第15話 雪解けと約束
撫子が悪夢から目覚めて二日が経った。
桜河や百合乃をはじめとした使用人達の献身的な看病のおかげで想像していたよりも早く身体は回復していった。
医者からも無理をしない程度なら身体を動かして構わないと言われた為、朝食を済ませた後に澄み切った空気と心地良い風を感じながら光結町にある並木道を桜河と散歩をしている。
「桜河様は今日から執務を再開されるのですよね?」
「ああ。暫くの間は帰りが遅くなる」
「申し訳ありません、私に付きっきりで看病をしていたから……」
撫子が床に伏せている間、桜河は執務を休みずっと傍にいてくれた。
世界を守護する龍神である桜河は日頃から多忙を極めている。
そんな桜河が自分の為に執務を休んでいたことに罪悪感を感じていた。
こんな自分より世界の方がよほど大事なのに数日間も天界を留守にしてしまって良いのだろうかと。
時々撫子は思う。
昔から人に優しくしてもらうことに慣れていない分、こんなに自分ばかり愛されて大切に包まれていていることに複雑な心情だった。
もちろんその温かさは純粋に嬉しい。
桜河が花嫁だけを愛して世界の人々や生き物達を疎かにする人物てはないのは分かっている。
しかしどうしても心のどこかで不安が生まれてしまう。
「撫子」
ふと名前を呼ばれ顔を上げると桜河は軽く膝を曲げ、撫子と視線を合わせた。
宝石のような藍色の瞳が撫子を捉えて離さない。
「俺はこの世界も大事だ。でもその世界に撫子がいなくなったらと考えるだけで怖くなる」
「桜河様も怖くなることがあるのですか?」
「ああ。神でも心は人間と同じ。何かに怯えたり悲しむこともある」
「そんな様子は一度も……」
桜河との出逢いから今日まで振り返ってみるが思い出されるのは笑顔や凛とした表情だけ。
不思議そうに首を傾げる撫子を見て桜河はクスリと小さく微笑んだ。
「大切な花嫁に心配はさせたくないしそんな姿を見せたくないという男のプライド……かな」
(そんな風に考えていたんだ……)
少しだけ恥ずかしそうに頬を赤く染める桜河は普段よりも可愛らしく見えた。
初めて見る表情に釘付けになっていると桜河は撫子の額に自分の額を合わせた。
あと数センチで唇が触れ合ってしまう距離に息をするのも忘れてしまう。
「天界を留守にしている間、執務に関しては信頼している部下達に任せているし、皆は神にとってどれだけ花嫁が大切か理解している。それに……」
そこで言葉を途切れさせると桜河は何かを思い出したように瞼を閉じた。
「撫子が熱で気を失ったとき心臓が止まるかと思った。もうあのような思いはしたくない」
その声は少しだけ震えていてた。
撫子は眠っていて知らなかったが当時の彼の様子が分かったような気がした。
桜河は弱い姿を見せたことはない。
『龍神』という強き鎧の中は人間と同じような弱き心もある。
きっと今までも人知れず苦しんでいたこともあったのだろうと撫子はそれに気づけなかった自分に腹が立った。
「私、桜河様にご迷惑をおかけしてばかりで……。お辛い思いにも気づけませんでした……」
言葉にするとさらに悔しくなって自然と唇を軽く噛む。
その唇に桜河の指がそっと触れ、優しくなぞった。
噛んでいた唇がゆっくりと離れていく。
「俺は撫子と出逢う前は執務を行うだけの日々で無機質だった。でも今は違う。こんなにも毎日に胸が弾んでいる。それは撫子、君のおかげだ。ありがとう」
鈴代家にいた頃は生まれてきたこと自体否定されていた。
こんな自分には存在価値すら、幸せな未来などないと全てを諦めていた。
それでも桜河と出逢って共に生きる未来が待っていた。
申し訳なさを感じる必要はないのだと。
それはまるで心に積もっていた雪が解けていくよう。
「私の方こそ生きる希望をくれてありがとうございます」
鈴代家から離れても時々辛い過去を思い出す。
でも今が幸せなら十分、それだけでいい。
額を合わせたまま微笑み合う。
「桜河様、お願いがあるのですが……」
「何だ?」
「もし桜河様が悲しかったり辛かったりしたら私に伝えてくださいませんか?今までは私ばかりだったのでこれからは分け合いたいのです」
悲しみに暮れても二人で抱えればきっとまた前に向かって歩ける。
撫子の提案に桜河はしっかりと頷く。
「分かった。約束しよう」
桜河は自分の小指を差し出す。
撫子も小指を絡め二人は朝日に照らされながら温かな約束を交わしたのだった。
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