フェル・マーの経理さん

トオノキョウジ

1-1.

 素数のカウントは9で止まった。9が素数でなかった事を安土竜吾あづちりゅうごが思い出したのは、彼女と竜吾の唇が、微塵の未練も残さぬままにぱっと離れて、しばらくしてからの事だった。

「ねえ、もう行きました? いない、ですよね?」

 不安げに訊ねる彼女の声が、竜吾の首筋をくすぐる。背中に回った彼女の五指は、社員用ジャンパー越しに竜吾の肩甲骨に触れると、静電気でも流れたかのように跳ねて逃げる。簡素なオフィスチェアひとつの上に、重心危うく絡む二人。見えない不可侵境界線を手探りで辿るかのように、彼女は竜吾に恐る恐る、その身を預けるフリをする。

「う、うん、いなくなったよ。いなくなったけど、あのね」

 点きっ放しの十七インチモニタが、彼女のブラウスを青白く照らす。ブラジャーホックが透けているように見えるのは、きっと煩悩が見せる錯覚だと竜吾は思う事にする。暖房も消えた二月の夜中、そんな薄い服なんて着ていよう筈も無い。煩悩を溜息でふうと払うと、彼女の肩が、束ねた後ろ髪がひゃっと跳ねる。年甲斐ゼロの胸の高鳴りが、確か一回り以上も年下の筈の彼女に、どうかバレてはいませんように。可能な限り小さく低く、竜吾は深呼吸で足りない酸素を取り込む。

 開発室の薄い壁の向こう、廊下を歩く警備員の足音も消えた。もういいだろう。竜吾は彼女の細い両肩を、壊れ物注意でゆっくり掴み、よいしょと持ち上げ、引き離す。

「これさ、明らかに逆効果だったと思うよ。増間ますまさん?」

 チェックのベストの胸が離れて、冷えた空気が流れ込む。胸ポケットの銀色のペンが、冷たい光をきらりと放つ。彼女は寒さに一度ふるりと身を縮めてから、手の甲で自分の唇をぐいと拭って見せた。ああ、口紅しない子なのね。遠慮も配慮も無い彼女の仕種に、竜吾はぼんやりそんな事を思う。

「そんなイヤならしなくて良かったんじゃないかなあ、ちゅーも」

「ちゅ……って、だ、だって、警備の人にまで説明するの、面倒じゃないですか!」

「いやいや、空気読んで欲しいだけだったんなら、単純に抱きついてるだけでも良かったような。あ、それ以前に普通に残業って言えば済んだ話だと思うんだ」

 おぁ、と言葉の切れ端を詰まらせて、彼女は頬を火照らせる。子狐色の大きな瞳が、アンダーリムの眼鏡の奥で、今にも涙をこぼさんばかりにふるふる揺れて止まらない。入社一年目の見習い経理、増間佳ますまけい。社内の評判以上にそそっかしくて危なっかしいその実態を、思いも寄らぬシチュエーションで目の当たりにして、竜吾は改めて驚いた。

「それに上路あがみちさん……あ、さっきの警備の人ね。あの人絶対こういうの、黙ってられないだろうなあ」

 こちらを覗いてきた年老いた警備員のしたり顔を、竜吾は思い出して肩をすくめる。確かに彼とは目が合った。「ごゆっくり」の形に、妙に嬉しそうに口を動かしたのを竜吾は見た。オフィスラブの目撃者なんてアオリ文句が脳裏をよぎる。二十と数人ばかりの小さなソフト開発会社だ。色気に飢えた給湯室には、茶菓子代わりの話のネタにちょうど良いだろう。竜吾はスキャンダルの隠蔽に早々に諦めをつけ、善後策にふさわしい言い訳を考え始めていた。

「も、もういいですよ、わかりました! とにかく、お願いですから秘密にしていて下さい、この事は」

 軽く乱れた胸元を整えながら、揺れる声を抑えながら、彼女は竜吾にそう言った。言い聞かせようとしているのか、それとも懇願しているのか、捉え方を迷う困り顔で、彼女は竜吾を見つめてきた。勿論その秘密云々が、今しがたのラブシーンの事でない事は、竜吾もしっかりわかっていた。茶化すのはやめておいたが、頷く事もしなかった。

 あのね増間さん、と竜吾は彼女の苗字を呼ぶ。上気した空気を元に戻すつもりで、声のトーンをぐっと落とす。言い訳しかけた彼女の唇が、ぴたりと止まる。傍らの椅子を竜吾は指差し、彼女に無言で着席を促す。

「もう少し話は聞くけどさ、基本俺は、そのお願いを承諾するわけにはいかないと思う。何故なら」

 竜吾の口調が変わったのを察して、彼女はすとんと椅子に腰掛け、そろえた膝に視線を落とす。聞く姿勢になってくれた事に感謝しながらも、竜吾は笑顔を作る事無く彼女に告げる。

「君のやっていた事は明らかに、ただの調べ物じゃあ済まない。背任行為という奴だ。下手をするとね」

 とても口にし辛い単語だと、竜吾は思った。ひどく重い。彼女もびくりと身を震わせたが、やがて小さくこくりと頷く。わかっていながら、やっていたのか。

「……ごめんなさい」

「俺にじゃなくて会社に、FLTエフエルティに謝るべきだよ、これはね」

 たぶんわかってそうだけどさ、と

「とりあえず、締め出し食らわない内に戸締りして出よう。確かえらい遠くから通ってるって聞いたことあるけど、帰りは電車だっけ?」

「電車です。ですけど」

 消え入りそうな声で、彼女はモニタを見る。マウスをつついて、スクリーンセイバーを取り払う。二十三時二十五分。それを見て、力なく首を横に振る。

「飯田橋の駅まで走って五分で着けば、間に合いますかねえ……」

「やめとこう。車だから家まで送るよ、どこだっけ」

「……成瀬です」

 おいおい、ほとんど神奈川じゃないか。竜吾は自分の発言を少しだけ後悔する。東名高速に乗ってざっと一時間弱。深夜で空いている事を考えても、三十分では到底足りないだろう。

 加えて竜吾は今夜、この付近のビジネスホテルに一泊する予定だった。明日から開催の企業向け展示会の為だ。自社ブースの設営はおおよそ終わっていたが、当日動かす展示機材の調整の為、竜吾は朝八時には東京ビッグサイトに入る予定でいた。

 彼女を家まで送って再びホテルに戻る頃には、一時を軽く回っていそうだ。

「明日は増間さんもビッグサイトだっけ」

「あ、はい。私達は九時入りで大丈夫みたいですけど」

 彼女ともう一人の女子社員が、受付に座る予定だった事を竜吾は思い出す。ブースの花役が目の下に隈びっしりでは、FLT社初の企業出展も様にならないだろう。

 耳の後ろを指で一度掻いて、竜吾は色々と諦めをつけた。手酌の予定もキャンセルだ。

「しょうがない。今から帰ってまた朝来てじゃ大変だろ。俺は別のどっかで行くから、代わりに会社で取ったホテル泊まりなよ」

 と竜吾が言ってやると、沈んでいた彼女の表情がほんの少しだけ華やいだ。

「えっ、ホントですか! や」

 や、でも悪いですよ、と口だけは辛うじて遠慮をしてみせるが、彼女の言いかけた「や」が明らかに「やった!」の言いかけの「や」だったと、竜吾はしっかり分かっていた。

 目の前のパソコンをシャットダウンする。ウィンドウズアップデートの進行表示が、消灯までの残り時間にも見えて、竜吾と彼女はそそくさと帰り支度を整える。防犯セキュリティの操作盤を叩き、鳴り出した作動音に追い立てられるように二人は部屋を出る。

 施錠を終えた竜吾が「じゃあ行こうか」と促すと、彼女は「はい」と律儀に返事をする。自分を真っ直ぐに見上げて、見つめて頷くその仕種に、素直ないい子ではあるんだろうな、と竜吾は思う。

 産業スパイなんて出来そうにない、正直で不器用な少女。竜吾には彼女がまだ、そうとしか見えてはいない。


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