英雄のおつかい

坂町 東

プロローグ

 我が国、始まって以来の盛大な宴にせよ。


 国王は言った。終戦の協定が結ばれた、直後のことだった。

 誰しもが、燦燦と輝く太陽のように明るい表情で、歓声は遠く離れた野山にも響き渡っていた。王城の広場を埋め尽くすテーブルには見たこともないような豪華な食事が並び、集まった国民に無償で振舞われた。楽団の明朗な旋律に合わせて人々は踊り、夜になると東の空に大きな花火が上がって、その光は町中を七色に染め上げた。


 それを見て、誰しもが実感した。

 十年続いた戦争がようやく終わったのだと。悲しく辛い、地獄の日々が終わったのだと。


 だが、その宴の中にあって、たった一人、浮かない顔の青年がいた。

 広場の隅のベンチに座り、ぼんやりと、どこかを眺めている。彼の手にはワイングラスが握られているが、中身はまったく減っていなかった。彼の醸し出す雰囲気はまるで死人のようだ。

 見かねてか白髪の男が声を掛けた。


「レイ・サウザー殿。どうされました?気分でも優れないのですか?」

 青年は、白髪の男の方を一瞥もせず、呟くように言う。

「いえ、ただ、気分が乗らないだけです」

 恒常な抑揚で生気の感じない声だ。

「なにをおっしゃいますか。貴方は、今やこの国の英雄。そうされていては、皆が気を使います」

 さあさあと、立ち上がるように促すが、レイはそれには応じず、

「英雄などではありませんよ……私は死んでいるはずの人間です。世間が思うような立派な男ではありません」

 その声は酷く掠れていて、宴の喧騒の中では聞き取るのがやっとだった。

「そう謙遜なさらずに、閣下も貴方に会いたがっておいでです」

「閣下が?」

「ええ。貴方に褒賞を授けたいと」

 レイは首を横に振る。

「申し訳ない。大臣。閣下には、受け取れないと伝えてください。私には、あまりに勿体ない」

 マリス大臣は驚きの表情を浮かべた。

「なぜですか?軍人にとっては最たる誉ではありませんか」

「誉などというものは、私には不釣り合いです。寧ろ、穢れてしまう」

「理解できません。一体、何が貴方をそうさせるのですか?辛く長い戦いは終わったのです。我々には、祝う義務がある。そうでなくては、命を落として戦った兵たちが報われません。共に彼らと戦った貴方であれば、充分に分かっているでしょう?」


 レイは目を伏せた。ワイングラスに映った自分の姿が目に入る。

 ――酷い顔だ。

 レイは口を開く。


「彼らは国のため必死に戦い、未来の為に死んでいった。だから、勝利こそ、最も手向けに相応しいと、そう思っていました。ですが、分からなくなってしまった。これは生き残った私たちの独善なのではないかと……。彼らの本当の望みは、この場に立って仲間たちと一緒にワインを煽ることではないのかと、そう思えて仕方がないんです……」


 大きな花火が夜空に昇る。芯に響くような低音と共に、七色の大輪が頭上を覆った。


 大きな歓声。


 誰しもが、未来を見据えていた。戦争の話をする者はいない。一刻も早く、忘れてしまいたいのだ。つらい過去は置き去りにして、輝かしい未来に歩き出そうとしている。


 素晴らしいことだ。きっと、そうあるべきだ。しかし、そうと分かっていても、レイはそれができなかった。


 一体、どれほどの人を殺しただろう。どれほどの同胞が死んでいっただろう。一人一人、全員の顔を思い出すことはできないが、それでも、彼らのことをすっぱりと忘れることなんてできるものか。


 大臣は膝をつき、やさしく語り掛ける。

「サウザー殿。やはり、貴方は英雄だ。しかし、英雄であったとしても一人で背負うには、その罪は重すぎます。ですから、私にも背負わせていただきたい。老いぼれには、それ位しか、できることがありませんから」


 レイは、空を見上げた。無数の星々が、爛爛と天球に輝いている。

 祖先は星になり、我々を見守ってくれている。昔、父が言っていた言葉だ。だとしたら、彼らもまた、見守ってくれているのだろうか?

 いや、幻想だ。生きている人々が、残された寂しさを紛らわすために、都合のいいことをでっち上げただけだ。でも、その方がいいのかもしれない。


「大臣、ありがとうございます。ですが、これは私の罪。私以外が背負うことはできません」

 大臣は、憂うような目でレイを見た。


 ――やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。


 心の声が通じたのか、大臣は柔らかな笑みを浮かべて、

「……そうですか、分かりました。――閣下には私の方から伝えておきましょう」

「助かります」

 





 宴も終盤になり、ぽつりぽつりと、頃合いを見計らったかのように雨が降り出した。夜も更け、街から明かりが消えていく。数分もしないうちに、広場にはレイ以外、誰一人いなくなった。その孤独が妙に心地よくて、しばらく雨に打たれながら、真っ黒い空を眺めていた。


 どれほど、そうしていただろうか。衣服は下着までぐっしょりと雨に浸り、寒さから指先は小刻みに震えだしていた。それでも、レイは立ち上がろうとはしなかった。

 そこへ、城の衛兵らしき若い男がやってきてレイの前を通り過ぎた。衛兵は、ランタンを提げ、そのまま暗闇を進んでいく。レイには気が付いていないようだった。無理もない。夜更けに一人で、雨の中座り込んでいる男がいるなど思いもしない。しばらくすると、衛兵は来た道を戻ってきた。そこで、漸くレイに気が付いた。衛兵は慌てた様子で、レイに駆け寄った。急病人だと思ったのだ。


「どうされました!?」


 レイは、ゆっくりと顔を上げた。ランタンに照らされた衛兵の顔を見る。見覚えのある顔だった。親友に、衛兵は酷似していた。いや、似ているなどという次元ではない。もはや、本人そのものだった。澄んだ碧い瞳に、高い鼻。男らしい太い眉毛に、狭い額。忘れるはずがない。かつて、戦場を共に戦った親友の顔だ。


「久しぶりだな、エルジス」


 レイが言うと、衛兵は困惑したように眉を寄せた。

「いえ、私はロングと申します。……それよりも、どうされたのですか?見たところ、少佐殿とお見受けしますが……」


 その声にも、聞き覚えがあった。しゃがれた野太い声色で遠くまでよく届く声だった。間違いない。レイは確信した。

「おい、冗談はよせよ。エルジス。揶揄ってるのか?」

「いえ、ですから…………」

 衛兵は言葉を切り、やさしくレイの手を握った。

 死人のように冷たい手。

「ここは冷えます。とりあえず城へ入りましょう」

「そうだな。そうしよう。それより、なんだ、その口調と仕草は?お前、いつ宮廷作法なんて習ったんだ?」

 衛兵は逡巡して、

「つい、先日です」

「そうか。だったら今度、俺にも教えてくれよ。いいだろ?」

 レイは楽しそうに言った。

「ええ。喜んで」

 衛兵はそれに応え、明るい声で答える。それから、レイを肩に担ぎ、城へ向かった。外廊下の縁にレイを座らせる。屋根がついていて雨が凌げる場所だ。

「悪いな。どうも調子が悪くて」

「いえ、構いませんよ。冷えているでしょうから、毛布と暖かい飲み物を持ってきます」

 衛兵は、その足で医務室へと向かった。看護婦に毛布と暖かい紅茶を準備してほしいと頼み、当直の医務官を連れて駆け足で戻る。レイは、変わらぬ様子で城の廊下の縁に座り込んでいた。


「少佐殿。戻りました。どうぞ、毛布と温かいお茶です」

 手渡そうとすると、レイは渋い顔をする。

「お前、誰だ?」

 年の頃は二十代後半。くりっと丸い目に細長い眉。白い肌で気品に満ちた美形の男だ。声は凛としていて、レイの知り合いにそんな男はいなかった。衛兵は困惑しつつも答える。

「申し遅れました。私は、ロングと申します。この城の衛兵です」

「そうか。ところで、エルジスは?あいつはどこに行ったんだ?」

 衛兵が答えに窮していると、後ろに控えた医務官の男が答えた。

「何か急用ができたようで、私たちに貴方の事を頼んで先に帰られましたよ」

「残念だ。久々に会って、色々積もる話も――」

 そこで、レイは言葉を切った。まるで、ぷつりと糸が切れたように動きが止まる。再び、動き出したとき、その表情は無だった。


「変だな……どうして久々なんて感じたんだ?いつも、一緒にいたはずなのに……いや、待てよ」

 そこで、レイは思い出した。

「あいつって、死んだよな……」


 半年前。あの急襲でエルジスは命を落とした。生きているはずはない。この手で、その亡骸を葬ったのだから。訳が分からなかった。夢でも見ているようだ。


 ――俺は、どうしてまったんだ?


「少佐殿!大丈夫ですか?」

 肩を叩かれ、ハッと我に返る。動機がした。寒いはずなのに、体が熱い。視界はぐらぐらと揺らいで、まるで宙に浮いているような浮遊感があった。

「すまない。少し、一人にしておいてくれないか?」

 掠れた声で、とてもではないが放っておけないと衛兵は思った。

「そういう訳には」

 レイは、肩に置かれた衛兵の手首を掴む。

「頼む。お願いだ。ほんの少しの間だけでいい」

 気迫のこもった声で、衛兵は気圧された。目を見ると、声とは打って変わって覇気はない。遠く、虚空を見つめているような儚い瞳だった。意見を仰ぐように医務官へ見遣ると、彼は唇を固く結んで首肯した。衛兵はその判断に一抹の不安を覚えつつも、

「分かりました。五分後にまたお伺いします」

 そういって、衛兵と衛兵が連れてきた白衣の男はどこかへ消えていった。






 これは悪い夢だ。雨に長く打たれ過ぎたんだ。そう、レイは思った。

 膝に手を突いて、立ち上がる。水中にいるかのように体が重い。一歩踏み出すたびに、隘路を駆ける荷馬車のように視界が揺れた。何に向かっているのか、それすらも分からずに、惰性で歩く。ひたすらに歩き続けて、いつの間にか、自宅の玄関先に立っていた。記憶はない。自分一人で歩いてきたのか、誰かに助けてもらったのか。いずれにせよ、どうでもよいことだった。


 中へ入ると、小さな段差で躓いて、崩れるように床に倒れた。膝を擦りむいたが、気にも留めなかった。せめてベッドで眠ろうと、ゆっくりと立ち上がる。

 そこで、靴箱の上に置かれたリボルバーが目に入った。戦時中は片時も離したことは無かったが、今はすっかり埃をかぶっている。

 レイは、それを徐に手に取ると、慣れた手つきで、一発だけ弾丸を詰めた。それから、ゆっくり撃鉄を引く。カチッと小気味いい音がして、弾倉が回転した。それから、虚ろな目で、銃口をこめかみへ向けた。


 あとは、引き金を引くだけ。

 レイにとって、それは容易いことだった。


 パアアァンッ!


 耳を劈く炸裂音。弛緩した体躯が、ドサッと鈍い物音を立て崩れ落ちる。吹き上がった血しぶきは、壁に赤黒い花を咲かせた。

 これが、彼にとって十回目の自殺だった。

 レイはゆっくりと目を開ける。火薬の匂いが鼻腔を突いた。眼前には、血だまりがあって、その上に黄金色の薬莢が転がっている。


「……どうして、俺は……死ねないんだ」


 零すような嗚咽交じりの声だった。

 レイには、誇りも、生きる意味も、目的も、夢も、希望も、何一つ残されてはいなかった。残ったのは、罪悪感と宇宙のように果てしない闇だけだった。それは、死んでいるのと変わらない。ただ、息をしているだけの、空虚な人形。

 夜が明けたのか、窓から陽が刺しこんできた。その光は、嫌味なほどに美しく母の腕の中のように温かみがあった。


 その時、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。程なくして、白い便箋が一枚、ドアの隙間から顔を覗かせた。

 それを見て、レイは目を丸くした。差出人の欄に、エルジス・ラザフォードという名前があったからだ。震える手でそれをひろいあげると、封を切った。


 内容物は、手紙が一枚。

『友よ、元気にしてるか?』

 稚拙な汚い字。紛れもなくエルジスのものだった。

『どうやら生き残ったようだな。嬉しいぜ。

 この手紙はな、戦争が終わったらお前に届けて欲しいと、知人に頼んでおいたものだ。

 どうだ、驚いたろう?死人から手紙が届くんだからな。流石のお前でも目を丸くしたんじゃないか?』

 かつての情景が浮かんだ。死臭が漂う戦場でも彼は弱音ひとつ吐かず、それどころか、希望に満ちた表情で未来を語っていた。それは、レイの希望でもあった。

『で、そんなお前に、頼みごとがある。

 俺の夢を代わりにお前が叶えてくれ。

 あの日の約束を守れなかったことは、本当に済まないと思ってる。

 だが、俺は諦めちゃいないぜ。お前がいるからな。

 それじゃあ、何年後かしらないが、天国でまた会おうぜ』

 大粒の涙が、滝のようにほほを伝った。手紙を握りしめ、声にならない声を上げた。

 



「ありがとう。エルジス。本当に、ありがとう」

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