奮起する妻に夫は困惑する
ジルベルトは、暇を持て余していた。
「ミュリルがなぜそんなことを……。別に今回の事故はミュリルのせいなどでは」
単につまずいた出席者に巻き込まれて倒れた先に、運悪くテーブルの角があっただけのこと。
仕事に忙殺され疲れていたところに、女性たちの群れとむせ返る香水の香りにめまいを起こしたのは確かだが、それはいつものことだ。
脳震盪を起こしたことで、たまにはしっかり休めと陛下にまで言われ仕方なく屋敷にこもっているだけで、もう身体には何の異常もないというのに。
まさかミュリルがそんなに心配してくれ、あまつさえ明後日の方向に振り切れるとは思いもしなかった。
「私もそう申し上げたのですが……。聞く耳を持たずで突っ走ってしまわれまして」
バルツの心底心配そうなその表情に、ジルベルトもまた負けず劣らず気をもんでいた。
「一体何の訓練を?」
「今日は庭師のすぐ近くで、オーレリーのブラッシングに励んでおいででした。大分手が震えておいででしたが、なんとか十分くらいは耐えておられて」
たかが十分、されど十分。
ミュリルにとっては、恐怖の対象である男性がすぐ近くにいる状況から逃げ出さずにいられただけ大変なことである。
「でもうちの庭師は、確か六十過ぎだろう。あの年なら、そもそもミュリルの恐怖対象ではないのでは?」
その問いに、バルツは首を振った。
「少し前に庭師の親類の若い青年を雇い入れております。確か年は十九だったかと」
「……」
ジルベルトの顔に、苦々しい色が浮かんだ。
身元や性質は、このバルツが面接して雇い入れている以上問題ないに決まってる。
だが。
「その男、大丈夫なんだろうな……? いや、お前の目を疑うわけじゃないが、ミュリルはその……年齢も近いし、見た目もあんなだし」
ミュリル自身にはまったく自覚はないようだが、すでにミュリルが宰相の妻として社交した者たちの間で話題になりはじめている。宰相の妻としての見事な手腕と人柄だけでなく、その容姿においても。
「……そんなにご心配なら、旦那様が直にご覧になられたら良いではないですか。奥様の健気な奮闘ぶりを」
「し、しかし……」
バルツの呆れたような視線に耐えかね、ジルベルトは手で顔を覆った。
本音を言えば、気にはなる。
なぜかと言われると困るが、元気に過ごしているかとか不便は感じていないかとか、よく眠れているかとか。
だから時折こっそりと、飼育小屋で動物たちの世話をしているミュリルを中央棟の二階の窓からのぞき見てしまう。
決してやましい気持ちからではなく、元気かどうか確認したくて。ただそれだけだ。
「充分すぎるほど、彼女はよくやってくれている。これ以上望むことなど……」
ジルベルトのつぶやきに、バルツが答えた。
「旦那様のお力になりたいからと、そうおっしゃっておいででした。それが妻の役目だからと」
それを聞いた時、胸がふわりとあたたかく、すべてを包み込むようなやわらかなものに包まれるような気がした。
「……私も、何かすべきだろうか。ミュリルの思いに応えるために。例えば西棟に若いメイドを配置して、耐性をつけるとか?」
だが、ほとんど屋敷にいない以上それにさほど効果があるとも思えないが。
「そんなことをせずとも、奥様ともう少し物理的な距離を縮めてみたらよろしいのです」
「ミュリルと……距離を?」
「もう結婚なさっておいでなのですから、他の異性に慣れる必要は特にないではありませんか」
たしかにその通りだ。
ミュリル以外の他の女性に慣れる必要はない。それは、ミュリルも同じく。
「だが、ミュリルを怖がらせたくない……。私だって恐怖の対象には違いないのだし」
それになんといっても、ミュリルに近づこうとして恐怖をにじませた目で逃げ出されでもしたら、それはそれで。
「それはキツイな……。ミュリルに拒絶されるのは精神的にくる気がする……」
本音がつい、ポロリとこぼれ落ちた。
ジルベルトがはっとしたように、バルツを見やった。
「それは相当に堪えるでしょうな。お気持ち的に」
「……聞こえていたか」
さっと顔に朱の色が走ったのが自分でも分かる。
「……おかしいか?」
これまで他者とは一定の距離を置いて接してきた。それは恐怖症を抱えていたせいもあるし、もともとの気質のせいもある。
だからこんなに誰かのことが気になって仕方なくなることもなければ、自分が誰にどう思われているかも気にしたことなどなかったのだが。
なのにこの気持ちはなんだろう。
ミュリルのことが気になって仕方がない。
「いえ。ごく普通かと存じます。妻を大切に思う誠実な夫ならば」
「……妻を……大切に……?」
ジルベルトは動きをパタリと止め、固まった。
「私は……ミュリルを大切に思っているのか?」
なんとも間抜けな質問ではある。
自分が誰をどう思っているのか、他者にたずねるなど。
「大切だと思い始めているからこそ、ああして毎朝ミュリル様を窓から見つめていらっしゃるのでは? 時々はセリアンやオーレリーにも奥様についておたずねになっているのも知っておりますよ」
「……あれは、今日もつつがなく元気にしているかどうかを確認するために。それに、ともに暮らす家族としてセリアンたちとも信頼を深めることも大切だし……」
まさか、バルツに気づかれていたとは。
もしや、ミュリルまで気づいているなんてことはないだろうな……?
背中につうっ、と嫌な汗が流れ落ちる。
「奥様は気がついておいでですよ? あくまで私の勘ですが」
「な、なんだと……? ならばなぜ何の反応もっ!」
心の内を読むようなバルツの言葉に、激しく動揺しつつそう問えば。
「旦那様を怖がらせないため、気がつかない振りをしておいでなのでしょうな。旦那様が奥様を気にかけるのは、心配や優しさだけですか?」
バルツの顔には、何かを問いたげなこちらの心の奥を探るような表情が浮かんでいるのに気づく。
「他に何がある?」
「そうですな……。愛とか情、といった気持ちではないでしょうかな。夫婦の間には、ごく当たり前のようにある感情ですから」
その言葉に、ふと胸の中がどきりと跳ねた。
「女性恐怖症の私が、愛だと……?」
「ただの女性、ではありません。……ミュリル様です」
バルツが、穏やかにこちらを見つめている。
まだ幼かった頃の自分に向けていたのと同じ、まるで父親が息子を見るようなあたたかく柔らかいまなざしで。
「私が、ミュリルに愛を……?」
そう口に出してみると、胸いっぱいになんとも言えない甘酸っぱさと幸福感が広がる気がした。
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