第5話

 昼近くだというのに、山を行く足元は薄暗い。樹木はまばらにしげっている程度なのだが、常緑樹の今も葉のしげる枝が互いに重なり合って日の光をさえぎってしまっている。森はうっそうとして空は欠片ほどにしかみえず、どこか不安を思えずにはいられない。

 地元の人々が神隠しの森とおそれる深山の林の中をスメラギは迷いなく先へと進んでいった。

「スギさん、前にここに来たことがあるみたいだ」

 来た道を確かめるように不安げに何度も後ろを振り返りつつ、後を追う美月の呼びかけにスメラギはこたえなかった。

 美月の鋭い指摘通り、とある用件でスメラギは何度か神隠しの森を訪れていた。森を彷徨う霊たちに接触したことも一度や二度ではない。スメラギが足を踏み入れるなり、むこうから接触してくるはずの霊たちが、今日に限ってスメラギを無視し続けていた。霊がいれば凍てつくはずの空気だが、感じるのは肌に少し重くのしかかってくる湿気で、刺すような冷たさはない。

 マスコミや警察関係者が大挙して押し寄せたものだから、奥へと姿を隠しているのだろうとスメラギはこの時はそれほど不審にも思わなかった。

 やがてスメラギと美月は、頭がい骨が発見された広場のような場所へとたどりついた。関係者以外の立ち入りを禁ずるテープが張られ、警察関係者がせわしなく出入りを繰り返している。その周囲をマスコミ関係者が取り囲んでいた。その現場を横目に、スメラギは美月を促して先へと進んだ。

「スギさん!」

 美月のいつになく緊張した声に、先を行っていたスメラギは飛ぶようにして引き返した。美月は踏み出した右足の爪先を少しあげた格好で身動きせずにいた。まるで歩き出そうとして金縛りにあったかのような様子である。スメラギが戻ってくると、美月は見ろとばかりに目線を足元に向けた。

「あんだよ」

 しゃがみこんで美月のあがった爪先の下をのぞきこむと、白いものがみえた。つるりとした表面は球体の一部を思わせる。スメラギは美月の足をどかし、そばにあった木の枝を使って針状の無数の落ち葉をかきわけた。ほりだしてみれば、それは直径三センチほどのキノコの頭頂部だった。

「なんだ、キノコか」

 どうやら美月は人骨かもしれないと怯えていたらしい。キノコとわかって安心したのか、美月はためらいなく地面からほりだして手のひらの上にキノコの傘の部分を転がした。

「おい、大丈夫か、素手でさわって。毒キノコかもしんねーし」

 やや茶色味を帯びているのは汚れなのか、そういう模様なのか判別がつきかねた。毒キノコにしては地味な色合いだが、スメラギは首をのばして美月の手のひらをのぞきこむばかりで、両手を後ろ手にいつでも逃げ出せる体勢を保っていた。

「毒キノコではありませんよ。それはマツタケです」

 女の声だった。姿の見えなかったはじめ、スメラギは木に話しかけられたのかとおもわず林の奥をみやった。その奥から、まるでそれまで木に化けていたといわんばかりにすらりと背の高い女が足音ひとつたてることなく姿をあらわし、すうっとスメラギたちのそばに寄ってきた。あまりの静かな所作に、スメラギは霊体かと疑った。森に入ったさいに外していた霊視防止のメガネをかなおして生身の人間であると確認しなければならなかったほど、女には生気が感じられず、存在が透き通っていた。

「山内和泉(やまうちいずみ)といいます。よくみつけられましたね、マツタケ。普通、素人には難しいんですけど」

 フリーライターという肩書きと連絡先の記された名刺を美月の手に置き、山内和泉は美月の手のひらで転がる傘を指先でもてあそんだ。白くて細い指先だった。指先だけではない。手も顔も抜けるように白い。目の上で切りそろえられた前髪も腰までまっすぐにのびた髪も炭のように黒く、黒のパンツスーツ姿と相まって本来の肌の白さをさらに際立たせていた。フリーライターというからには、勇樹ちゃんの事件の取材で山を訪れているのだろう。足元が山の散策には不都合なパンプスだった。

「傘の部分だけもいでしまったんですね。採るのにもコツがあるんですよ」

 山内和泉は辺りをぐるりと見渡したかとおもうと、スメラギの背後にむかって歩きだした。数歩いったところで山内和泉は足をとめ、地面にしゃがみこんだ。腰まである長い黒髪の毛先が地面にさらさらと流れおちた。スメラギと美月には、落ち葉重なる地面としかみえないその場所を、山内和泉は今にも折れそうな細い指先でかき乱し、マツタケを探しあてた。

「根元からそっと引き抜くんです」

 山内和泉の手のひらにはおなじみのマツタケの姿があった。

「やあ、マツタケだ!」

 めったに口にしない高級食材を採ったとあって、美月がいつになく興奮した声をあげた。

「私たちが知っているマツタケは傘が開ききっていない状態のものなんです。傘が開いているとマツタケとは思えなくて、何のキノコだろうって思いますよね」

 美月がコクコクと首を縦に振った。

「マツタケって、こんな簡単に採れるものですか? 人里知れない山奥のそのまた奥でしか採れないものかと思っていたのですが」

「条件さえ整えばいいんです。適度な湿度などの。マツタケはアカマツの森を好みます。ここいらもアカマツばかりでしょう?」

「でも今は9月ですよね? マツタケが出回りはじめるのはたしか10月ごろ。少し早くないですか?」

「山の上は気候が1か月、麓付近よりも早いんですよ。これからが季節ですから、採り放題ですね」

 “採り放題”と聞いたとたん、あたりに素早く目をやった美月だった。だが、偶然手にした以外に、マツタケの姿はみあたらない。採るにもコツがいると山内和泉が言ったその真意は、探しだすにもコツがいるという意味だった。

「あまり奥へいかないでください。ここらでは熊がでるんです」

 山内和泉と別れてさらに奥へ足を進めようとするスメラギたちに、山内和泉は警告を発した。

 熊と聞いて、まず美月の足が止まった。

「熊?」

 聞き返すスメラギにむかって、山内和泉はマツタケを探した時と同じようにあたりを見回したかとおもうと、やがてとある木のもとへと二人を導いた。

 その木、やはりアカマツの木の幹にはひっかいたような不自然な傷があった。四本の平行線がスメラギの目の高さほどの場所にまっすぐに刻まれている。

「へえ、熊ねえ……」

 スメラギは手をのばし、熊の爪痕だというそのひっかき傷に触れた。スメラギの身長は180センチ弱だから、その目の高さに位置する傷は地面からは170から175センチほどの高さにある。

「襲われたら、たまったもんじゃねえなあ」

 傷は木の幹を深くえぐっていた。木の皮より薄い人間の皮膚を切り裂くなど容易だろう。ひょっとしたら皮膚を突き抜けて骨を削ることもあるかもしれない。

「熊の方から人を襲うことはありませんよ」と、山内和泉は言った。

「でも、襲われたというニュースを耳にしますよ?」と、美月がきいた。

「熊も人間が怖いんです。だから、人に出くわしてしまうとパニックに陥ってしまうんです。怖い、あっちへいけって」

 山内和泉は両手を車輪のようにまわしてみせた。その動作は人間が行えば滑稽だが、熊の場合は鋭い爪が凶器となるだろう。

「熊にこちらの存在を知らせておくために、山に入るときには鈴をつけるんです。俗にいう、熊鈴です。最近はラジオなんかを流したりするそうですけど。おふたりは何か大きな音のでるものをお持ちですか? これ以上奥へすすまれるのなら、何かもっていた方がいいと思いますけど」

 山内和泉の忠告に礼を言い、スメラギは森の奥へと進んでいった。足元で落ち葉の崩れる乾いた音がたったが、熊にこちらの存在を知らせるほどの迫力はとてもない。その後を、脅えたように背を縮こませた美月が追った。

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