家族 × 海賊 × 貴族
七洸軍
家族 × 海賊 × 貴族
1,プロローグ
#1 妹に指輪のプレゼント
もはや限界である事は、その盗人自身にも分かっていた。
けばけばしい豪邸から出たのが十数日前。用意してあった馬を二頭潰し、屋根のない野に休む日々を十日続けながら、陸地の端を逃亡し続けた。最後の町は五日前に抜け、食べ物を惜しんでまで替えた馬は二日前に力尽き、
……そして今、自分の足も動かなくなった。
この場所まで逃げてくることが限界。最初に狙っていた通り、あいつらはこの周辺には迂闊に近づけないようであったが、
それでも気がかりなのは、自分を追ってくるあのクソ貴族共。向こうも随分な覚悟らしい。きっともうすぐここにも手を回してくるだろう。ここに逃げ込んでしまったらおそらく動けないのをいいことに、ゆっくり、慎重に目当ての物を取り返しに来るだろう。
盗人は笑った。
あいつらが最後の最後まで気にかかるのは、その間際まで相手してきたからというだけではない。
一世一代の賭なのだ、これは。生まれも育ちも平原の虫けらと変わらない自分が、あのクソ貴族をヘコませるだけの仕事をしてやれる。自分を虫けらと笑う綺羅服のボス猿に、一杯喰らわせられる。
くだらない事とは思わない。
奴らに潰されたものは大きかった。家族の待つあの世への土産話にするのに、これ程の武勇伝はない。
「しっ……かし……、なぁ……」
盗人は空を見上げ、まだ動く拳を空に掲げてみた。太陽の光を受けて、指の間で長く手汗にまみれていても、それはよく輝く。
それは一見すると指輪のような形をしていたし、実際「指輪」と呼ばれていた。だが、もしこれを指に填めるとすれば、かなり太い指の大男でなければならない。
だというのに、あしらわれた宝石は煌びやかで、見る角度によって色を変える。店にあるようなつまらない宝石ではない。知られているどの石でもなく、どの石よりも硬い。おそらく大きな街の宝石商でも、これの真の価値を見抜く事はできない。しかし見る者が見れば……例えば、妙な噂ばかり聞く古い家系の一族やその親戚が見れば、この一つの“指輪”で、二つの王家がひれ伏すという、そんな伝説を思い出すことだろう。……噂の尾鰭ばかりでにわかには信じがたい話であるが、これを持っていた貴族の反応を見る限りでは、少なくともまるっきりの捨て石というわけではないようだ。
盗人はとある貴族の豪邸よりこれを盗みだし、昼も夜も関係なくここまで逃げてきた。それを為すために六人の命を奪った。自分は人殺しだ。とりわけ平民でも貧しい出のこの男にしてみれば、今まで夢にも思わなかったような緊迫した日々だった。まだこうして生きていられる事自体不思議なくらい。昨日までは戦争かと思うほどの沢山の私兵が自分を追ってきていたのだが、さすがに向こうも彼が逃げ込もうとした此処が何処なのかが分かっているようで、今はもう追って来てはいない。ひとまず、逃げ切ることはできたということ。
胸を撫で下ろしたいところだが、そういうわけにもいかない。
もう眼も開けていられない。足も動かず、這いずってこの岩陰に隠れるのが精一杯。おそらく自分はもうすぐ死でんしまうのだろう。
彼としてももはや生に未練はない。問題はその後だ。家族の待つあの世までこの指輪を持っていけない事が実に悔やまれる。
今は追ってこられなくとも、おそらくもう半日もすれば奴らだって交渉をまとめてしまうだろう。そうしてこの辺り一帯に、軍隊のような追っ手がやってくるに違いない。
「ふん……指輪一つにそこまでしてくれる様は、……まぁ、傑作なんだがな」
回収が済めば、彼の全てが無駄になる。この騒ぎもただの虫に刺された程度の出来事で終わり、……自分が死ぬ思いで放った一刺しも数日で腫れも収まってしまう。
……悔しいじゃないか。やはり自分は、取るに足らない虫けらのまま死んでしまうなど。
せめて奴らが喪失を思い知ればいい。いっそ海に捨ててしまおうか。そうすればもう誰にも見つけることはできなくなるだろう。そうしようか……
盗人がそう心に決めた時、
「……?」
直ぐ近くで不意に足音が鳴った。瞼を開けると小さな人影が見える。……いつもならば、これだけ近寄られる前に分かりそうなものだが。
「死神様かねぇ……」
この地域の信仰で死に携わるのは海神オード。その迎えはえらいべっぴんだと言う。
目の前に立つその人影は、確かに顔立ちの可愛いらしい女ではあったが、これ以上はないというくらいに幼かった。へこみもでっぱりもない胴体と、さらにそれを覆い隠すぶかぶかな子供服。その胸に大事そうに抱えられた小汚い人形が目に付く。
「………とことん馬鹿にされているな。死ぬときくらいはせめて一人前の死神に迎えに来て貰いたかったんだが……」
「……だい、じょうぶ?」
「ああ、もうすぐ死ぬよ」
地獄は人手不足らしい。今の世、天国だって暇だろうに。いや、盗人で人殺しの自分が行くのは地獄か。
眼を閉じた。そうしていると心地よくて気分が静かになっていく。今なら大鎌で首を斬られようが、全身が腐敗しようが、禿鷹に啄まれようが、どうしてくれたっていい。
…………
「……おみず」
…………
「おみず、欲しい?」
……いや、彼女は本物であるようだった。自分もまだ生きているらしい。身体の感覚と共に、忘れそうになっていた。
「ねぇ、おみず」
「あ、ああ。……欲しいね。喉は渇いている」
死にかけの盗人は、その少女の親切に甘えることにした。ここまで来たなら、誰かに頼ったって罰はあたるまいと、そう思った。
「すこし、まってて。……まてる?」
「ああ、頑張ってみるよ。お嬢ちゃん」
「じゃあ……」と言って、少女は両手を盗人の前にかざして見せた。そこには、あの小汚い人形が抱きかかえられている。
「持ってくるから、この子、見ていて」
「……あ?」
間の抜けた返事だと思った。死にかけの人間が自分で思うのだから、よっぽどそうだったことだろう。しかしそんな事を気にしない少女は、その人形を抱えたままで続ける。
「エナっていうの」
「………」
人形の名前であるらしい。このお嬢ちゃんの名前も聞いていないというのに、まず人形の名前ときたものだ。
「ああ。……エナちゃんね。可愛い娘じゃないか」
「エナは妹よ」
「あ、ああ……そうか、そうか」
男は人形を両手で受け取った。死ぬ寸前で水が欲しかったというわけではなく、ただ何となくだ。少女の手に抱かれた人形が、ガサガサにくたびれた盗人の両手を誘ったのだ。
「まってて、もってくるから」
そう言って少女は大急ぎでどこかへ走っていった。盗人の人形への讃辞を聞いて満面の笑みを浮かべていた。
「よっぽど大事な人形なんだろうね」
まずその値段を考えてしまうのは盗みに手を染めてしまった者の性か。……勿論あんな小さな女の子に持たせる玩具が、大人の興味を引くほどの価値などある筈もないのだけど。
エナという名前の通り、それは女の子の人形であったが、肌も髪の毛も布。眼は縫いつけのボタン。手足は指も無く丸いだけで、唯一可愛かったであろう衣服も随分と汚れが目立ち、あちこちを繋ぐ糸は解れ始めてさえいる。……銅貨十枚が限度だろうか。
自分が盗んできたギラギラに輝く指輪とはあまりにも対称的であったが、盗人にはこちらの方には好感が持てた。見せびらかすような派手さが嫌いというのもあるが、このボロボロの人形がちょっと哀れで、それが自分の人生と重なって見えた為でもあった。
あるいは、盗人は家族を思い出していた。娘が生まれ、生きていれば、こんな人形を可愛がっていたのだろう。家内は縫い物が得意だった。いくつかの切れ端と、それにボタンがあれば、これぐらいの人形をいくつも、いくつも、生まれてきた子供の為に作ってやったことだろう。
「………」
人形を見る内、盗人はある事を思いついた。
それまでずっと握っていたあの指輪を手の中で確かめると、
その人形の背の糸が解れた所より入れ、中へとねじ込んだ。ずっと奥、どうやったって掻き出せないような奥へ、節くれ立った指よりも長く、そこからさらに伸びた爪で押しやった。
……ただ隠してくれればいいのだ。そのボロボロの身体に、これだけの綺麗な宝石があること。それで宝石を探すあいつらが悔しがればいい。……今まであいつらがないがしろにしてきたボロ着が、内に宝石を宿している。それを、思い知ればいい。自分はあの世から笑ってやろう。
「絶対に見つかるまいさ。へへ……ざまぁ見ろだ」
呟き、男は少しの間、その人形に添われて、……家族の幻を見た。
もうすぐそこに行く。いつも嫌がられていたが、今度こそ一杯に、自慢話を聞かせてやろう、と……
抱えた人形の姿が、誰かと重なり、ふっと動いたような気がした。
「……エナ、」
「ん……、持ってきたよ」
人形の名前を呟いたつもりだった。しかしあの少女がいつの間にか戻ってきていた。両手にはどこから持ってきたのか布切れと、大きな桶が握られている。今彼女が立っているだけで中に入った水が波打つ……それだけの量をこのお嬢ちゃんが一人で持ってきたというのには、随分驚きであった。
……いや、それだけこの少女が一所懸命であったということか。男はその優しさに、思わず涙がこぼれた。
「エナは、元気だったぞ。はは、お利口な子じゃないか」
盗人は人形エナを、桶を置いた少女に手渡してやった。それが、ほとんど最後の力であった筈だ。しかしそれでも、最後の仕上げをしなければならない。
「でも、あちこちが解れてきているな」
「………」
エナを人形として扱うのは、タブーであった筈だ。しかし少女は「解れる」の意味が分からなかったようだ。失言だったと口を結んでいたその男は、少しだけほっとし、続けた。
「服のことだ。その人形……あー…、いや、……エナちゃんは女の子なんだろ? だったらそんなボロボロの服を着せていちゃいけない。お母さんにな、繕ってもらいな」
少女は頷いた。一度だけはっきりと。
「よし、お前はいいお姉ちゃんになる」
盗人はそう言って、折角持ってきた水にも手を触れることなく眼を閉じ、そしてそのまま、動かなくなった。
薄れ行く意識の中で、彼は満足していた。
(これで指輪は見つからないだろう。この少女がエナを大事にしてくれている限り……まぁ指輪は、このお姉ちゃんの優しさに免じて、エナにプレゼントだな)
その最後の呟きは、人形を抱えて立ちつくす少女に聞こえる筈もなく、
少女も又、水も飲まずに眠ったまま動かなくなってしまった男の「死」を理解できず、しばらく立ちつくし、
…やがて、一度だけ空を見上げると、水桶を傍らに置いて走り去っていった。
男は直前まで忘れていた。
自分が逃げてきた場所、……貴族達がなかなか手を出せなかったその場所は、この近辺では有名な大海賊団『フィーニ・オードインク』の拠点、フレスガノンの街があると噂される場所であり、それ以外の集落など存在せず、もし噂の通りならば、当然こんな少女がたった一人でうろつくにはいささか場違いな場所であるということ。
男は、それに気が付かないまま、その死神と見間違えた優しい少女に見守られながら、この世から旅立っていった。
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