#4 海葬と、家族の掟


 母親という小さな海より生まれし命は、いつしか大いなる海へと還っていく。

 あらゆる生き物が、最後には死に迎えられる。

 死とは海神であるオードの忠実なる召使いであり、この世に暮らす生き物たちへの、気紛れに放った試練でもある。海がそうであるように、それは時に恐ろしく猛り狂い、強き者の命すら容易に奪う。しかし生まれは決して平等ではないが、死は全ての人に平等であるからこそ、オードはその試練に屈せず勇敢に立ち向かった者を称え、祝福するのだ。

 この地域に住む人間にとって、その試練こそが海であった。

 人は魚のように長い距離を泳ぐことはできない。それでもなお魚のようにあろうとした人間を、海は容易に死へと引きずり込む。

 海はただそこにあるだけ。しかし時代は、人を海へと追い出した。外洋へ活路を見いださなければならない時代があったのだ。オードインクというこの言葉が最初に生まれたのは、人が陸路を失い外洋への航海が必要とされたそんな時である。人々は彼らの勇気と、海の上でも巧みに船を操る技術に敬意を表して『海神オードに祝福されし者達』(オードインク)と呼んだのである。


「あなた方が死へ立ち向かう限り、この海は決してあなた方を見捨てたりはしないでしょう」

 それが、このオードインクという名前の本当の意味。

 ……と、ルアンから教えて貰った。彼女のような本をよく読む人達でなければ、それは聞いたこともない話だが、不思議とその話には胸を打たれた。それはおそらく、ここに根ざしている信仰や思想と近いからなのだと思う。

 フィーニだけではなく、少なくとも船乗りの間では、ずっと語り継がれてきた信仰なのだ。勇敢に挑んだ末に迎えた死は、もっとも神聖なものの一つであり、何人もその死を侮辱する事は許されないのである。

 それは、名も無き来訪者であろうとも例外ではない。彼の生まれやその風習は分からずとも、せめてフィーニのやり方で丁寧に葬られる。


「どうか彼の者の勇気が、眠る事なき魚たちの夢とならんことを―――――」

 そんな決まり文句の後、名も知らぬ男を入れた柩はダイラ兄とアコード兄の手で海の中へと沈められた。あとは魚が男の亡骸を食べ、魂は海向こうにあると言われるオードの庭まで運んでくれる。

 小さい頃、大好きだった兄の一人が亡くなった時、父さんからそんな風に聞いた。眠る時でさえ目を閉じられない魚がこの世の夢を見るのだとか……そんな決まり文句の意味も一緒に聞いたのだが、兄を亡くした悲しみで一杯だった幼い俺には、それを理解するだけの余裕なんか無かった。

 あの時から成長した今なら、彼の為に祈ってやることもできる。今日葬られた男。不遇の死を迎えたというのは、誰の目にも明らかであった。

 父さんが言っていた。人の身体にはその人の生き様が刻まれる、と。この男のそれは分かり易かった。

 体躯の割に痩せきった身体と四肢は切り傷と痣だらけ。髭だらけの顔と落ちくぼんだ目。食事を惜しんで何日も走り続けた証だろう。所持品は衣服の他は擦り切れた靴とナイフだけ。銅貨の一枚も持っていなかった。全てを投げうって己の敵に立ち向かい、昼も夜も走って、あるいは泳いで、ようやくここに辿りついたのだ。

 ……ふと思う。そんな壮絶な人生など選ばなくても良かったのではないだろうか。勇気とか戦いとか、そういう言葉とは無縁の生活だってあった筈なのだ。

 エランダがよく言っていた。人は海賊みたいな無茶をしなくたって、ちょっとの幸せがあればそれで十分なんだと。

 今日の空の色みたいに海の色は澄んでいた。だが、彼と彼の靴とナイフを収めた柩は、深くまで沈むと直ぐに見えなくなった。


「変な同情はかけるんじゃないよ。海の上じゃあ、もっと悲惨な死に方をする奴なんてごまんといるんだ」

 元海賊のイサリア母さんは、俺にそう囁きかける。そんなに酷い顔をしていたか。

「精一杯に頑張った。だから丁寧に葬ってやる。それだけだよ。下手な同情はコイツの生き方に対してかえって失礼だ」

 確かに、彼が何の為にここを目指していたのか、あるいは何かに追われていてここに逃げざるを得なかっただけなのか、それは分からない。名も知らぬ彼の戦いなど、見ず知らずの俺が分かる筈もない。しかし、それでも……

「……せめて辿り着いた海向こうの楽園では、安らかに……」

 俺はそう呟き、花束を海へと投げ入れた。そうして彼の者が沈む海へと捧げられた花束の数は19。今アジトに残っている母とフィーニ姓の兄弟姉妹達全員が代表となって、それが、見ず知らずの来訪者への最後で最大のもてなしとなった。




 そんな海上葬儀の後、アコード兄に連れられ、広場の騒ぎの間剥いていた芋のお礼として彼がシェフをしている料理店でランチを頂いた。

 なんでも保存的にやばい芋が余ってきたので一挙に処分したいということで、俺とたまたま来ていたイサリア母さんが手伝っていたわけだが、俺にとっては剣術練習のサボりの口実に丁度良かった。余計な騒動に巻き込まれなければ最高だったのだが……

 この料理店、兄弟姉妹中最も料理が好きなアコード兄が、弟子入りした店である。料理長はイサリア母さんの古くからの友人であり、フィーニ姓だからといって容赦してくれる人ではないが、アコード兄は「それでいい」と充実した日々を過ごしている。元来の勘違いし易い性格のせいで、おかしな料理が出てくる事もままにあるが、それでもここの味が人々の噂に上るほどまでに上達し、今では副料理長にまで昇り詰めた。

 店其れ自体も結構大きく、他の海賊達が晩酌を我慢してランチを食べに来るという程の評判の店だ。海風と海賊達の騒ぎに耐えてきた数十年来の建物は決して綺麗ではないが、古いなりの趣もある。重い石のテーブルとそこにかかる柔らかいクロス、そして対するように軽い木の椅子。それが、この料理店のよそでは見られない特徴であろうか。俺は上機嫌のアコード兄を厨房に見送ると、窓際の席の一つに座った。


 いつもなら、向かいの席にはオルカが座る。エランダの時もままにあるが、今日その位置には何故か、妹のルアンが座っていた。

「―――――」

「……………」

 しかし、間に会話はない。黙って付いてきて、黙って俺の前に座って平然と一緒にランチを食べている。

 勿論ルアンは芋向きを手伝っていない。アコード兄はそんな事に文句をつけるような人ではないが、ここまで自然かつ堂々と居られるのもどうか。というか、家族揃っての食事でなければルアンと一緒にという事がなかなか無い。食事以外でもそうそう当たらない組み合わせであろう。

「……何でまたルアンが?」

「ファロンが寂しそうだったから」

「……………………………………」

 クスリと小悪魔みたいな笑みを浮かべながらルアンが答えた。

 自分の妹ながら、俺は彼女が少し苦手だ。オルカも苦手だと言っていた。

 いつもなら書蔵に籠もって一人で本を読んでいる事が多い。会えば会話する事もあるが、本にばかり向き合っていたせいか、変にませたセリフや歳の隔たりを感じさせないような忠告を容赦なく浴びせかけられる。イサリア母さんとエランダの口論を仲裁できずにいた俺に言った時のように。

 初対面の者は勿論のこと、それに慣れた兄弟姉妹や母親達でさえ、彼女の言動には目を丸くする時がある。驚かないのは父さんくらいなものだろう。

 何しろ見た目は普通の少女だ。おかっぱの髪に乗った帽子は父さんのお土産で、彼女はそれが気に入っているらしく、こうしていつもかぶっている。

「私じゃあ代わりになれないかもしれないけど、たまには悪くないでしょ。付き合ってあげる」

「……確かに君はオルカとは正反対だが。自分の兄を敬おうとか、これっぽっちも考えたことないだろう?」

「そんなことないわよ。時々、オルカが羨ましくなるもの」

 それは言葉通りの意味ではなく皮肉に違いない。ルアンはそんな子だ。俺に限らず他のどの兄姉に対しても、決して「兄」「姉」と呼ばない。かといって家族内で繋がりが薄いのかと言うとそういうわけでもなく、案外兄弟姉妹のことをよく見ているように思う。例えば、今俺に付いてきているみたいに。

「ま、安心しなさいな。アレの幻想がそう簡単に解けるわけもないから」

「幻想、ねぇ……」

「そ。あーいうのは子供のうちよ。大事にしなきゃ」

 思わず笑ってしまった。彼女はこんな悟りきったようなセリフを言うくせに、ナイフフォークをうまく使えていないのだから。ルアンは手先がとにかく不器用だ。ちなみに指摘してやると不機嫌になる。

「まだ子供だから、どうにもならないことがあるのを知らないの。と言うか、自分にできないことはみんなファロンができるって思ってる。オルカは世界で一番、兄ファロンに憧れて、尊敬しているのよ。勿論、『強くて恰好いいファロン兄』の方だけど」

「……それじゃあなんだか俺が二人いるみたいじゃないか」

「二人いるんじゃない?」

「――――――――――」

「私も会ってみたいわ。もう一人のほうに」

 冗談だったのだろう。……しかし彼女の目はフォークから逃げるプチトマトを睨んでいる。

 そんな彼女の姿に俺は息を一つ。そして自分の指でもってプチトマトのヘタをつまんで食べてみせると、ルアンもそれに倣った。味わう内に楽しそうに変化していく彼女の表情に、俺もなんとなく安心していた。喋らなければ、ルアンもオルカやリトラと変わらない普通の妹なのだ。

「うまいか?」

「まぁまぁね。この時期にしては甘みが足りないけど、シェフはそれをうまく引き出しているわ」

 本当、いったいどうしてそんな台詞ばっかり覚えてくるのだろう。

 同じく本好きなインファリア姉さんが自分の仲間を増やす為に仕込んでいそうだけど、姉さんはそれを否定した。……というかあの人は、図書館にずっと一緒に居たルアンの名前すら覚えていなかった。教えてやると「ああ、魔女の子だな」と頷いた。書蔵でそんな本を読んでいるからそう覚えてしまったらしい。ちなみにオルカを「海賊の子」、さらにその下のリトラを「人形の子」と呼んでいた。本ばかり読んでいる人は、知識はあっても実生活に難を抱えるものなのかもしれない。

 けど、ルアンは少しだけ違うような気もする。


「――――エランダと何かあったの?」

 不意に、本当に唐突に、ルアンはそう尋ねてきた。今までしていた口調と何ら変わらない。けど、それが彼女が尋ねたかった本題なのだろう。

 ……いや、それもただの思い上がりかもしれない。その話題に触れられ、俺は思いのほか動揺していた。どうしてなのかは、自分でも分からない。まるで魔法にかかったかのようだった。

「海上葬儀の前、あなた達を呼びに行ったその少し前くらいから、何か変なのよ。ああ、普通にしてて。厨房のアコードが勘づいたら話が余計にややこしくなっちゃうから」

 彼女のそんな言葉に俺もようやく平静を取り戻した。……厨房の奥に目をやるが、そこには見知った背中がまだ鍋を振っていた。

 アコード兄はとにかくおせっかいなのだ。兄弟想いと言えば聞こえはいいけど、勘違いが先行する事の方が多く、事態が好転する事は少ない。特に『悩んでいる』なんて聞かれようものなら、きっと料理の味見とかを理由にしてこの食堂に閉じこめられる事請け合いだ。……一応断っておくと、本人は至って真剣だ。だからなおさらタチが悪い……

 俺は声を抑えてルアンに聞き返した。

「変……って、エランダはいつもあんな感じだぞ」

 そう言うと、ルアンは呆れたように首を振った。

「男の子はどうしてこうも鈍いの」

「悪かったな、男で」

「あなたは気付いてるわ。だから落ち込んでるんじゃないの。オルカのことは心配してないのに、エランダのことにはこんなに動揺してる」

 そんなことないぞ。「大っ嫌いだ!」なんて言われた時は本当に落ち込んだ。……と言いたかったのだけど、言えなかった。それは、彼女の指摘が恐ろしく的を射ていたからなのだと、この時ようやく気が付いたからだ。

 オルカとは大体いつも一緒にいる。彼があんな性格だから、俺が注意してそこから口論になることも少なくない。けどその度に、仲直りしてきたのだ。翌日には大体ケロッとしている。ルアンが言うところの“幻想”のせいかもしれない。

 一方エランダと俺は歳の同じ姉弟。男女の違いがはっきりしてくるまではいつも一緒にいて、同じものを見て育ち、いつも似た想いを共有していた。だから、口論にはなってもそれほど激しくはならない。それが―――――


 ――――あなたまでこんな事に加担していたの? 正直見損なったわ。


 エランダが俺を拒絶した。そりゃあ、自分の半分が壊れたかのような気分にもなる。

「それでどう? 思い当たること、ある?」

 しかし、こっちの気持ちなど気付かずにルアンは食い下がってくる。食事はもはや諦めたらしく、ナイフとフォークは俺を指し示すのに使っている。皿には赤い野菜ばかり残されている。


「私が思うに、好きな人ができたのよ」

「…………………………………………

 ……は?」

 いや、そんな反応してしまったらいくらエランダとはいえ怒りそうだが、……それほどに唐突だった。と言うか、そんな事考えもしなかった。

 エランダが、好きになった人……

 それを想像しようとして、俺は不可能を悟った。そもそも前提条件からして困難だ。あの説教臭くて人の世話を焼いては怒り出すエランダが恋をしているという様子を、どうしても想像できない。ましてやその相手だなんて浮かぶはずもない。しかしルアンは得意げに自説の展開を続ける。

「それで、自分の一番身近にいる弟が鬱陶しく感じるようになったのね。『ああ、あの人はあんなにも立派なのに、ファロンたら負け犬のくせに野蛮で』」

「……負け犬はイサリア母さんが言ったんだぞ。エランダはそんなこと言わない」

「あら、庇うじゃない」

「いや、事実だよ。近くにいたから俺がよく分かる」

「そっか……それで血の繋がらないのを良いことにエランダにあらぬ感情を抱いてしまったのね」

 彼女の出鱈目な想像に、俺は思わず飲んでいた水を吹きだしてしまいそうになった。

「だから一体どこでそんなことを覚えてくるんだ……君は……」

「あら、英雄シーザーはシスコンだったのよ。これ、すごく有名な話」

 そんな話聞いたことも無い。

 ……と思いつつ、何故か頭にはさっきの決闘に出てきた傭兵が頭に浮かんでしまった。そう、彼も確かシーザーという名前だった。こんな話題に思い出されたと知れば、本人はともかく一緒にいたあの白い女の子の連れが怒るだろう。

「そんなわけないだろう。……君は俺達をそんな風に見ていたのか」

「ううん、そういう人が一人くらいいてもいいかなって思っただけ」

「………」

 どう叱って良いのかわからなくなった。一旦本気でこの妹をアコード兄に預けようかと思ってしまったが、それは後々が怖いからと思いとどまる。


 ……もっとも、あながち完全な的外れな想像でもない。

 俺の初恋の女性は、実の姉であるウルザ姉さんだったのだから。

 ウルザ姉さんは分別がついた今でも憧れてしまうような素敵な人だった。明るくて優しいのに、叱るところはしっかりと叱ってくれる。まるで恐れを知らないかのように、誰に対しても尻込みせず、どんな辛い仕事も一生懸命に、そして賢くこなしてしまう。幼いなりに、この人さえいてくれれば、他に誰もいらないなんて風にも思っていた。

 その姉さんが結婚すると聞いたときには、姉さんを浚って逃げようとまで考えたのだけども、結局その気持ちを知るエランダに諭されて、この幼い初恋は静かに終わりを迎えた。この事はエランダと俺しか知らない。あるいは、ウルザ姉さんは気付いていたかもしれないが、それ以外の兄弟が知ろうものなら大問題になっていた筈だ。

「……自分の家族を捕まえて想像のネタにするんじゃない。いつかとっちめられるぞ」

 俺はその事を思い出しつつ注意するが、ルアンは悪戯っ子のように笑うだけで、それを気に留める様子は見せなかった。

「いいよ、私負けないから」

「あのなぁ……」

 明らかな強がりを見て、俺は溜息をついた。



 ………フィーニという大家族にあって、ルアンは兄姉達を決して「兄」「姉」と呼ばない。そしてどの母親達も「母」と呼ばない。その理由は簡単に知れる。一緒に暮らしていながら、その実無節操な父親とでしか繋がりがない俺達を、本当の家族とは思っていないからなのだろう。

 しかし、例外がたった一人だけ存在する。言うまでもなく、それは彼女を産んだ本当の母親である。恐らくルアンが母と呼びたいのは、そのたった一人だけだ。

 しかし、フィーニの兄弟である限り、その母親が彼女のたった一人の母として接する事はできない。

……子供達はディオールとその妻全員の子供であり、子供達には誰が本当の母親なのかを知らせてはならないという、フィーニ独特の掟が存在するからだ。勿論、そんな秘密などあって無きが如し。兄姉や母たちはどの母がどの子を産んだのかを当然知っているし、周りの反応や顔のつくりから分かってしまう勘のいい子もいる。だが、故意に明かしたり求めたりする事は決して許されない。それは、たとえ実の母子であろうと例外ではない。無法者の印象があるディオールだが、それだけが唯一にして絶対の鉄則なのだ。


 以前にその掟を破ったが為に追放された母もいたそうだ。我が子を独占しようとしたのだろう。彼女は血の絆を盾に自分の正当性を訴えたが、その主張は当然受け入れられる事はなく、このフレスガノンから追放された。そうまでして守ろうとした我が子をここに残したまま…… これから先、成長したその子に出会うことがあったとしても、もう母と呼ばれることはないだろう。

 分別のつく歳となった今だから、それが一般的には歪で不自然であることも知っているが、フィーニという特異な家族環境にあるならば、それが最善なのだというのもまた理解できる。かくいう俺も実の母が誰なのかを知らないが、それに疑問を感じた事はない。エランダもそうだと言っていた。そしてお互いにそう感じる俺達でも母親が違う。同い年の姉弟というのが何よりの証だろう。あれほど雰囲気の似ているカイリンガ姉とイサリア母さんも血の繋がりは一切無いらしい。以前思わずその疑問が口から零れてしまった時、ウィール兄が大笑いで否定していた。

「カイリンガより下の子供はみんなそう思ってる」

 ……だそうだ。そしてこう続けた。

「でも間違ってもイサリア母さん本人にそんな事は言うなよ」

「叱られる?」

「叱られるならまだいいけどな。……きっと悲しむ。フィーニの絆は血じゃないんだ。母さん達は俺達みんなの母さんだから」

 その言葉とウィール兄の優しい顔が今でも忘れられない。フィーニの兄弟姉妹、それに8人いる今の母親達はみんな、その言葉を抱いて生きていくのだ。それこそがきっと家族の証であり、この世に存在するどんな家族よりも強い絆なのだ。

 しかし……


 疎の掟故に、ルアンは実の母親が誰かを分かっていながら、その唯一の人を母親とは呼べず、それ故に誰も母とも兄姉とも呼べないでいる。

「いいの。誰も私の味方でなくったってね」

「――――――」

 肘を立て両手で持ったカップで口元を隠しながら、ルアンは小さく呟いた。つぶらな赤い瞳は、目の前にいる俺すらも視界から逸らしている。年の割に大人びた彼女の本当の表情は、決して見える事はない。そうやってずっと隠してきた。本当の母親への想い、自分の感情を…… フィーニにおいて、彼女のそんな想いはあまりにも危うい。強固な網の間から、彼女一人だけが暗い海の中へとこぼれ落ちてしまいそうな程に。

 頭を過ぎるのは、俺達の母ではなくなった女。我が子への愛情故に、我が子と引き離された……


「馬鹿なこと言うな」

 気が付けば、俺はそんな事を言っていた。それ程大きな声だったつもりはなかったが、ルアンはその小さな肩をびくりと震わせていた。

「俺達を敵にするんじゃない。みんなお前の味方だ」

 自信は持てなかった。いつかこのことを兄や姉や母さん、そして父さんが重く受け止めたら、この少女もまた母と引き離され、追放されるのではないかと、そんな心配が頭から離れなかった。

「駄目なら……俺を頼ったっていい。俺だけは、お前を庇ってやるから。その……」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。実際そうなったら、なんて考えたくもない。想像もできないのに。ただ必死だった。

 言葉に詰まるまで彼女は何も言わずにそれを聞いていて、やがて……

「っあはははははは……!」

 突然、笑い出した。野の花が一斉に蕾を開くように。今度は俺が呆気にとられた。

「何だか恰好いいわよ! どうしちゃったのよ、急に。あははは……」

 ……からかわれたのだと分かった。さすがにちょっと気が抜けた。

「その台詞、エランダに言ってあげなさいって。心開いてくれるかもよ?」

「ルアン……君って奴は……いいよ。もう。真剣に考えてた俺が馬鹿だったってことだな」

「あはっ? 怒った? ごめんね、茶化しちゃって。でもさっきのファロンが恰好良かったのは本当よ。ありがとう、ありがとうね」

 ファロン……やはり、彼女は呼び捨てだ。

 俺には、彼女の感情を推し量るしかできない。彼女が本当の母親の前でどんな表情をしているのか、知ることはできない。そして、当の母さんがどう思っているのかも。


 ガタッ……!

 突然に、ルアンが席を立った。神妙な面持ちで、窓の外に目をやったまま言葉を失っている。「何だろう?」と俺もまたその先を目で追った。

 そこに、あの大剣を背負った傭兵が歩いていた。フレスガノンを観光して回っているのか、キョロキョロしながら。

「シーザー」

 開いている窓から名前を呼んだ。シーザーは立ち止まり、俺の姿を見つけてこっちに歩いてくる。

「どうしたんだ、観光?」

「いや。今は食事ができる場所を探している」

 相変わらず感情の無い声で答えるシーザー。その背には、真っ白い姿の少女がおぶさって眠っている。要するに、彼女が目を覚ますまで休める場所を探していたのだろう。

「なんだ。ならここで食べればいい。フレスガノンいちとまではいかないけど、兄さんが作ってくれてるから、サービスしてもらえるように頼んでやるよ」

「助かる」

 そうしてシーザーを中に招いて席を……立とうとすると、ルアンがじっと俺を睨んでいるのに気が付く。……さっきとは打って変わってえらく機嫌が悪そうだ。

「あの人、シーザーって名前なの?」

「そうだけど……どうしたんだ?」

「……何であなたが知ってるの?」

 おかしなことを聞く。俺がそう思って首を傾げると、ルアンの目がさらに鋭さを増した。子供とは思えない剣幕だった。

「ルアン、確かに昼間はシーザーと戦って負けたけど、君まで怒る事もないだろう? そんなのオルカだけで十分だ」

「……そんなの知らないわ。私、見てなかったもの」

 あ……言われてみれば確かに、ルアンがやってきたのはシーザーが立ち去った後だったような気がする。

「昼間の決闘の飛び入りでさ、すごく強かった。ダイラ兄でも歯が立たなかったんだ」

「……でしょうね」

「?」

 そうこうしているうちに、シーザーが入り口からやって来た。俺はシーザーに席を譲ると、厨房の奥に入り、そこで鍋を振っているアコード兄に声をかけた。


「アコード兄、もう一つランチ頼めるかな」

「構わないが、あの大剣マントはお前の知り合いか?」

「うん。今日の昼間の。話は聞いてるだろう。そのチャンピオンだ」

「ほう……弟達をコテンパンにした上にオルカを泣かせた奴か」

「……アコード兄、もしかして怒ってる?」

「いや、怒ってないぞ。一度話くらいはつけてやらねばとは思ってはいたがな。そうかそうか。そりゃあサービスしてやらねばな。可愛い弟達が、こんんんんんなにも世話になったんだからなぁ。フフフフ……でなければ、今も眠り続けている弟達に顔向けできんというもの」

「違う! 違うから兄さん! 誰も怪我してない、ダイラ兄も俺もぴんぴんしているし!」

「何? 次はお前を狙っているのかあの男はぁ!」

「だから違うってば!」


 ―――結局、この人の勘違いを正すのに少し、

 ランチを作ってもらおうと説得するのにもう少し、

 そして兄さんが本当に納得してくれたのかを確信するまでにさらにもう少しの時間を要した。


「ご苦労様。苦戦したわね」

「………………………うん」

 アコード兄は弟想いのいい人なのだ。……でも家族以外でそれを信じてくれる人は少ない。

「それじゃ、私達は行きましょう」

「え? お、おい、ルアン」

「もうここにいる理由もないでしょ。シーザーさんはくつろぎたいみたいだから、邪魔しちゃ悪いし」

 ルアンはそう言って、俺の手を引いて早足で出口へと歩み出した。

 シーザーから旅の話を聞こうと思っていたのだが、ルアンの露骨に彼を避けようとする態度に、俺は仕方なくついていくしかなかった。

 俺が厨房に話を通しに行っている間に何かあったのだろうかと思ったが、シーザーは何も言わない。ちらりとこちらに視線を送ると、声に出さずに礼を返すだけだった。

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