幽世の扉
明蓮と共に私の寝床である森の泉へ向かって歩く。いつもの旅行では私が道中様々な知識を語り、明蓮は気のない返事をするというやり取りが続くのだが、今は二人とも無言で歩いている。
明蓮は元々自分から話すことはないのでいつも通りだが、私は気がかりなことがあって意識がそちらに向いているのだ。
「どうしたものか」
「ん? 何かあったの?」
私が呟いた言葉に明蓮が反応し、こちらに顔を向けてきた。
「うむ、先程からアリスとオリンピックが我々の後をつけている。このままだと私の正体や君の能力がオリンピックに知られてしまうだろう」
「ええっ!? 困るじゃない、どうするのよ?」
「オリンピックだけなら姿を隠してしまえばいいが、アリスの能力は未知数だ。少なくとも信仰の力は私より強いので、神通力で上回られる可能性もある」
「……あんな女の子が竜神より強いの? 正体は別とか?」
「アリスはあの姿が基本だ。ルイス・キャロルの小説は知っているか?」
「えっ、アリスちゃんってあの『アリス』なの?」
「ああ。黄河の神である私より、ずっと多くの人間に認知されている神だ」
「黄河の方が知ってる人も恩恵を受けてる人も多いんじゃない?」
「黄河はそうだな。だが『黄河の神・河伯』を知っている人間はずっと少ないので、具体的なイメージとしてはアリスの方がよほど強固だ」
「はあ、マレビトって面倒くさい」
長々と会話しているが、周りに聞こえないように小声で話している。明蓮はアリスの正体を知って頭を抱えた。
「……黄河、か。アンタが生まれた場所もそこってこと?」
「ああ。幽世の方なので実際の黄河とはかなり違うが」
私の返事を聞くや否や、明蓮が鞄から本を取り出す。
「そこの路地に入って」
彼女に促され、二人で人気のない路地に入る。と、明蓮が本を開いて呪文を唱えた。
「魔導書アカラント=タルガリアよ、
常世の国とは幽世の別名だ。現世と時間の流れが違うためにそう呼ばれるが、なるほど、幽世に逃げ込んで扉を閉じればアリスも追ってこれない。街中で秘術を使うとは思い切ったものだが、人間の目に入らなければ大した問題ではないだろう。
「じゃあ今日はアンタが案内してよ。どんなところで眠っていたの?」
幽世に入り、扉を閉じると緊張が解けたのかいつになく穏やかな表情で私に案内を要求してきた。だが笑顔にはならない。残念だ。
「ではまず海を越えようか。私の背中に乗るといい」
「うん」
竜の姿に戻り、明蓮を背中に乗せた。幽世での移動はこのスタイルが手っ取り早くていい。現世とあまり変わらない地形だが人家はなく、ところどころに光り輝く樹木が生えている景色を見ながら空を飛んでいく。
「こっちの世界の方が美しいと思うんだけど、なんでアンタ達はあっちの世界にやってきたの?」
珍しく明蓮が質問をしてきた。ずっと期待してきた状況が実現し、私の心に予想以上の嬉しさが湧いてくる。調子に乗って喋り過ぎないように気をつけなくては。せっかくその気になった彼女をうんざりさせてしまってはいけない。
「この世界は退屈だからな。それにオリンピックのような人間が幽世に興味を持つのと同じで、現世に行けるとなったら行きたくなるものだ」
「アンタら旅行好きだもんね」
会話が弾む。どういう心境の変化があったのだろうか?
この状況を望んで私は人間の学校へ向かったのだが、彼女の心を私が変えるような出来事には全く心当たりがない。それが私にとっては残念なことである。会話を楽しみつつも、彼女の心変わりの理由が気になって落ち着かなかった。
しばらくして、黄河へ到着する。これだけ移動するとさすがに現世とはかなり地形も様相も違ってきた。幽世は常に変化を続けているのだ。
「ここが私の生まれた場所だ。この河の中で数千年眠り続けていた」
「へぇー、こっちの黄河は水が澄んでるんだ。これじゃ黄河にならないね」
「あちらの黄河は確かに黄色く濁っているが、上流は澄んだ水が流れている。この河も水が澄んでいる時もあれば黄色い時もある。幽世の風景は常に変化を続けているからな。だから、我々には故郷を懐かしむという気持ちがない。変わらない風景を毎日見ることが出来る現世は、マレビトにとっては憧れなのだ」
「……そうなんだ」
明蓮は澄んだ黄河を見ながら、ただそれだけ呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます