分からない人の嘆きや叫びを、飄々とした顔で観察することになる。
信じてもらえない事がどんなに苦しくて悲しい事か、そんなことに興味は無い。
女が欲しているのは、愛人の子として罵られてきた日々を覆すほどの刺激を受けられるような快感。
「否物欲。否性欲。否食欲。唯一、本能的快感。興奮。」
―あの男は、どこまで私の為に動いてくれるのだろう。
「絶対的存在。無形物崇拝。干渉。監視。個人的満足。」
―誰が犠牲になっても気にしない。
女のヒールの音だけが、乾いた空気を振動させる。
―午後四時五分
相変わらずソファに座ったまま本を読み耽っている隼人。
トイレに行ったり、コーヒーを淹れに台所に行ったり、読み終わった本を片づけて新しい本を持ってくるのに自室に行ったり、動作としてはこれくらいだった。
あとは、ひたすら本を読み続けていた。
昼飯は、渋沢が冷蔵庫に用意していったサラダとサンドイッチとシフォンケーキを食べた。
サラダはシーザーサラダで、ゴマのドレッシングをかけて食べ、レタスとトマトとから揚げの入ったサンドイッチは美味しかったようだ。シフォンケーキは紅茶で、さっぱりしていた。
本を読んでいた隼人だが、何もしていないのに徐々に眠気に襲われ始める。
何もしていないからなのかもしれないが、このままでは確実に寝てしまうだろう。
「ただいま~。」
そのとき、渋沢が紙袋を持って帰ってきた。
「おかえり。・・・何だ?その袋。」
視線を、本から渋沢の紙袋に変えて聞くと、渋沢は苦笑いをしながら隼人にお願いをしてきた。
「あのさ~、隼人・・・。ちょ~っと手伝ってほしいんだけど・・・。」
「・・・何の資料だよ。」
あからさまに嫌そうな顔をした隼人だったが、本を閉じて渋沢のほうに身体を向ける。
「検察から提出してもらった資料でさ、懲役とかが妥当かどうかを確認してほしいんだってさ・・・。」
ヘアバンドをしたままの渋沢を見て、仕事の途中のまま帰ってきた事を理解した隼人は、きっと昨日のことで居心地が悪くて帰ってきたんだろうと察知した。
渋沢はテーブルの脇に紙袋を置き、そこから取り出した資料をテーブルの上に並べていく。
「確認って・・・。検察が出した答えだろ?何でお前がそれを確認すんだよ。」
「いやさ、裁判にならない場合、適当に出す奴らがいるんだって。」
ソファに座ってため息をつきながら、一番上にあった資料を手にとって一枚一枚確認していく渋沢。
それを足を組みながら眺めていただけの隼人だが、流石に、目の前に積まれた資料の山を見て同情したのか、ため息をつきながらも確認を始めた。
「おかしい資料があったら、こっちの箱に入れて。おかしくなかったらこっちね。」
用意された二つの箱を見て、『ああ』と返事をした。
渋沢は慎重なのか、それとも几帳面なのか、はたまた読むのが遅いのか、一つの資料を確認し終えるのに、一時間から一時間三十分ほどかかっていた。
隼人はというと、ペラペラとめくりながら、おかしいところをチェックしていって、適切な答えを導きだしていく。一つの資料を確認する時間は、わずか五分から十分。
細かい間違いにもチェックをしているのに、無駄の無い動きをしている。
一休みしようと、隼人がソファから立ち上がって台所に向かうとき、ちらっと渋沢を見てみると、資料と睨めっこをしながらブツブツ何か言っている。
いつもは下ろされている髪の毛は、ヘアバンドによって上げられていて、おでこがよく見える。
冷めてしまったコーヒーを飲み干して、新しいコーヒーを入れ直す。お菓子の入った箱を取り出して、テーブルの上に置く。
「ま、そう怖い顔すんな。マカダミアンナッツでも食え。」
そうは言うが、渋沢は集中していて、隼人の言葉など聞こえていないようだ。
仕方なく隼人も、コーヒーを少しずつ飲みながら、また資料に目を向ける。
時計の針が深夜十二時をさした頃、隼人はもう目が疲れてきたため、寝ようかと思ってソファから立ち上がった。
「俺もう寝るぞ~・・・。」
瞬間、足に重りがついたように動かなくなり、一向に前に進め無い。
「おい・・・。離せ・・・。」
それでも足から重みは消えない。
クルッと顔だけを足の方に向ければ、隼人の足に縋っている渋沢の姿が映る。
「お願いです、隼人様!!もうしばし、私めにご協力願い奉り候!!!」
「お前は武士か!!」
半泣き状態の渋沢が、混乱状態の中、精一杯自分の知っている敬語を使ったんだろうと思い、隼人は自嘲気味に笑いながら、手伝いを続けた。
「二人仲良く真面目に仕事か。ご苦労な事だな。」
そこに救世主現る。
紅蓮が帰ってきたことで、さらに仕事の効率がアップすると思った渋沢と隼人だったが、その紅蓮の手にも、渋沢と同様の紙袋が握られていた。
「紅蓮さん紅蓮さん・・・。まさか、その中って、資料とかじゃないですよね~?」
顔を引きつりながら隼人が言うと、紅蓮は口元を少しだけ緩めて笑った。
「その『まさか』だと言ったら?」
「俺はこれ以上手伝えねーぞ。もう限界寸前なんだよ。パニックだよ。願わくば俺に迷惑かけないように自分で処理しろ。」
「最後、命令形だぞ。それと、お前らの手を借りるくらいなら猫の手を借りる。」
紙袋を持ちながら、紅蓮は自分の部屋へと入っていった。
「猫よりは役に立つと思うけどな・・・。」
ポツリと言った隼人の言葉は、きっと紅蓮には届いていない。
紅蓮が自室に籠って仕事をしていて、隼人は渋沢の仕事を手伝っていると、夜明けになってしまいそうだ。
何時間もソファに座ったままだったせいか、足がむくんできた気もする。
憔悴しきった隼人が、八割から九割の資料の確認が終わっている事を理解すると、ソファから立ち上がって、近くにあるテレビをつける。
「もう五時になんのか。」
テレビの上にある時間の表示を見て、今の時間を知った隼人。
腰に手を当てて、うーんと背を伸ばす。
《昨日午後十一時頃、男性の遺体が発見されました。男性は身元不明で、四十代と思われます。発見したのはタクシーの運転手で、運転手の話によると、現場には一人の別の男性が倒れていたとのことです。男性の手には鉄パイプが握られており、警察は、この男性を重要参考人として、話を聞いています。詳しい情報が入り次第、おって報告します。》
「はー。まったく、物騒な世の中だな・・・。」
呑気に言う隼人の後ろのソファで、うなだれる様に倒れこんだ渋沢。
「終わったか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ナントカ。」
それと同時に紅蓮も部屋から出てきて、目を擦りながらソファに座る。
「そっちも終わったのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあ。」
紅蓮や渋沢よりも体力があるのか、隼人はテレビのチャンネルを替えながら、欠伸をする。
「そういや、さっきやってたニュース・・・。もしかしたら紅蓮が裁判するかもな。」
「あ?何がだ?」
さっき流れたニュースの事を説明すると、また仕事が増えたと文句を言いながら、隼人にコーヒーを頼んだ。
紅蓮と自分の分のコーヒー、それから渋沢の分のコーラを注いでテーブルまで器用に運んでいく。
テーブルに置くと、水を得た魚のような反応を見せた渋沢はコーラを一気に飲み、紅蓮は寝不足で不機嫌そうな顔で口に運ぶ。
ソファに座ってテレビを見ながら、一人足を組んでのんびりとコーヒーを飲む隼人。
だが、誰も知らないところで、隼人の悪魔は笑いながら話をしていた。
―キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ。罠。罠。罠。
―ネジが外れた!歯車が狂った!賽は投げられた!
―身体が滅べば、俺達は自然と地獄行きだ!
隼人もその意味は分からないが、いつもの悪魔同士の戯れのようなものだろうと思っていた。
この三人の中で一番体力のあるのは自分だろうと考えた隼人は、仕方なく風呂を沸かし、朝食の準備を進める。
その間に渋沢は寝てしまったため、紅蓮が先に風呂に入る。
冷蔵庫を開けてみれば、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた食材を見て、腕捲りをして気合いを入れると、テキパキと作り始める。
ご飯をといで炊いてる間に、鍋にニンジンとほうれん草を切って茹で、冷凍のグリンピースも一緒に茹でていく。
フライパンを出して油を引き、半熟になるように卵を焼いていく。
鍋が沸騰したら、水と混ぜた片栗粉を入れ、鶏がらの素も入れて、あんかけにする。
皿の上にご飯をよそって、卵を被せ、その上に茹でたあんかけの野菜たちをかけていけば、隼人流の薄味のあんかけが出来上がる。
ついでにスープかなんかも作ろうと、茹でに使ったあんかけのスープに、生姜のすりおろしたものと挽肉の肉団子、ニラを入れる。
紅蓮が風呂から出てきて、テーブルに並べられた朝食を見て驚く。
「お、紅蓮。出てきたのか。おい、渋沢、起きろ!飯だ!」
なかなか起きない渋沢を見てため息をつき、隼人と紅蓮の二人でご飯を食べる。
「お前、料理出来たんだな・・・。」
今まで料理は渋沢の仕事だった為、一度も隼人の料理など食べた事は無いし、料理をしているのを見たことも無かった。
「美味いな・・・。」
「だろ?ま、料理なんてなんとかなんだよ。適当に材料混ぜれば完成すんだからな。」
隼人の料理を平らげて、紅蓮はまたすぐに仕事に行ってしまった。
紅蓮の食器と自分の食器を洗い、起きない渋沢を横目に見て、先にお風呂に入った隼人。
一日分以上の身体の疲れと汚れを落とすように、頭から足の先まで、丁寧にではなく、雑に洗っていく。
風呂から出て、いつものようにタオルを腰に掛けているだけの格好でいると、渋沢が起きてきて、隼人のご飯を食べて、慌てて風呂に入る。
「美味いし!起こさないし!」
褒められて、怒られた。
髪の毛も十分に乾かさないままで、確認し終えた資料を持って、仕事に行く為に走って行く。
「あーあ。・・・てか、起こしたぞー。」
一人能天気にテレビを見る。
ある程度ニュースの全体を見終えると、自分の部屋から本をもってきて、いつものように本を読み始める。
「あ。カツ丼食いてぇ・・・。」
紅蓮が仕事場につくと、なぜだか視線が痛い。
―松田の裁判のことか?いや、そういう感じではないな・・・。
とりあえず、何も言ってこない奴らは放っておいて、紅蓮は住んでいる部屋で済ませた資料を出して、資料室までしまいに行く。
その途中でも突き刺さるほどの視線を浴びながら、特に気にすることなく歩き進んでいく。
―いつにもまして、居心地が悪いな。
資料室の前まで来て、鍵がかかっていない事が分かると、そのまま開けて中に入る。
無機質なその部屋を巡っていれば、目的の場所につき、棚に書かれている年度と日付を確認して、その棚へとしまう。
資料室を出て仕事場に戻ろうとしたとき、渋沢と鉢合わせした。
「ああ、渋沢も資料室か。」
「うん。・・・あのさ、何か今日、皆の視線が棘棘しいと思うのは俺だけ?」
いつも歓迎されているわけではないが、此処まで煙たがられる様な事をした覚えはない。
松田の事に関しても、一部の人間は批評したが、一部の人間は納得してくれていたから、その事だとは思えない。
何にしても、視界に入るそれらの視線は、今まで以上のものを感じる。
「そうだな。・・・まあ、気にすることはない。仕事に支障きたすなよ。」
「わかった。じゃあ、またあとで。」
そう言って渋沢は、紅蓮と入れ違いに資料室へと入って行った。
―確かに、何なんだ?
頭の隅に疑問符を浮かべながらも、紅蓮は今日の仕事に取り掛かる。
―卑しき天使?黒い天使?
―アバドン、アルシエル、コロンゾン。
―悪魔崇拝者なんていうものもあるらしい。
「ね~え?そこのか~わいい女の子~。暇?今暇だよね?昼間っから一人で何してんの~???俺達とイイコトしない~?」
―外道。ゲス野郎。男ってものは、どうしてこうも理性と本能を使い分けることが出来ないのだろうか。
「聞いてる~?あ、怖がってんの~??大丈夫だよ~。お兄さんたちは、とーっても、とおぉぉぉおおぉっても優しいからね~。」
―触るな。気色悪い。言い方も厭らしい。
「急いでるので。すみません。」
「おい、お前がそんな下品な顔してっから、女の子が怖がってんじゃねえのか??」
「ヒッヒッヒ・・・。そうかもな~。それにしても、可愛い子だな~。」
―耳障りだ。神経にまで纏わりつくような声色。
―いっそ、此処で殺してやろうか・・・。
男たちが女の子の腕を掴む。
―ばい菌。ばい菌。ばい菌。
―排除せよ。排除せよ。排除せよ。
触れられた部分が赤くなっていき、それが“ジンマシン”の類であることは分かった。
女の子が隠し持っていたナイフを取り出そうとしたとき、警察官が近づいてきたため、男たちは走って逃げていく。
―逃げられた。折角、快感と刺激を感じるチャンスだったのに・・・。
「大丈夫かい?君。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
「気を付けるんだよ。なるべく人通りの多いところを通るとイイ。」
「はい。そうします。」
警察官が去って行くと、女の子は再び同じ道を歩いていく。
漆黒に染まった黒髪は、まるで悪魔を誘惑するかのように靡いていく。
「染色、血液。光沢。綺麗。美麗。妖艶。」
昼飯はカツ丼を食べたいと思った隼人が、豚ロースと玉ねぎと小麦粉と残り少なくなった卵を買って裁判所内の自宅に戻る。
「カッツ丼♪カッツ丼♪」
材料を冷蔵庫にしまって、お昼になるまで本でも読もうと、ソファに座って、読みかけのページを開くのと同時に、部屋の固定電話が鳴った。
チャンチャラチャラララッチャッチャッ♪
『笑点』のテーマソングが流れ、ソファから腰を上げて受話器を持つ。
「はい?」
《隼人さん・・・ですね?》
「ああ、はい。そうですけど・・・。誰?」
《警察の者ですが、少しお時間よろしいですか?》
「?はあ・・・。」
「ああ。大丈夫だ。何、心配するな、梓愛加。どうせあいつらは邪魔な存在なんだ。誰も悲しんだりしない。」
《心配、皆無。無用。不必要。無関係。》
「そうだな。まあ、証拠は幾らでも残してきたしな。じゃあ、あまり一人で出歩くなよ。」
《うん。》
ツー・・・ツー・・・ツー・・・
「・・・。不満。」
―こんなんじゃ足りない。私の中の遺伝子は、もっともっと歪な快感を得たがってる。
「精神、乱舞。肉体、異常。人生、脱却。歪曲、愛情。欲。欲。欲。」
―他人が苦しんでいる姿は、なんて美しいんだろう。
―他人が痛がっている姿は、なんて輝かしいのだろう。
―他人が恐怖に怯える表情は、なんて狂おしいのだろう。
―愛おしい。愛したい。愛されたい。
「狂気。狂喜。」
女の子が黒い髪を靡かせながら、暗い路地裏を歩き続ける。
後ろからついてくる男たちの存在を認識したうえで、確実についてこれるような道を選びながら、一歩一歩確認していく。
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