第3会話 日常を健やかに泳いでいくために

 高野は目の前に置かれた空の皿をじっと見る。

 綺麗に平らげられた皿の上では、日の丸の書かれた旗がぺしゃりと力なく横たわっている。

 それを見た高野は、考え出たことを理性を介することなくそのまま口にしようとした。

 「なんかこれ、アレですね。日本が……」

 「待て、あんま変なこと言うなよ。炎上するぞ」

 止めたのは安住であった。

 「炎上ですか」

 「どこで炎上するか分からんからな。よく見るだろ最近は特に」

 「さすがにそんなナメたことしませんよ」

 「それならいいけど、取引先とか社外の人と話す時とか、変なこと言うんじゃねえぞ」

 安住からの冗談交じりの注意に対し、高野もまた同じ調子で返す。

 「心配いりませんって~、そうですよね、恋淵さん」

 「どうですかね。でも私は面白くていいと思いますよ」

 恋淵は首を傾けてふふと笑いながらそう言った。

 「ああ~」

 3人とも背もたれに身体を預ける。一人がふうと息をつくと、また一人、また一人と反響するように息をついた。大人にとってお子様ランチは量的に少ないと言えるだろうが、夜食として腹を膨らませる分には丁度良かった。

 残業後の深夜で心身ともに疲弊しているところに、バラエティに富んだ食事から来るほどよい満腹感によって、覆い潰すような眠気が3人を襲う。

 座席に根が生えて動けなくなってしまいそうなそんな中、口火を切ったのはやはり高野である。

 「……大人のお子様ランチがあるとしたら、どんなメニュー入ってると思います?」

 「また急だなお前は」

 恋淵は顎に指先を当てる。

 「さっきの話だと、お子様ランチは『お子様の好きな料理を集めたものがお子様ランチ』なんですよね。なら大人のお子様ランチは……」

 「が入ってる、ってことか」

 同じ理論に辿り着いた安住が続きを言った。

 そして高野が歩を進める。

 「じゃあ我々大人様3人の好きなものをそれぞれ言ってみますか。僕はハンバーグです」

 「ハンバーグは子供っぽいっていう結論になっちゃっただろ。お子様ランチに入ってそうなものは除外だ」

 「ん~、ハンバーグ以外……、焼き鳥とかですかね」

 「焼き鳥か。肉好きだなお前」

 「まだまだ食べ盛りですし。鶏肉は良いですよ、筋肉も付くし!」

 両手でガッツポーズをする高野。

 「まあハンバーグよりは子供っぽくないかもな」

 「ピーマン串とかも好きですよ。中に挽肉なんか入ってるとなお良しって感じです」

 「それ結局ハンバーグじゃねえか?」

 「いやいやピーマンですよピーマン。立派な大人料理です」

 ピーマンがあれば大人料理、という発想が既に子供っぽい気もした安住である。

 高野が場を回していく。

 「恋淵さんはどうですか?」

 「大人っぽい食べ物ですよね……、スモークサーモンですかね」

 「ほお、スモークサーモン」

 「昨日家で呑んでる時のおつまみにちょっとだけ、スモークチーズも。子供でも好きな人はいるでしょうけど」

 恋淵はテーブルの上で手の平を合わせる。

 それに応じるように、高野もテーブルの上で手を組む。

 「燻製とかスモーク系は確かに大人っぽい雰囲気ありますね」

 「かもしれませんね。今思いつくのはそのくらいです。お子様ランチもそうですけど、私も高野さんのこと言えた義理ではないんですよね。子供舌というか」

 「美味しいから仕方ないですね」

 「ですね」

 高野と恋淵はうんうんと頷き合っている。

 「安住さんは?」

 「俺かあ……。ん~」

 安住は眉を下げ、口を尖らせる。

 「好きな食べ物でそんな悩みます?」

 「なんかなあ、いや、食に興味が無いわけじゃないんだけどさ、これも美味しかったし」

 安住はお子様ランチのプレートをぽんぽんと叩く。

 「ただ、なんか歳食うとこう、若い時と比べて嫌いなものも無くなってくるじゃん」

 「そうですねえ。それこそピーマンとか」

 「そうそう。それで、嫌いなものが無くなってくると……なんだろう、段々好き嫌いが平らになってきてる感じがして、嫌いが無くなるのと同時に好きの方も無くなってるような感覚がしてる」

 「また胃もたれするから肉食えないって話ですか」

 「ああ、それもあるかもなあ……」

 安住はこれまでの生涯を反芻した。

 思えばいつから好き嫌いが無くなったのだろう。大人になれば食べられるものも増え、嫌いな物は順々に消えていき、そうして世の中がになるのだと、子供の頃はそう考えていた。

 しかし、いざこの歳になってみれば弛んだこの身体は油を受け入れない。まだこの身が若かった頃は、店に試食のコーナーあれば、2回3回と手を伸ばし、大盛無料と叫ぶ店あれば、行って特盛1つと言っていたはずだ。

 いや、待てよ? これは食べ物だけの話か? 若かったのは身体だけか? この心は、現代社会を吹き荒ぶ風に長いこと曝されてしまっている。いちいち疲れるからと、いつしか嗜好や嫌悪を思慮の外側へ閉め出すようになり、揺れることのないこの感情は打ちっぱなしのコンクリートのように……

 「安住さん? どこ見てるんですか?」

 限界の思考に飲み込まれそうになった安住を引き戻したのは、向かいに座っていた恋淵であった。

 「おおすまん」

 「何故そんなに悲しい目を……」

 「たぶん空きっ腹にご飯食べて血糖値上がってるだけ」

 安住は目を抑えながら答えた。

 「それで、えー……、なんだっけ」

 恋淵がそこにパスを投げる。

 「パッと出されたら嬉しいものとか、コンビニでつい買っちゃうものとか、ですかね」

 「ん~、あ、あれかなあ」

 「何ですか?」

 安住は辿り着いた答えを、あっけなく放る。

 「たこわさ」

 「渋っ」

 予想外の答えに高野の口から言葉が飛び出る。

 「あると嬉しいなあ、たこわさ。そういえばコンビニでつまみ買う時ほぼ毎回買っちゃってる」

 「へーコンビニにもあるんですか? どのコンビニでも?」

 「チェーン店全部網羅してるわけじゃないけど、あるぞ。弁当並んでるところの隣とかな。見たことない?」

 「無いですね。そもそもたこわさなんて意識の外なんで、たぶんあっても目に入ってないかもです」

 「まあ興味の薄いものに対してはそんなもんか。恋淵さんも買わない?」

 「たこわさは私も買わないですね」

 「そっかあ。若者はたこわさ買って食べたりしないか確かに」

 「で、焼き鳥にピーマン串に、スモークサーモンにスモークチーズ、あとたこわさ、ですかね」

 5種類の食べ物が出揃った。ランチのプレートに載っているところを3人は想像する。

 「ん~、なんだこれ。何なんですかね」

 「なんだかなあ、これはなんというか、アレだな」

 「アレですね」

 恋淵が的を射抜く。

 「……居酒屋のおつまみ盛り合わせセット、って感じですね」

 そういうことであった。

 お酒は成人、つまりは大人にしか飲めないものであり、それに付随するおつまみという存在もまた、自然とを帯びてくる。大人が好きな食べ物を問われた際、各々の好みの酒と一緒に食すという前提の下で答えられることが往々にしてある。

 「おつまみが何個かあったら、それはもう大人のお子様ランチだったってことか……」

 並べられた酒の肴たちを前にした時のあの高揚感、あれはお子様ランチを前にした幼少の頃の憧れと興奮に通ずるものがある……、そう高野は感じた。

 「我々が居酒屋で嬉々として食べていたのはお子様ランチだったんですね」

 「ちょっと気取ったご飯をお酒と一緒にいただいてるってだけで、私たちも実際は子供と大して変わらないってことかもしれないですね」

 「……だなあ」

 一息ついたところで、高野が立ち上がる。

 「ちょっとお手洗い行ってきます」

 高野はそう言うと、トイレの釣り看板の指す方向へ歩いていった。

 安住は腕を組み、首を少し上げる。

 「それにしても、なんか童心に帰った気分だったなあ」

 「それは良かったです」

 そう言いながら恋淵はテーブルに身体を乗せる。

 「うん。ありがとう、恋淵さんがお子様ランチって言ってないと来てなかっただろうし」

 「いえいえ、お子様ランチ頼んだだけじゃないですか」

 「いや、貴重な体験だったねーこれは。大人になってから給食食べるみたいなね、それと似た感じかも」

 「確かにそうですね。でも貴重じゃないですよ。給食と違って、こっちはお店に行けばいつでも食べられますし」

 「そうは言ってもね~」

 恋淵は安住に聞く。

 「また食べに来ますか?」

 「ん~、うん。いいかもね。疲れた体にお子様ランチ。またタイミングがあったら来ようかな」

 「……タイミングなんていつでもあるじゃないですか」

 恋淵は笑いながらそう言った。

 「残業ばっかりだしね。よし、また月曜から頑張るか」

 高野が戻ってくる。

 「戻りましたー。そろそろ行きますか」

 「ですね」

 「行くか、帰ろう帰ろう」

 安住はレジに伝票を持っていく。

 「先出てていいよ」

 「分かりました」

 高野と恋淵は先に外へ出た。

 店員がレジを操作している間、安住は店内をちらと見る。

 入店した時にいた客達は、まだそれぞれの席に座っている。知らぬ間に別の客も増えていたが、機嫌の良さそうな表情をしている人は誰一人としていない。

 濁った空気が滞留する深夜のファミレスは、我々が店を出た後もこの街の中でぐるぐると渦を巻き、混沌を飲み込んでいくのだろう。

 特段居心地の良いと言える場所ではないが、たまにはこの混沌に飲み込まれてみてもいいかもしれない、そう思いながら安住は店を出た。


 高野と恋淵が言う。

 「「ごちそうさまでした」」

 「うい、じゃあ帰るか」

 「帰りますか~。僕こっちです」

 「私あっちの方ですね」

 「俺は駅の向こう側」

 3人はそれぞれ別の方向を指さしている。

 「じゃ、ここで解散だな。お疲れ」

 「お疲れさまでした」

 「お疲れ様です!」




 コンクリートの歩道を白く照らす街灯の下をぽつぽつと歩きながら、安住はファミレスでのやり取りを反芻する。

 私たちも実際は子供と大して変わらないってことかもしれないですね。

 恋淵が呟いた何気ない一言だったが、この言葉は安住の懐のポケットに潜り込んだまま、小さく唸りを上げている。

 ほどほどに昇進し、後輩や部下もいる。会社や上司の言う事は面倒だがうまくやっている。残念ながら結婚はできていないが……。

 知らない間に大人になっていた。そう思っていたのだが、だらしないところは子供の頃から変わっていないし、意志も弱い。上司として、あるいは人として気の利かないところがあるのも自覚している。

 齢も三十を通り越し、この歳になって今更そんな些末なことなど考えなくてもいい、世を流れて大海へ出るには余計なことを考えない方が疲れなくていい……、そう思っていたが、やっぱりそうじゃない。このままただ息をしているだけでは、とにかくダメなのだ。

 心を入れ替えたからと言ってすぐに劇的に何かが変わるわけじゃないし、その入れ替えた心もゆくゆくは同じように黒ずんでいく。

 別に何も変わることなどないのかもしれないけれど、そんな日常を健やかに泳いでいくために——


 小川に架かる鉄の橋を渡り、安住は家の中へと入っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る